フェローコンテンツ: 対談・経済政策の選択肢

第4回「経済現象の相互連関を重視し、総合的に経済システムの移行を目指す選択肢」

齊藤誠(一橋大学大学院教授)氏との対談

齊藤誠 (さいとう・まこと)
京都大学経済学部卒。マサチューセッツ工科大学大学院博士課程修了(Ph.D.)。住友信託銀行調査部、ブリティッシュ・コロンビア大学経済学部助教授などを経て、現在、一橋大学大学院経済学研究科教授。主な著書に『新しいマクロ経済学』(有斐閣)、『金融技術の考え方。使い方』(同、第44回日経・経済図書文化賞受賞)ほか。

経済問題の認識

飯尾:
経済問題というのは、グループとしてどんなものを大体想定されますか。つまり、デフレとか、不良債権処理とか、景気だとか、財政問題とか、相互に連関するとは思うのですが。どういうくくりができるのでしょうか。

齊藤:
自分がずっと考えている問題として、1つの大きなくくりは金融システムの問題です。金融システムの大きな転換の中で、たとえば、不良債権問題の処理を考えていくとか、地域金融の再編を考えていくとか、今の四大銀行の新しい業務のあり方を考えていくとか、もしくは、資本市場の仕組みを公的金融を含めて変化させていくということが、1つの大きなくくりだと思います。

2つ目のくくりは、マクロ経済政策のフレームワークの見直しということを考えています。財政政策についても、金融政策についても、それぞれ今までの形で運営していくよりはかなり大胆に見直していかないといけないと思います。ですから、今の経済問題がすごく深刻だということはもちろんそうなのですが、そういう政策の枠組みが現状にうまく対応していないことから、問題が起きてきているという側面もあります。

また、3つ目に期待と結果のずれで、国民のフラストレーションがたまってしまうということもあります。労働市場の幾つかの問題も社会保障の中に含めて考えると、社会保障の仕組みとして、日本のシステムは本来の所得再分配機能をかなり乗り越えて大きくいろんなものを囲ってしまっています。そのため、所得再分配の機能に、世代間でも、世代内についてもどこまで公的なものが関与していくのかということを抜きに公的年金や健保の給付金を増やす等を考えても難しいと思います。

飯尾:
そうすると、先生はデフレ問題というのは、今お話しいただいたものとはレベルの違う問題だとお考えですか。

齊藤:
たとえば、今の国会のデフレ対策のように、すごく表面的な現象面に対してそれを是正すれば直る、全てが解決するというようなことで政策を考えていくといろんな無理があると思います。デフレ懸念を払拭していくことは1つの政策目的としてあると思いますが、ただ、そうした現象をとらえて、それに対策を講じるという発想をしていると無理があるのではないかと感じています。はっきり言えば、都合のいい議論を展開しやすい論題の立て方で、たとえば、これは日銀の責任であるとかインフレ目標を入れれば大丈夫だとか。

また、デフレという話をしても、論者によっては単に物価、要するに財・サービスの物価指数の問題だけではなくて、資産価格の下落というし、もう少し進めると、価格だけではなくて、ある種の需給ギャップがあるという状態をデフレといっていたり曖昧なところがあります。定義が曖昧で、受け手も発信手もそれぞれにいろんな解釈を許すようなものを出発点に、それに対して対策をとるというと、総合化された政策の展開というのは非常に難しいかなと思います。

金融システムの問題

飯尾:
それでは、最初に金融システムの問題についてお伺いします。金融システムの問題というのは世の中が実際に変わっているのに、それに対する政策、金融制度、あるいは金融市場のアクターの行動原理というものが変わらないのが問題だということですか。

齊藤:
そうだと思います。90年代に世界的に金融市場で起きたことは、基本的には情報技術が発展して、地域的なバリアが相対的に低くなったということと、さまざまな規制緩和のもとで、今までできなかったような金融的取り組みが可能になって、非常に複雑な金融技術の展開を可能にしたことです。

そうした発展の先に出てきた政策課題というのが、これは日本に限ったことではありませんが、今までの証券業や保険業、銀行業という、業態ごとに役割分担をしていたマーケットから、さまざまな金融の機能について分化していくようなことが起きました。キャッチフレーズ的に言うと「業態から機能へ」という役割の中で各国の金融行政が対応してきました。

