はじめに
2008年の世界金融危機と2011年のWTOドーハラウンドの頓挫を受け、この数年、地域貿易協定(RTA)の動きに再び弾みがついている。2008年以降、米国が進行中の多国間自由貿易協定(FTA)交渉に参加の意向を公式に表明した後は、環太平洋経済連携協定(TPP)がアジア太平洋地域で最も脚光を浴びるRTA構想として急浮上した。TPPに刺激され、他のRTA構想も交渉が加速している。
一方、アジア太平洋地域の電子機器サプライチェーンの急速な拡大は注目すべき現象であるが、これは地域の多くの国の輸出額に占めるシェアが大きいというだけでなく、域内貿易の持続的な成長に寄与し、地域のサプライチェーンのつながりを強化しているからである。このように電子産業は多くの国の経済にとって重要であるため、地域の電子機器サプライチェーンに組み込まれている国は、RTAの取り組みに注力しつつ、電子機器部門の成長促進に向けてさまざまな政策措置を講じている。
しかし、まだ検証されていない興味深い疑問点がある。それは、各RTAが各国の電子機器部門と、その電子機器サプライチェーンにおける地位にどのような影響を及ぼすか、という点である。RTAの成果によって期待される全体の経済厚生とGDP成長については多くの研究があるが、RTA構想が特定部門に与える影響について検証した研究はほとんどない。本稿の目的は、アジア太平洋地域の電子機器部門にRTAが与える影響の検証に第一歩を踏み出し、研究のギャップを埋めることである。さまざまな制約はあるが、グローバル・サプライチェーンがより集約的・複雑化するなか、RTA、電子機器部門、産業政策の関連についてさらに議論を喚起する一助となれば幸いである。
RTA構想がブームに
現在、TPPに加え、他のRTA構想も進行中である。米国主導のTPPと比べ、ASEAN主導の東アジア地域包括的経済連携(RCEP)は16カ国が参加、2015年の妥結をめざす。関税問題に関する第2回閣僚会合が8月末に開催されたばかりだ。
一方、東アジアの三大経済大国である中国、日本、韓国も、長年にわたる共同研究を経て「日中韓FTA交渉」に入った。最近も9月初めに、意見の違いを乗り越え、交渉を加速させようと第5次交渉を北京にて行った。また、太平洋を隔てたペルー、チリ、コロンビア、メキシコも2011年に太平洋同盟を創設し、アジア諸国との自由貿易をさらに進めると表明した。いうまでもなく、自由貿易推進の旗手とされるアジア太平洋経済協力会議(APEC)は2006年、21カ国・地域を含む地域統合ビジョン、いわゆるアジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)を打ち出した。2010年には、APECの指導者らがFTAAPの実現に向けた道筋としてASEAN+3、ASEAN+6、TPPを活用し、発展させることでFTAAPを実現することを確認した。
アジア太平洋地域における電子産業の重要性
RTAの動きは域内で広がっているが、各国にまたがる複雑なサプライチェーン・ネットワークを持つ電子産業は、域内の多くの国できわめて重要な役割を果たしてきた。表1が示すように、2011年時点で、電子機器貿易額の地域上位7カ国・地域が、世界全体の電子機器輸出額%に占める割合は60%を越え、世界全体の輸入総額に占める割合も50% 以上であった。表2は、電子機器の輸出額、輸入額を示している。
国・地域 | 世界全体の電子機器輸出額に占めるシェア(2011年、%) | 世界全体の電子機器輸入額に占めるシェア(2011年、%) |
---|---|---|
中国 | 24.4 | 14.5 |
香港 | 8.6 | 8.5 |
米国 | 7.6 | 13.9 |
台湾 | 5.7 | 2.7 |
日本 | 5.4 | 4.2 |
シンガポール | 5.2 | 4.8 |
韓国 | 5.0 | 2.8 |
出所:Wood, Christopher and James Tetlow, 2013, "Global Supply Chain Operation in the APEC Region: Case Study of the Electrical and Electronics Industry," Singapore: APEC Support Unit, p. 7. |
国・地域 | 電子機器輸出額(2011年、10億米ドル) | 電子機器輸入額(2011年、10億米ドル) |
---|---|---|
中国 | 597.79 | 380.31 |
香港 | 211.00 | 223.56 |
米国 | 186.24 | 364.48 |
日本 | 132.08 | 109.52 |
シンガポール | 128,08 | 93.91 |
韓国 | 121.85 | 74.50 |
台湾 | 116.97 | 62.01 |
出所:Wood, Christopher and James Tetlow, 2013, "Global Supply Chain Operation in the APEC Region: Case Study of the Electrical and Electronics Industry," Singapore: APEC Support Unit, p. 8. |
表が示すように、アジア太平洋地域は、世界地図上、電子産業の活発な一大拠点となっている。しかし、国際通貨基金(2011)が指摘するように、低位な労働集約型の組立工程を低賃金の途上国に移す電機メーカーが増えており、地域統合の取り組みの結果、これまでの強さを維持できるかは不透明である。RTAは対象地域の加盟国間の貿易と投資の流れを加速させることが予想され、これに伴い、地域の電子機器サプライチェーン・ネットワークが再構築される可能性がある。したがって、各RTAの影響を電子機器部門レベルで検証することが重要である。
