市場の質の法と経済学――市場高質化を通じた、経済の健全な発展成長に向けて

古川 雄一
ファカルティフェロー

なぜ、わが国ではイノベーションが豊かさにつながらないのか

歴史を通じて、さまざまなイノベーションが登場し、世界の経済・社会活動のありようを変革しながら、われわれの生活の豊かさを向上させてきた。20世紀における自動車やコンピュータ、インターネットの開発・普及など、例をあげれば枚挙にいとまがない。

近年の我が国に目を向けてみると、イノベーション活動は堅調のようである。例えば、世界経済フォーラムによるイノベーション・ランキング(2015-2016)で日本は5位にランクインしている。また、ノーベル受賞者数ランキング(2016)でも、自然科学分野に対象を絞れば、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスに次ぐ5位である。イノベーション能力や産学連携などの具体的な項目に関して、直近の国際的プレゼンス低下を指摘する声もあるが(『通商白書2017』223ページ)、日本が世界のイノベーションの一翼を担ってきたのは事実と言ってもよいだろう。

他方、生活の豊かさについてはどうだろうか。1人あたりGDPの水準では、アメリカやヨーロッパの先進諸国に後れをとる状況が続いている。また、世界価値観調査などのさまざまな幸福度調査によれば、先進国中、日本の幸福度指数は軒並み低い水準にある。これらの事実は、多くの人が豊かさを実感できずにいることを強く示唆するものである。

なぜ現代の日本では、イノベーションが豊かさに十分につながっていないのだろうか。

原因は低質な市場にある

市場の質理論によれば(矢野 2005、矢野・中澤 2015) 、イノベーションが豊かさにつながらない主要な要因は「市場の質の低さ」に求めることができる。商品に品質の高低があるように、市場にも質がある。これは市場の質理論の根幹をなす考え方である。では、質の高い市場とはどのような市場か。

この問いに答えるためには、まず、質の低い市場をイメージしてみるとわかりやすい。例えば、押し売りや詐欺、ぼったくりが横行しているようでは、市場の質は低いと言わざるを得ないだろう。あるいは、商品の品質が低く、バラエティに乏しい。粗悪品と良品が玉石混交として取引されているような市場もまた、低質な市場と言ってもよいだろう。このような不健全な状態にない市場を、質の高い市場とみれば、先の問いに次のように答えることができる。

高質な市場とは、「良い製品が適切な価格で取引され、より良い製品が絶えず導入されている」市場である(矢野2005)。

逆にみれば、良質な商品やサービスを適切な価格で享受し続けるには、市場の質を高めることが重要である、とも言える。だとすれば、次に考えるべきは、市場の質を高める方法である。

市場の機能を支える市場インフラと市場高質化

市場の質理論の基本命題の1つに、「適切な市場インフラのコーディネーションが、高質な市場の必要条件である」というものがある(Yano 2009)。ここでいう市場インフラとは、法制度を核に、文化、慣習、価値観といった、人々の市場での活動をとりまくさまざまな要因を含む、複合的な概念である。市場の質理論の観点に立てば、日本経済が直面する問題を、次のように表現することができる。

法制度、文化、慣習、価値観など多岐にわたる市場インフラをどのようにコーディネートすれば、高質な市場を創出することができるのか。その先にある、日本経済の健全なる発展成長を実現することができるのか。

この問いを中心テーマに据え、2018年3月、筆者をリーダーとする研究グループは、新プロジェクト「市場の質の法と経済学に関するエビデンスベースポリシー研究」を立ち上げた。

迂回原理に基づく、新しい法と経済学

与えられた目的を達成するために、その目的に直接働きかけるような戦略設定は望ましくない。魚をとりたいなら、すぐに海に飛び込まず、まず網を作るほうがよい。山から木を伐りだしてきて、船を造り、大きな網でとるほうがさらによい。これは迂回原理として19世紀の歴史経済学者ロッシャーが展開した話である。

市場の質理論は迂回原理に強く立脚する立場をとる。市場高質化という目的に対して、例えば補助金などの政策手段を単独で用いて製品の質・価格・生産量に直接働きかけるというのではなく、より根治療法的な、問題を抜本的に解決する方法を探ることを目指す。つまり、市場インフラ全体を見て ― そこには、法制度、政策、規制のみならず、文化、慣習、倫理なども含まれる ― それらの望ましいコーディネーションのあり方を検討し、市場高質化をもたらす経済システムのデザインすることが、市場の質理論の大きな目標と言える。このようなアプローチは、広く見れば、法学における立法論、政治学や経営学におけるガバナンス、経済学におけるメカニズム・デザインなど、迂回原理の精緻化に成功した20世紀の社会科学の1つの大きな流れの延長線上にあると位置づけられる。

しかし、目的に直接働きかけず迂回するとは言っても、何も考えずただやみくもに迂回するのでは意味がない。十分なエビデンスと精緻な理論に基づかなければ、適切な迂回戦略をとることは難しい。このような問題意識に基づき、本プロジェクトは、市場高質化に必要なメカニズムを理論的に解明し、同時に、自ら構築するエビデンスに基づいて、理論を実証していく。そのためには、データに基づき、市場の質を正確に数値化・定量化し、法制度などの市場インフラと経済現象との間の因果関係を把握していく必要がある。