今までの都市銀行、地方銀行が担っていたものの中に、さまざまな機能が含まれていたのですが、それらを整理分解してやっていくプロセスが出てくるはずが、日本ではそれが全く起きませんでした。たとえば、アメリカだと商業銀行と投資銀行は統合して、新しい金融マーケットに対応していくようなシステムができているのに、日本は商業・産業銀行的なものがつい最近まで主流でした。そのような中で、さまざまな金融リスクを不本意ながら従来的な銀行システムの中にずっと抱え込み、リスクの顕在化が起きたときに、経済全体のリスクがもっと幅広く配分されていればそれぞれみんなが痛みを負ったはずのものが、銀行部門にすごく集中的にしわ寄せられてしまいました。

欧米の形を見ると、預金取り扱い銀行のウエイトはすごく低いですし、一方で年金基金とか投資信託のような機関投資家のウエイトが大きいものですから、たとえば、銀行でローンを受けても、それをさまざまな金融技術を使い証券化によって流動化して、それを機関投資家に持ってもらうような仕組みになっています。ローンの管理は銀行にやってもらうけれども、そこに起因するリスクは分散されています。

そうすると、機関投資家の背後には家計がさまざまな形でお金を出していて、労働者の年金もあれば富裕層の、かなりのリスクを背負うようなリスクマネーのファンドもあったりということで、リスクが最初に発生するのは銀行セクターだと思いますが、それをうまく分散化する仕組みになっています。同時に、幾つものエージェントを介在させていくので、そこで透明性が確保された中でプライシングがなされます。

飯尾:
政治家や一般国民が「不良債権問題は大変だ」と言って、不良債権というのは実は不良預金ではないかというところに、あまり思い至らないとか、そういう問題のことですよね。

齊藤:
そうです。ですから、そうした問題の矛盾の固まりが不良債権問題になったんだと思います。本来、機能分化、リスクシェアリング、リスクのプライシングがうまく行われていれば、銀行が企業価値の劣化が始まった早い段階で、もう少し有効な対応がなされたと思うんです。

もう駄目なものは損切りを早くするし、てこ入れできるようなものはてこ入れをするタイプの金融サービス業にその債権を委ねたり投資ファンドに持っていったりでやっていくべきだったのです。それが、銀行に塩漬けになったまま会計システムもそれをカモフラージュするような形だということと、銀行に対するガバナンスもうまくいかなくなっていることによって、それらが進みませんでした。

日本で、今DCF(discount cash flow: 割引現在価値)方式等といろいろと騒いでいますが、たとえば、アメリカの大手の銀行や投資銀行だと、大口融資に関して、売れた値段が評価だという発想がはっきりしています。大口ローンについてですが、通常取り組んだローンを2年を超えて持っていることはまずありません。それを流動化したり、もう少し他の機関投資家に分けていきます。そのときに値段を決めていきます。そして、普通、仕入れた値段よりも高く売れたらそのローンオフィサーは一応マルという評価が与えられます。損が発生し始めたら、損切りを早い段階でするということも評価の1つとなります。

そういう仕組みがうまく回らなかったことが、日本の銀行部門に不良債権が残ってしまった原因です。そこで、不良債権の価値もうまく評価されていませんでしたし、しばしば言われているように、これは不良債権だけでなくて正常債権もそうなのですが、信用リスクに応じた約定金利が正確かどうかということもなかなか検証されないままに、本来だったらある程度高い金利を取って引き当ての原資をつくりながら、仕方なく起きた倒産については償却をしていくということのシステムが全く動かなくなっていました。

不良債権問題というのは、結果としては確かに今政治の場面で議論されているように、誰が負担し、誰がイニシアチブをとって不良債権の処理をするかということなんだと思います。ですから、すごく前向きに見て、不良債権処理を進める中で新しい金融システムの形ができてくるような取り組みをしていくことが大切です。処理もしつつ、かつ処理から得たレッスンの後に新しい金融システムに応じた銀行や証券を模索すべきです。そういう意味では非常に面白い練習問題が沢山あって、民間企業も含めて、そうした問題を解いていくという取り組みがあり、その先に新しい金融の姿というものが見えてくる気がします。

飯尾:
そうすると、不良債権問題を解くといっても、実は金融システムは正常でたまたまバブル崩壊とかデフレが起こり、不良債権を発生させたから、それをバランスシート上なくせば何とかなるという見方ではなくて、これから先の金融システムの姿をどう思い描くかが大事で、システム自体が変わっていることから、不良債権の処理を通じて新しい金融システムに移行するような政策をとらなければならないということですか。

齊藤:
ええ、金融システムの側からそういう取り組みをしていくということは、企業側から見ると事業財務リストラになります。また、金融面での動きが出てくると同時に、企業再生とか事業再生と言われる、いわゆる事業リストラの方が進んでくると思います。

