BSEとSPS (衛生植物検疫措置)

山下 一仁
上席研究員

BSE

狂牛病とも呼ばれたBSE(牛海綿状脳症)は、牛の脳の組織にスポンジ状の変化を起こし、起立不能や運動失調などの症状を出させる中枢神経系の疾病である。これは異常プリオンが病原体であるとされ、BSE感染牛から生産された異常プリオンを含む肉骨粉を飼料として牛に給与したことがBSEがまん延した原因とされる。

1996年3月にイギリス政府がBSEと人間の脳にスポンジ状の変化を起こす変異型クロイツフェルド・ヤコブ病(vCJD)との関連性を認めたため、各国はいっせいにイギリスからの輸入を禁止した。我が国では2001年に最初のBSE感染牛が発見され、国内の牛肉市場は大変な混乱に陥った。2003年アメリカでBSE感染牛が確認された際、我が国は直ちにアメリカからの牛肉等の輸入を停止した。これを巡って数次にわたり日米間で交渉が行われ、2005年せき柱含めた特定危険部位(SRM)を除いた20カ月齢以下の牛肉の輸入が認められた。2006年1月アメリカから輸入された牛肉の中に特定危険部位であるせき柱が含まれていることが判明し、我が国は再びアメリカ産牛肉の輸入手続を停止した。同年7月に輸入は再開されたが、2007年2月には20カ月齢以下ではない牛の肉の混入が発見されている。2008年に入り、1月に発覚した中国産冷凍ギョウザによる中毒事件に続いて、4月アメリカから輸入された牛丼チェーン吉野家の牛肉に特定危険部位のせき柱が入っていたことが判明した。

食の安全と貿易

今日の食品の安全性を巡る問題は現代社会の2つの特徴と結びついている。1つは科学技術の進展によって、農業や食品産業が一昔前とは大きく変わったということである。たとえば、コシヒカリや霜降り牛肉など以前は考えられなかったようなおいしいものが食べられるようになっている。これは作物や家畜の改良という技術進歩の賜物である。また、簡便な冷凍食品が普及しているが、これも加工や流通の技術進歩の賜物である。しかし、技術進歩によって、農薬や食品添加物が多用されるようになったり、草だけを食べてきた牛に肉骨粉を与えるようになってBSEという新しい病気が発生してしまうという問題がおきている。もう一つは、グローバル化や貿易の進展である。BSEも貿易がなければ我が国で発生しなかった。特に、食品・農産物供給の多くを輸入に依存している世界最大の農産物純輸入国である日本にとって、食の安全と貿易は国民の大きな関心事である。

SPS措置をとる主権的権利と偽装された貿易制限

国家は自国民の生命・身体の安全や健康を守る主権的権利を有する。食品・動植物の輸入を通じた病気や病害虫の侵入を防ぐため導入されるSPS措置(Sanitary and Phytosanitary Measures:衛生植物検疫措置)は国民の生命・身体の安全や健康についての正当な保護の手段である。グローバル化の進展の中で十分なSPS措置が確保できなくなれば、食の安全が脅かされるという消費者からの強い批判がある。

他方、累次の国際交渉により関税が引き下げられるなど伝統的な貿易手段が使いにくくなっている中で、これに代わるものとしてSPS措置が国内産業(農林水産業・食品業界)の保護のために使われるようになっているという指摘がある。貿易の自由化の観点からは偽装された貿易制限(保護貿易主義の隠れ蓑)となっているSPS措置の制限・撤廃が求められる。しかし、真に国民の生命・身体の安全や健康の保護を目的としたSPS措置であっても、貿易に対して何らかの効果を与えることは疑いのないところである。このため、生命・身体の安全や健康の保護を目的とした真正の措置と貿易制限を目的とした措置との区分は容易ではない。SPS措置が国民の生命・身体の安全や健康に直接かかわるものだけに、適切かつ必要なSPS措置の実施と貿易の推進という目的を調和させることは困難を伴う。

SPS協定とハーモナイゼイション

国民の生命・身体の安全や健康の保護という要請と貿易自由化の推進という要請のバランスを図ろうという試みが1986年から開始されたガット・ウルグァイ・ラウンド交渉の一環として行われた。その結果1994年合意されたWTO・SPS協定は、この問題の解決を「科学」に求めた。科学的根拠に基づかないSPS措置は認めないとしたのである。ある生命・健康へのリスク(危険性)が存在すること、そして当該措置によってそのリスクが軽減されることについて、科学的根拠が示されないのであれば、その措置は国内産業を保護するためではないかという疑いが高いと判断したのである。他方で、国内産業を保護する意図がない措置であっても科学的根拠に基づかないものはSPS協定に違反することになった。

