賃金政策における日本の選択肢

青栁 智恵
コンサルティングフェロー

Giovanni GANELLI
コンサルティングフェロー

デフレ脱却に向け、経済の好循環を生み出すためには、実質賃金の引き上げが重要である。賃金が上昇すれば、積極的な金融政策と財政政策が牽引したアベノミクス第1段階から、持続可能かつ民間主導の成長という第2段階に移行できるだろう。しかしながら、日本では賃金の下方弾力的・上方硬直的な傾向がみられ、労働市場が逼迫する場合においても賃金の自然上昇にはつながらない。その結果、日本では過去20年間、実質賃金上昇率が生産性上昇率を下回っている。2002~2008年の景気回復期においても、実質賃金上昇率が生産性上昇率をわずかに上回ったのは2年間だけであった。日本はこの点においてG7諸国の中で突出している(グラフ参照)。

Figure: Real wage and productivity growth
Figure: Japan

日本の賃金が伸び悩む原因

日本の賃金が伸び悩む原因についてはさまざまな解釈がなされてきた。たとえばデフレと関連してコストに関する懸念、競争力への懸念、春闘が賃金全体に与える影響力の低下などである。また、日本の労働市場の構造的な特徴(労働力の水平的流動性が低いこと、企業内人事異動、年功序列制度など)によって、競合相手から人材確保の目的で賃金を引き上げるインセンティブは小さい。さらに交渉力が弱く、低賃金の非正規雇用が拡大したことも原因として挙げられる。

以上すべての要因に対処するには、デフレ脱却だけでは不十分であり、構造改革が必要であるが、経済に影響を与えられるまでには、ある程度の時間を要する。このような状況の下、日本が短期的に賃金上昇を促進することは、適切な措置である。本稿では、賃金上昇に関して幾つか選択肢を示したい。

賃金政策の選択肢

社会的協調:過去、欧州諸国の一部で行われてきた取り組みである。欧州での関心は賃金抑制によるインフレ克服だが、この枠組みは賃金上昇によるデフレ脱却を目的とする日本にも適用できるだろう。

日本は社会的協調の方向に向かっている。賃金に関する議論において、政府が経済界、労働界に直接関与する政労使会議はこのような取り組みの一例である。政労使会議の長所の1つは「出口戦略」を備えている点である。賃金上昇が度を超して労働生産性を上回った場合、政府は同じ場 (政労使会議の会合) で賃金抑制を提言できる。一方、交渉に政府が関与することで交渉過程を細かく管理し、個々の企業レベルにまで過干渉する危険性はマイナス面で、これは避けなければならない。

賃上げを実施した企業に対する税制優遇制度:2013年4月に導入され、その後対象が拡大された税制優遇措置は、日本以外の事例はほとんどない。5年間継続される予定で、一定以上賃金を引き上げた企業に対し、人件費増加額の10%が税額控除の対象となる。この制度の欠点は、消費の拡大に最も有効な手段であるベースアップ(ベア)実施と、ボーナスを区別していない点である。また、財政的な負担も大きい。大幅な賃金上昇政策の終了時期については、優遇措置が期間限定で行われることが望ましいが、いったん賃金が上昇し、物価が上昇すれば優遇措置を縮小することが困難になる恐れもある。

新たな選択肢:賃金政策の手段としての最低賃金

論理的可能性を探って議論を活性化させるため、新たな選択肢を紹介したい。平均賃金に影響を及ぼす政策手段として、最低賃金を用いるという選択肢である。最低賃金政策は多くの先進国で注目を集めている。たとえば現在、米国では格差縮小の目的で最低賃金を引き上げるべきか否か議論されている。一方ドイツでは、連立政権によって2015年の法定最低賃金導入が発表された。国際通貨基金(IMF)が発表した論文"Jobs and Growth: Analytical and Operational Considerations for the Fund" [雇用と成長: IMF における分析的および運営面の考察] によると、最低賃金引き上げによる賃金効果を推計した研究のすべてにおいて、最低賃金引き上げが公式経済の賃金を上昇させるという結果がみられた。日本の場合、最低賃金の引き上げはデフレ脱却の後押しを意味する。同論文によると、最低賃金の引き上げによる雇用全体への悪影響はわずかに見られるか、あるいは全くなかった。しかしながら特定の労働者の集団(若者、女性、小規模事業所の従業員)については、悪影響がみられた。

最低賃金は日本の平均賃金にどのような影響を与えるのか?