実は、今かなりの企業が、もし資金調達ができれば事業の再編をやったり、よりよい事業に追加的な投資をしたり、もしくは新しい事業に転換をしていくような追加投資をすれば企業の劣化が止められるような、もしくはライバル会社と一緒にくっついた方がうまくいくというようなことを進められます。今、ダイナミックな企業再編が起きないとか、事業再編が起きない理由に、過剰な債務があり、既存の債権者に再生の果実が最初に戻ってしまうので、後から入ってきたニューマネーの供給者には果実がないから供給しないということになってしまっています。

そうすると、今の財務リストラで既存の債権者の権利をある程度整理して、今の事業価値と債務の価値がとんとんに見合うところまで整理をすれば、その後お金を入れてきた人たちは事業の再生分の果実をリターンとして得ることができますので、一挙に処理が進みます。ただし、どうしようもない事業はどうしようもないのですが。

飯尾:
どうしようもないものもあるけれども、望みや見込みのある部分まで不良債権問題がネックになって活性化できなくなってしまっていると。

齊藤:
そうです。そのため、事業の再編ができないままに企業価値が劣化していくことがずっと放置されて、それが全般的な株価の低下などにつながっていますので、財務リストラをやるということと事業リストラをやるということが同時に解決しないといけないことを認識しなければなりません。

本来、マーケットが正常に動いているときは、経済学でいうところのモジリアニ・ミラー定理というのがあって、バランスシートの左側の企業価値の編成と資金調達や自己資本の部分の財務構造というのは関係がなく、もしいいものがあれば常に誰かが資金を供給して、必ず設備投資が出てくるという状況なのですが、一旦債務超過でデッドオーバーハング(過剰債務による過少投資)のような状況になると、財務状況が事業再編の柔軟性を縛ってしまうということがあり、それをほどいてやらないといけません。アメリカだと、私的整理、法的整理などという変な区別がなく、スムーズに法的整理にいって更生の手続をうまくやっています。

飯尾:
これはなぜそうなるんですか。やはり日本の制度に欠陥があるのでしょうか。

齊藤:
当事者の方々に聞くと、制度は比較的うまく改定されているのですが、債権者、債務者の間にあるさまざまな慣行がそうした制度を生かしきれていない状態です。たとえば、銀行の方がなかなか動かなかったり、逆に債務者のほうが明らかに不当な先延ばしや遅延行為をやったりしています。

飯尾:
結局、相場ができるのを妨げるものがたくさんあって、皆さんの期待が一致しないので強引にできないということですか。

齊藤:
できないですね。その背後には企業や銀行に対するガバナンスがうまくいっていないという深刻な問題もあります。そんなことから、なかなかうまくいかないので、制度をつくれば民間が動くというようにはすぐにいかないように思います。行政の方ですごく大きなビジョンの提起とか原理原則を外さないという前提のもとで、先進的な事例とか、やや呼び水的な後押しをしていって、そうして後にそれに民間のマーケットがざっとついてくるというようなことをしないと難しいと思います。

最近、金融庁で不良債権の流動化とか証券化スキームで担当部署の人たちと議論することがありました。私の印象ではかなり知恵が出ていて、RCC中心に流動化スキームも出ているのですが、あと一押し何かあるとスキームが定着するなというところがあります。たとえば、証券化をしたときに出てくる劣後部分に対する出資者的な立場の人がなかなか出てきていません。

普通だと、もともと不良債権を抱え込んでいた銀行が不良債権を証券化スキームに移して、そのかわり回収業務のノウハウを持っている銀行が出資者になって、スキームがうまくいくんです。というのは、回収のノウハウがあれば劣位部分にあっても、自分たちが回収をきっちりすれば戻ってくるため、回収のインセンティブを担保しつつ出資者として収益をあげることが出来ます。そういう人たちが入っているということになると、今度は優先部分を引き受ける機関投資家も安心して優先部分を買うことができます。不良債権を原資にしたファンドでも、そのファンドを主たる部分は機関投資家が担って、回収の機能を担う金融機関にはそのインセンティブを担保する形で出資者になります。そこがなかなか入りづらいところがあるので、たとえば、ほんのちょっとだけ政策投資銀行などが出資部分のところに対して信用補完的なことをやってあげるとかすればいいのだと思います。

これは一例なのですが、不良債権という玉を使ったファンドが出てきて、回収のインセンティブの評価もきっちりしたものがあれば、これは値洗いした後のものについては不良債権ではもうないんだということになります。

また、その値付けもちゃんと証券会社がアレンジャーとしてプライシングをきっちりするということにすれば、機関投資家も入ってくるでしょうし、そうすると、不良債権の処理ということが実は先ほど言ったリスク分担とか、リスクのプライシングとか、機能の分業を進める非常に大きな練習の場所というか実践の場所になってきます。