GTAPシミュレーション
RTAが電子機器部門に及ぼす影響を把握するため、本稿では国際貿易分析プロジェクト(GTAP)モデルを用いて、応用一般均衡モデル(CGE)を採用し、分析を行った。最新のGTAP 8.1データベースは、134カ国・地域、57品目を対象としている。ここでは、電子機器製品の過半数が含まれるNo. 40電子機器に焦点をあてる。
本稿は、(1)TPP、(2)RCEP、(3)FTAAPというRTAの3つのシナリオに注目し、各シナリオがアジア太平洋各国の電子機器部門に及ぼす影響を分析した。各シナリオとも、関税ゼロ、例外なしと仮定する。GTAPの制約要因を踏まえ、財の貿易だけを分析対象とし、非関税障壁、サービス、海外直接投資の影響は考慮しない。数字ではなく、GDPの成果が示すトレンドこそ重要だということを強調したい。
GTAP分析の結果
RTAが電子機器部門に及ぼす影響は数多くの指標を使って分析できるが、本稿では主に、RTAが電子機器部門の生産量の増減(%)にどう影響するのかに焦点をあてる。以下の表に3つのシナリオの結果を示した。特定のRTA構想への参加・不参加により、特定の国・地域の電子機器部門の生産量は恩恵と損失のどちらを受けるのかをまとめた。
(1) TPP シナリオ:
恩恵を受ける国 | 生産量の増減(%) | 損失が生じる国 | 生産量の増減(%) |
---|---|---|---|
TPP 加盟国 | |||
1.ベトナム | 12.78 | 1.ペルー | -4.24 |
2.メキシコ | 0.83 | 2.ニュージーランド | -2.51 |
3.カナダ | 0.81 | 3.シンガポール | -1.44 |
4.マレーシア | 0.67 | 4.チリ | -1.3 |
TPP 非加盟国 | |||
インドネシア | 10.77 | カンボジア | -6.17 |
韓国 | 3.43 | ラオス | -3.48 |
(2) RCEP シナリオ:
恩恵を受ける国 | 生産量の増減(%) | 損失が生じる国 | 生産量の増減(%) |
---|---|---|---|
RCEP 加盟国 | |||
1.ラオス | 70.87 | 1.オーストラリア | -7.03 |
2.ベトナム | 20.24 | 2.シンガポール | -3.24 |
3.インドネシア | 7.34 | 3.ニュージーランド | -2.01 |
4.タイ | 5.61 | 4.日本 | -0.89 |
RCEP 非加盟国・地域 | |||
台湾 | 1.41 | 香港 | -2.9 |
米国 | 0.48 | メキシコ | -0.31 |
(3) FTAAP シナリオ:
恩恵を受ける国 | 生産量の増減(%) | 損失が生じる国 | 生産量の増減(%) |
---|---|---|---|
FTAAP 加盟国・地域 | |||
1.ラオス | 68.11 | 1.ニュージーランド | -5.66 |
2.ベトナム | 17.82 | 2.メキシコ | -5.26 |
3.インドネシア | 12.16 | 3.オーストラリア | -3.94 |
4.タイ | 9.79 | 4.ロシア | -3.74 |
5.マレーシア | 5.26 | 5.台湾 | -3.51 |
分析と含意
上記の結果は重要な意義を示している。まず、RTAに参加することによって国全体の経済厚生が上昇しても、各部門が同様にRTAの成果の恩恵を受けるわけではない。電子機器部門の生産量については、RTAへの加盟によって一部の国は損失を受ける可能性もある。
第2に、途上国では、電子機器部門の生産量が先進国と比べて大幅に伸びる可能性が高い。ラオスやベトナム、インドネシアなど、一部のASEAN諸国は、現在、電子機器分野の拠点である先進国と新興工業国と比べてその業績は十分良い。とはいえ、RTAの影響によって電子機器サプライチェーンが途上国へとシフトするかどうかは、さらに検証が必要である。
第3に、RTAは各部門にプラス、マイナス両方の影響を及ぼし、勝ち組と負け組を生む可能性が高い。各国は、RTA勝ち組の部門は自国の経済発展戦略にとって望ましく、適切なのか、また、RTA負け組の部門がもたらしかねない政治的・経済的影響に対し、十分な準備があるのか、検討することが不可欠である。
第4に、RTAにいたる手段と参加のタイミングの選択は、国のFTA戦略を考える上できわめて重要である。部門レベルにおけるRTAの影響を慎重に評価することは、国が優位な産業を強化することを効果的に後押しする一方、脆弱な部門において必要な国内改革と政策調整を行うための時間稼ぎにもなる。このため、国は戦略的・経済的評価を踏まえ、RTAにいたるいずれかの手段を他から選ぶだろう。
結論
要するに、RTA現象の広がりと成長著しい電子機器サプライチェーン・ネットワークは、完全に市場原理に基づいているのではなく、ある程度は政策の選択の結果による。このため、各国政府はやみくもにRTA競争の渦中に飛び込む前に、RTAの部門レベルの影響を慎重に分析することが重要である。
国の電子産業の競争力は電子機器部門の生産量の増減によって完全に示されるわけではないが、重要な意義が含まれており、さらなる検証が必要である。多くの国がRTAへの加盟を積極的に目指すと同時に、電子産業の促進に向けた政策上の取り組みを十分行っているが、2つの政策が実際のところ補完的なのか、あるいは自己矛盾的なのか、いまだはっきりしない。さらに詳しく、高度な研究を行うことにより、RTAに関するより良い政策決定について、あるいは堅実で将来を見据えた産業政策とは何かについてヒントが得られるだろう。