スポーツマンシップ教育と経済成長力

広瀬 一郎
上席研究員

400年前に衰退期のベニスに生きた歴史家ジョバンニ・ボテロ曰く、「偉大な国家を滅ぼすものは、決して外面的な要因ではない。それは何よりも人間の心の中、そしてその反映たる社会の風潮によって滅びるのである」

経済成長を支える要因が必ずしも物理的なものばかりではなく、優秀な人材の安定的な供給にも大きな影響を受けることは、経験的に誰でもが知っている。そしてその「優秀さ」とは、所謂「学力偏差値」とは異なる指標で評価すべきものであることにも異論は無いであろう。筆者は従来から、社会に対し「優秀な」構成メンバーを供給するのに、「スポーツマンシップ教育」が有効なソリューションを提供するであろう、と主張してきた(拙著『スポーツマンシップを考える』ベースボール・マガジン社、2002年刊)。本稿では、スポーツマンシップが「優秀な」経済人を養成し、それが安定的な「経済成長」にもつながる点を述べたいと考える。

目的整合的に稼働してこそ意味のある「制度」

我が国で「構造改革」の必要性が叫ばれて久しい。改革の具体的な中身については、さまざまな議論があるが、「構造を変えること」の必要性については、既にコンセンサスになっていると思われる。しかしながら、そもそも「構造を変える」とはどういうことなのであろうか。それは、法律に代表される明示的な「制度」を変えることを意味しているのではないかと思われる。

確かに我が国が現在直面している問題の多くは構造的なものである。しかしながら、その全てが「構造=制度」の問題ではない。制度とは目的整合的に稼働してこそ意味のある存在である。「成果」があがらないのであれば、その「制度」の評価はネガティブである。そして、いくら立派な制度設計を行っても、制度を運用するのは人間である。つまり運用する人間が、制度の趣旨を理解して運用しなければ、制度の健全な稼働は望み得ない。

たとえば、「企業のガバナンス」の問題を考えてみよう。「企業ガバナンス」を明示的な制度の問題として捉え、執行役員制や役員のストックオプションを取り入れた企業は少なくない。そしてそれは確かに「明示的な制度の構造改革」と呼べるものには違いない。しかしながら、新しく改革された制度の真の課題/成果は、従来の意志決定プロセスをどう変え、その結果期待した成果は得られたのかどうかである。新しい制度が整備されることがアプリオリに内実の変革を意味するなどという期待は、余りにも非現実的である。たとえば、民主的な憲法が成立したからといって、その国が民主主義国家かどうかは別の検討を要するのと同様である。民主的な憲法の下でその精神をどのように活かすかによって、その国が民主主義国家かどうかが決定される。つまり制度はその「稼働」によって初めて「成果」を求め得るものなのである。「制度の存在」のみによって成果を望むのは誤った認識以外の何物でもない。

「制度」が「稼働」するにあたって最も重要なのは人材である。つまり教育の問題こそが「稼働」を決定する本質的な要因なのである。

翻ってみれば、OECDやIEF(国際教育財団)の「国別通知票」によると、日本の小・中学生の数学分野は1位、科学分野の能力は2位を維持しているが、それに引き替え読解力・思考能力は低いレベルに留まっている。

「ゆとり教育」の採用によってこの問題は解消に向かっているだろうか。ちなみにこのカリキュラムの採用によって授業時間は約3割減少し、それに伴って習う漢字の数が削減され、算数では台形の面積計算などが削られている。

一方、旧文部省の「子供の国際比較調査」(2000年2月発表)によれば、日本の子供の教育レベルは、ここ10年で著しく低下しているとされている。となれば「数学」「科学」分野における優位性の維持も困難ではないかと危惧される。
教育レベルの低下は、現況の経済衰退現象よりも深刻な問題ではないだろうか。教育が荒廃すれば、社会全体が活力を失うことになるからである。無論、「教育レベル」は「経済成長」を左右する大きな要素である。

こうした観点は近年の経済理論の発展とも対応するものである。伝統的な「新古典派成長」理論では、成長の源泉は外生的に与えられる技術進歩であると考えられていた。しかしながら、近年それだけでは現実の経済成長を説明することは不十分であると考えられるようになり、「内生的経済成長理論」が台頭してきている。たとえば、その最も基本的なモデルである「AKモデル」では、生産関数を「Y=AK」と仮定しているが(Aは資本の生産性を表す定数であり、Kは資本ストックである)、ここでのKは単に物理的な民間資本ストックの量ではなく、金融資本や経済成長に貢献しうるさまざまな資本の蓄積、あるいは広い意味でのインフラ整備状態などが含まれるものとされる。特にここで強調しておきたいのは、(労働者の教育レベルなどの)人的資本や研究開発体制、社会全体で共有する知識やアイデアの量、更にはイノベーションを志向する「気概」や「挑戦意欲」など、所謂「ソフトパワー」と呼ばれる分野の要素である。