しかし、民間銀行も非常に萎縮しているものですから、行政側がどこをちょっと押してやればいいのかということを見つけて、もしかしたらリスク引き受けについて国民負担という問題が生じるだろうし、もしかしたら出資の形で出していかなくてはいけないかもしれないし、補助金の形で出していかなくてはいけないということも出てくると思いますが、ターゲットさえ間違わなければ、すでにできている枠組みを有効に使っていくことができると思います。それが2、3回回れば、みんながわかってきて、後は「これだったら」と考えて、フォロワーが出てくれば、行政とか公的機関の役割は後ろへ下がればいいと思うんです。そういう形での運用をしていけば、たとえば、産業再生機構がどういう運用になるかいまひとつ分かっていませんが、やり方を間違えなければそうした新しい金融慣行の定着という線をずらさない形で期限を限定して役割を担っていくのであれば、何か先につながるシステム構築のためになると思います。そこでは、10兆円を超える額が必要とされるのかもしれませんが。

そうやって流れ始めて、経済全体としてあるリスクは誰かが引き受け、誰かが値付けをしなくてはいけないという状況になったときに、ペイオフということも預金者といえども納得できるのだと思います。

飯尾:
預金者も幾らかリスクを持ってもらうんだということですね。

齊藤:
そういう発想になり、預金者も潜在的には負担を負っているんだということになれば、今みたいに預金が圧倒的に安全で有利になっている状況は解消されて、預金取扱部門のサイズが小さくなって、さまざまな直接金融的な資金循環が生まれてきます。そこで、民間の資金循環とリスク配分が流れ始める中で金融システムがそういう新しい形で動いていくようにすればいいのだと思います。不良債権問題は、先ほど言った事業再生という立場からも処理せざるを得ませんので、そのようにやっていくことが金融サイドも産業サイドも良いのではないでしょうか。私は「デフレが解消してから」とか、そういう類のことには賛成できません。

飯尾:
デフレさえ解消すれば金融システムは大丈夫だから自動的に回復というような甘いものではなく、原因がたくさんあるのに1つだけ直してもだめなので、幾つも並行的に処理しなければならないということですか。

齊藤:
もちろん、インフレの方が調整しやすいのは間違いありません。しかし、どちらが先かという議論というのはあまり意味があるとは思えないし、一般物価への働きかけの政策は政策でいろいろと工夫をすべきで、産業再生、金融再生も、そういうことを前提条件とするのではなくて、できるだけ早く着手をしていくことが大事です。

飯尾:
金融システムのことを最後に1つだけ伺いますが、いわゆる直接金融とか間接金融という話ですけれども、銀行が駄目で証券がいいという話ではなくて、結局リスクテイキングの構造だから、誰が担うかというのはこれまた別で、独立の問題なわけですね。

齊藤:
そうですね。直接、間接金融というのもあまり適切な対立概念ではありません。それと、銀行と資本市場の間でどちらがいいとか悪いとかいうのではなくて、それらの間で有機的なつながりとかリスク分担のスキームができていなければなりません。今でも、ローンの最初の最初は銀行セクターから出てきていますから。

住宅ローンでも、集めて証券化するとか、後は企業が育ってきたらそれを証券化していくとか流動化していくということで、私は「ローンの成長」と言っています。ローンが成長していく間にさまざまな金融機関が入ってきて、それぞれの段階に応じた機能を担える機関が分担をしていけば、最後は多分資本市場に行きます。そして、最終的にそれを長期のリスクを担える機関投資家がリスクを引き受けるという構造になります。

日銀の役割について

飯尾:
最近、日銀の独立性というのはどれぐらい必要なのかということが少し疑問になっております。なぜかと申しますと、民主政治で独立性を認めるというと、普通ある裁量の範囲の中で行われます。典型的な例は裁判ですが、法律というのを与えておいて、しかも裁判は当事者が対面型でそれぞれ主張をいたしますので、その裁定をするだけだという機能に限定しているものですから民主的なコントロールがなくてもいいことになっています。

もしも日銀の独立性が重要だということがあるとすると、その前提としては金融政策というのは一定の定まった方式があって、それに従って微妙な調節をするだけだという前提がないと、日銀の独立性というのはなかなか正当化するのは難しいのではないかと思っております。世間でそう言うと物価の安定みたいなものと通貨の価値、どちらを言うのが微妙な問題はあるようですが、その問題さえ与えておけば、これは非常にシンプルな目的なので、後の手段は自分で考えなさいということでよろしいと言われています。