現在、本プロジェクトでは、国内外の研究協力者との連携のもと、社会の信頼関係、生命科学的な要素(ゲノム情報、生活習慣等)、文化、貿易制度、情報制度など、これまで十分に分析されてこなかった市場インフラに注目して、理論の構築とエビデンスの蓄積を進めているところである。一定の分析結果が得られた暁には、もう一歩進んで、市場高質化による健全な発展成長を可能にする、望ましい法制度のデザインの提案につなげることができればと考えている。そうすることで、最終的には、迂回原理に厳しく立脚した、市場の質の法と経済学とでも呼ぶべき、新たな法と経済学分野の開拓を模索していきたい。

市場インフラとしての「新しいモノ好き」な国民性

最後に、本プロジェクトが進めている研究テーマの中から、特に筆者が主導して進めているものを1つ紹介し、本コラムの締めくくりとしたい。

人々がより「新しいモノ好き」であるほど ― つまり、新しいアイディアや商品を嗜好する人々の性質が強いほど ― 社会はより多くのイノベーションを生み出すことができる。これは、一般に信じられている社会通念であるといってよい。イノベーションは経済成長の源泉なので、このような新奇性を好む人間の性質-いわゆる新奇性追求傾向 (novelty-seeking traits)―は経済の発展成長にとって欠かせない、と考える人もいるだろう。

しかし、最近の実証研究の結果によれば、一般の社会通念に反して、人々の「新奇性追求傾向」はかならずしも経済成長に良い影響を与えないかもしれない。本プロジェクト最初の成果物であるディスカッション・ペーパー『新奇性追求傾向とイノベーション』(Furukawa, Lai, and Sato 2018) によれば、新しいモノ好きな国民性が、かえって、経済全体のイノベーションを抑制する方向に働く可能性がある。また、開発経済学分野における一流学術雑誌である Journal of Development Economics 誌に昨年掲載された論文において(Gören 2017)、新奇性追求傾向が強すぎると、経済発展をかえって阻害する効果を持ちうることも指摘されている。

国民の「新しいモノ好き」な性質が必ずしもイノベーションや経済発展に対してプラスに働かないかもしれない。この結果は、新奇性追求傾向という文化・国民性が、政策や制度のあり方を考える際に考慮すべき重要な市場インフラであることを主張している。このことはさらに、

文化・国民性の異なる外国で成功した政策・制度設計をそのまま我が国に導入しても、適切に機能しない

という可能性を示唆している。「新しいモノ好き」な社会とそうでない社会とでは、市場インフラ全体のコーディネーションのあり方も異なるため、市場高質化を達成する望ましい法制度・経済政策のデザインも異なりうるからである。このような視点は本プロジェクト特有のものであり、イノベーション政策の議論に新たな論点を付け加えうるのではないか、と筆者は考えている。

今後にむけて

市場の質は、矢野 (2005) などによって提唱された、経済学においてまだ新しい概念である。核となる重要な論文がかなり蓄積されてきたとはいえ、研究はまだまだ発展途上で、市場インフラの役割についても、解明すべき問題が多く残されている。本プロジェクトは、今後、個々の市場インフラが市場の質に果たす役割を1つ1つ明らかにしていく。そこで得られたエビデンスを総合的に勘案し、健全な発展成長を可能にする、法律、政策、制度などの市場インフラのデザインを解明する計画である。それを通じて、最終的には、市場の質理論に立脚した、新たな法と経済学分野の開拓を模索していきたいと考えている。


本コラムの執筆にあたって、鈴木崇児氏(中京大学経済学部教授)と矢野誠氏(経済産業研究所所長)から多くの有益なコメントをいただいた。ここに記して、謝意を表したい。

参考文献
  • 経済産業省『通商白書2017』
    (第2部第3章へのリンク: http://www.meti.go.jp/report/tsuhaku2017/pdf/2017_02-03-02.pdf
  • 矢野誠, 『「質の時代」のシステム改革―良い市場とは何か?』, 岩波書店, 2005年.
  • 矢野誠・中澤正彦編著『なぜ科学が豊かさにつながらないのか?』慶応義塾大学出版会 2015年.
  • 矢野誠・古川雄一「市場の質理論」, 矢野誠・古川雄一編著『市場の質と現代経済』勁草書房, 序章, 2016, 所収.
  • Furukawa, Yuichi & Lai, Tat-kei & Sato, Kenji, 2018. "Novelty-Seeking Traits and Innovation," RIETI Discussion Paper Series 18-E-073, October 2018.
  • Gören, Erkan, 2017. "The persistent effects of novelty-seeking traits on comparative economic development," Journal of Development Economics, 126: 112-126.
  • Yano, Makoto, 2009. "The foundation of market quality economics," Japanese Economic Review 60, 1-32.

2018年11月7日掲載