以上をふまえ、最低賃金引き上げが平均賃金上昇に及ぼす影響を評価するべく、都道府県レベルのパネルデータによる推計を行った。われわれは都道府県別の最低時給と、平均賃金に影響を与える可能性のあるコントロール変数を用いて、各都道府県の平均時給を回帰分析した。コントロール変数には失業率、成長率、インフレ率、就業者数に占める製造業の割合、人口に占める高齢者の割合が含まれる。

分析の結果は推計方法によって異なっているが、最低賃金引き上げによって日本の平均賃金が上昇するという事実をやや裏付けるものであった。母数効果モデルを用いた場合、最低賃金引き上げが平均賃金に与える影響は統計上、有意ではない。変量効果モデルの場合、回帰分析の結果、最低賃金を時給1円引き上げると平均時給は0.6円上昇し、信頼度水準95%で統計上、有意であった。

以上の結果と、日本の最低賃金が相対的に低い水準(OECD諸国の中で最低水準)であることを考慮すると、最低賃金の大幅な引き上げは、賃金上昇を促進する可能性がある。しかしながら、最低賃金引き上げのトレードオフについて徹底的に検討し、慎重に政策を調整すべきである。最低賃金を引き上げると一部の部門の労働者の雇用機会が犠牲になるが、平均賃金は上昇する。付加価値の低いサービス部門の労働者や低学歴の労働者の平均賃金は、他部門の労働者と比較して、相当低い水準である。最低賃金の引き上げによってこのような労働者の賃金が「留保賃金」(企業が労働者に支払っても良いという最低限の賃金)を上回った場合、マイナスの影響を受けてもおかしくない。最低賃金引き上げによる雇用への悪影響を抑制するため、特定部門の労働者は適用外にするという方法もある。現実的には、雇用への大きな悪影響を回避する一方、平均賃金を効果的に上昇させるという、微妙なバランスを維持しつつ、最低賃金を引き上げなければならない。中小企業は最低賃金引き上げのしわ寄せを受ける可能性があり、たとえば金融部門の改革によって、市場ベースの信用供与を拡大するなど、補完的な改革の実施が重要になる。

実際にはどのように最低賃金を政策手段として使うのか?

政府には、最低賃金を大幅に引き上げることのできる制度的枠組みがある。最低賃金は各都道府県ごとに設定されているが、金額決定に際して政府が果たす役割は大きい。厚生労働省に設置される中央最低賃金審議会は、都道府県の最低賃金引き上げ額の目安を決定する。各都道府県の地方最低賃金審議会はその目安を参考にしつつ、各地域の実情に応じた最低賃金額をそれぞれ決定し、各都道府県は毎年10月に最低賃金額を改定する。中央最低賃金審議会の答申は法的強制力を持たないが、都道府県の最低賃金の最低額を事実上、規定するものである。

最低賃金の設定を「告知」することで、プラスのシグナル効果を最大限に引き出す一方、競争力への悪影響を軽減できる。政府が、一連の最低賃金の大幅引き上げを目指している旨を発表することも一案である(たとえば今後3年間の最低賃金引き上げ額に関する目標設定を明確にする)。このような告知によって恒常所得と消費を即時に引き上げられる一方、企業側のコストや競争力への悪影響を軽減できる。政労使会議の場合と同様、明確な「出口戦略」が備わっており、平均賃金が生産性向上を上回って上昇し始めた場合、政府は中央・地方最低賃金審議会に働きかけ、最低賃金の引き上げ幅を小さくするように主張、もしくは「告知」できる。

*本稿の内容は筆者の見解であり、IMF、IMF 理事会またはマネジメントおよび経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

本コラムの原文(英語:2014年4月9日掲載)を読む

2014年4月15日掲載

2014年4月15日掲載

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