しかし、SPS措置を科学に基づかせることに各国とも異論がないとしても、貿易の促進を望む輸出国と、科学が間違った結論を出した場合に輸入食品や農産物による病気の侵入や健康被害等のコストを負担せざるをえない輸入国との間で対立が生じる。科学にもさまざまな意見や見解が存在し、かつ変化する。かつて安全とされた食品や添加物に発がん性などの新たなリスクが発見される場合も少なくない。BSEはその典型である。1996年にイギリス政府がBSEと人の変異型クロイツフェルド・ヤコブ病との関連性を発表するまでは、どの国もそれに科学的な根拠があるとは考えなかった。このときに我が国がイギリスから牛肉の輸入を禁止すればWTO違反と判定される可能性があった。

さらには、ガット時代の輸入品を不利に扱わなければ国内規制の内容については問わないというネガティブ・インテグレーション(消極的統合)からWTO下で国内規制の内容自体への規律というポジティブ・インテグレーション(積極的統合)へと国際的規律への統合が深化している。とりわけ、WTOの諸協定の中でも、SPS協定は国内制度に科学的根拠を要求するとともに貿易を一層推進するため各国のSPS措置を国際基準と調和(ハーモナイゼイション)することを目指している。しかし、SPS措置は国民の生命・健康の保護にかかわる問題であるだけに、このように国際的な調和を求めることは各国の主権的権利と衝突しやすい。特に、各国の基準がより低い国際基準に引き下げられるとき、これは「下方へのハーモナイゼイション」と批判される。SPS協定が発効する以前は、ガットはSPS措置の貿易制限的な側面を十分規制できていないという批判があったのに対し、SPS協定発効後は国民の生命・健康を保護するという各国の主権的権利が貿易促進機関であるWTOによって犯されているのではないかという懸念が消費者グループ等から表明されるようになっている。

BSEとハーモナイゼイション(日本の基準はWTOに違反しないのか?)

BSEの場合、国際基準とはOIE(国際獣疫事務局)が策定した基準である。日本は輸入されるアメリカ産の牛肉を生後20カ月齢以下のものに限っているが、OIEの国際基準では、30カ月齢未満の牛肉については輸入を認めなくてはならない。さらにアメリカは「管理されたリスク国」というBSEの危険性の少ない国という認定を受けていることから、特定危険部位を除けば月齢に関係なく(30カ月齢未満の牛肉でなくても)、また30カ月齢未満の牛肉についてはせき柱などの一定の特定危険部位を除かないものであっても輸入を認めなければならないことになっている。今回の牛肉の事件についてもアメリカからは日本の規制が厳しすぎるからこのような事件がおきるのだとする批判も出てきている。つまり、日米合意によるものではあるが、我が国は輸入されるアメリカ産牛肉を生後20カ月齢以下のせき柱含めた特定危険部位を除いたものに限るという国際基準より厳しいSPS措置を採用しているのである。これがハーモナイゼイションを要求しているWTO・SPS協定との整合性が問題とされる可能性がある。

SPS協定は、(1)科学的に正当な理由がある場合(たとえば、国際基準に科学的根拠がない)、(2)国際基準の保護の水準よりも高い保護の水準を定めた場合、(3)リスクアセスメントに科学的な不確実性があるため、幅のある措置が正当化される場合や各国で食品の摂取量などが異なる場合などでは、各国はハーモナイゼイションに従わなくてもよい(国際基準と異なる措置を採用できる)としている。したがって、日本の措置がこれに該当するかどうかが争点となる。我が国において発見された生後21カ月齢と23カ月齢の牛がBSEに感染していた例をどのように主張していくのか、また、これらの牛についてはマウスへの感染性が確認できなかったという厚生労働省の中間報告がどのように評価されるのか、最近韓国で報道されて騒ぎになったように、日本人は異常プリオンによる病気に対して抵抗力が欧米人に比べて弱いことをどこまで主張できるのか、日米2国間で解決できない場合にはWTOの紛争処理手続きに委ねられる可能性もある。

詳しくは、山下一仁編著『食の安全と貿易―WTO・SPS協定の法と経済分析』(日本評論社)を参照されたい。

2008年5月13日

2008年5月13日掲載

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