日本人の忘れもの-知的好奇心:投稿意見

奥村 裕一
コンサルティングフェロー

知的好奇心の尊重、そして許容

東京都 (株)情報通信総合研究所 岩田祐一氏

知的好奇心を忘れている方などいらっしゃるのでしょうか? 「どうしてここのスーパーマーケットは夕方になると野菜が品切れになるのか?」「どうしてここのパチンコ屋はいつ行っても玉が出ないのか?」そういった日常生活で感じる些細な疑問を含めれば、誰しも何らかの知的好奇心を持ち合わせていると思います。そして往々にして、こういった身近な部分への疑問が、実は大きな社会的な問題を射ていることもあるといえましょう。

問題はむしろ、(自分/他者がもつ)知的好奇心の「発露」をどこまで許容するか、という許容度にあるように私自身は感じています。知的好奇心は往々にして、上記のように重要な社会的問題を射ていることもあれば、また、自らの知識不足がゆえ、誤った認識を醸成することにつながることもあります。こういった、知的好奇心がもつ「不確かさ」、「ぶれ」もしくは、「レンジ」というか、これを如何に認める/受け入れるか、ということがむしろ重要な問題なのではないかと思います。

奥村さんの仰る「心理的束縛」からの解放は、自らの行動を促すことのみならず、自らが寛容さを持つこと、更には知的好奇心自体が持つ「不確かさ」「ぶれ」「レンジ」を認識することではないかと考えます。

例えば、企業・官庁における意思決定や学界の業績認定では、確実性の担保に相当高いレベルを求めることが少なからずありますが、その中にはそもそも、「現時点で分からないことや不確実なことに、高い確実性を求めること自体が矛盾している」といえることもあるでしょう。そこに「ぶれ」や「レンジ」の認識を織り込んで、意思決定を行ったり業績認定を行うにはどうしたらよいか、今はその一般化/普遍化によりチャレンジすべき時機なのではないか、そのように考えます。

知的好奇心の発露はすなわち、(自分/他者がもつ)「不確かさ」といかによりよいお付き合いをしていくか、その仕方にかかっているといえるのではないでしょうか。

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