豊かな国は、そのGDPと時間の大きな割合を資本と技能の蓄積に投資していることがデータから明らかになっている。そして、今や成長を支えているのは単に「投入の量」だけではなく、それらの投入が極めて生産的に利用されていることが必要条件であることも判明している。

経済のインフラストラクチャーが生産と投資を活発にするものであれば、経済は繁栄し成長する。しかし、そのインフラストラクチャーが生産ではなく浪費を奨励するのであれば、その結果は有害であり得る。「貧困な国は資本や教育に欠けているだけではなく、それらを投入に用いる際の生産性も同様に低い」と、チャールズ.I.ジョーンズは『経済成長理論入門』(日本経済新聞社)の中で指摘している。そして「インフラストラクチャーの根本的変化」による、「成長の奇跡と破綻」の対照的な例として、アルゼンチンと日本をあげる。「腐敗、賄賂、窃盗、そして没収」は経済における投資への誘因を劇的に減少させ、所得にも破滅的な影響を与える。ここで「経済成長」を支えるインフラストラクチャーのひとつとして、「教育」による「人材育成」が重要な要素だと考えられていることは明らかである。

経済成長にとって不可欠な「知的生産力」

「経済成長力」を支える「教育レベル」とは、広く「知的生産力」と考えることが可能である。「知的生産力」とは、いわゆるIQに代表される「思考能力」と「知識量」と「意欲」の3つの積で表すことが可能である。そして、「意欲」あるいは「意志力」は、倫理的な領域に属すものであると同時に、他の二者のレベルに及ぼす影響も大きい。たとえば、「思考能力」を高めるためには、「向上心」「探求心」「判断力」などが必要である。と同時に「独立心」「忍耐力」などのいわば自己完結的な属性が必要である。さらに、現代では他の人とのコミュニケーション能力が重要であることは多言を要しない。

言うまでもないことだが、「知的生産力」のような要素は直接的にGDPには現れてこない。しかしながら「経済成長」にとって「不可欠な要素」だといえよう。

では、「知的生産力」を決定する「意欲」あるいは「意志力」などの倫理的な領域に属する事柄を修得するために、現在の我が国ではどのような教育機会が用意されているのだろうか。

筆者はかねてから、この意味においてこそ「スポーツ」を教育の場に取り入れる価値があると主張している。「倫理」とは極めて実践的な概念である。「善悪・是非」の認識とは、実践・行動に移さなければ「倫理」の名に値しない。「三菱自動車」の不詳事件では、関係者の誰もが事実の隠蔽が「悪いことを認識していた」はずである。問題は、それを実践に結びつけなかったことにある。幸いにして我々には、スポーツの領域で「スポーツマンシップ」という「概念と実践」を結ぶ訓練をする上で最適な言葉がある。

因みに「スポーツマンシップ」とは、ビクトリア朝イングランドで国家の発展成長を維持するための人材育成を図る教育機関である「パブリックスクール」で完成された概念である。ドラッカーは「ビクトリア朝イングランドの成功は、(その是非は別にして)植民地経営の成功であり、それを実現させたのはミドルマネジメントの成功である」と喝破している。ミドルマネジメントにあたる人材に必要なのは、「判断力」と「決断」であった(現地で起きることの処置を一々本国に伺うようであれば、パクス・ブリタニカは実現しなかったであろう)。頭で考えるだけでなく、判断を実践に移す「遂行能力」を修得させることに理想的なソフトとして「スポーツ」と言う概念を完成させたのである。

では、スポーツを通して修得すべき「スポーツマンシップ」とは何であろうか。スポーツマンシップがある種の「規範概念」であることは広く知られている。従って上は五輪から下は小学校の運動会まで、開会式では「スポーツマンシップに則り正々堂々と戦う」ことが宣言される。「規範」で無ければ「則る」ことは不可能である。では「その内実とは?」と問われれば、つまるところ「尊重」に尽きる。尊重とは自律的・自発的な理解に基づいた価値判断/評価のことである。前提は自発的な対応であり、この意味で「スポーツ」が「遊び」の要素を必然とする。「遊び」とは強制されないで自発的に行う行為であることが必要なのである。

ただ残念ながら、「スポーツマンシップ」という言葉は、ほとんどの人がその意味を確認しないままに使っているのが現状である。スポーツを教える側が、その意味をきちんと教えもせずに、「スポーツマンシップに則って正々堂々と戦う」ことを宣誓させているのが、教育の現状である。これでは宝の持ち腐れというものである。可及的速やかに、「スポーツマンシップ」教育の実施に着手すべきではないだろうか。遠回りなようだが、未来にわたって我が国の成長力を維持するためには、これが王道ではないだろうか。

2004年6月1日

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2004年6月1日掲載