しかし、今のように、「デフレは是か非か」というような話まであったり、その手段においてさまざまなことが言われる。そういう前提の中で考えると、日銀の独立性の議論というのは根拠が薄くなっているように見え、しかしながら国際的に見ると、各国とも日銀の独立性のようなもの、中央銀行の独立性ということを言わないと信任がないような客観情勢もあり、その関係をどう考えたらいいのかということを悩んでいるのですが、本当のところ、どうなのでしょうか。

齊藤:
先進国の中で、中央銀行が担える役割というのは物価の安定と、あとは非常にタイムリーな措置を必要とされる場合の役割です。つまり、立法的な措置では間に合わないような金融危機とか流動性危機に対しても役割を担っていると思います。

飯尾:
日銀特融のようなものということですか。

齊藤:
そうです。他にも、株式市場が暴落したときにすぐファイナンスをつけるとか、最近だと1987年のブラックマンデーのときです。いずれにしても、中央銀行には2つの役割があって、後者についてはほとんどの人は、ベストな方法ではないにしても中央銀行しかやりようがないということで一致していると思います。

前者に関連して日本では、「物価の安定」というのはどういうものかという議論がされないままに独立性という議論をしてしまったことが問題であったと思います。90年代の終わりに、物価の安定という内実について合意をする作業こそ、まずしっかりとしないといけないのではないかということが、全部かき消されてしまったわけです。ただ、その点に関連して、経済学者の間でも物価指数がゼロ成長であることを安定という人は少数派です。

飯尾:
1、2パーセントのインフレということですか。

齊藤:
ええ、いろんな理由がありますが。そうすると、マイルドなインフレーションということと、物価の安定というのはそんなに離れていません。そういう合意がきっちりなされていなかったのに独立性を高めてしまったので、特に日銀は他の先進国の中央銀行に比べても絶対水準での安定ということを過度に意識する性向がずっとあったものですから、そこで議論がずれてしまったということがあります。もう1つは、これは日本に非常に特有の問題で、金融政策と国債管理政策の分業をしないままに独立性ということに突入してしまいました。

アメリカでも第2次世界大戦と戦後すぐに連邦準備制度は財務省の金庫番みたいなところがあって、かなり従属していました。しかし、戦後のインフレのときに、連邦準備制度がインフレで金利が上がっていくところで金利リスクの顕在化が起きたので、とにかく民間から国債を買って、民間のリスクを全部自分のところに集め、そこでロスを背負ったんです。そのタイミングで財務省とアコードを結び、これ以降は連邦準備制度は国債管理政策については一切関わらないということになりました。財務省もそれに合意しました。その後は、日本のような国債の買い切りオペについて政府と中央銀行が言い合うというようなことはあり得ないし、財務省サイドがそんなことを言ったらアコードを破ることになってしまう。一方、日本ではここも曖昧なままに独立性という制度だけを言ってきたので、問題を難しくしてしまいました。現状で言うと、今独立性を楯にとって議論をしてしまうということは、政府の側にも日銀の側にもあまりよくないと思っております。

飯尾:
そうしますと、金融政策を担っている政府系の機関が今幾つかありますね。1つは日銀だと思いますし、もう1つは金融庁というところもあり、それから国債という点で言うと財務省があります。それぞれ本来どういう役割を果たすべきで、曖昧なのはどこだというようなことを認識しておられますか。

齊藤:
金融システムの安定性とかプルーデンスのところに関して言えば主たる役割を金融庁が担い、銀行部門の関わる金融システムの安定性の問題については日銀もしかるべき責任を背負っていくというのでいいと思います。そこの部分について言うと、あまり今の制度に問題はないと思います。ただ私は日銀が最近金融システムの安定性に踏み込み過ぎているという気がします。

銀行セクターの部分、要するに決済を担っていく部分で、日銀ネットにぶら下がっている金融機関に対して決済機能が十分に果たせるかどうかという観点から、日銀が各銀行の財務状況を把握しておくということは必要だと思います。決済の機能を提供しているのが、日銀ネットという決済システムですから、その当事者には管理責任というようなものがあると思います。

また財務省理財局の役割と金融庁がどういう分担をすべきかというのは難しい面があります。日本特有の問題ですが、財政投融資の問題があり、公的金融の仕組みを、今のところは基本的にまだ財務省がやっています。民間の金融システムを考えていくときに、公的金融システムのあり方抜きには考えられません。

飯尾:
そうですね、そんな規模の小さいものではありませんから。

齊藤:
ですから、そこでコーディネーションができにくくなっているのかなと思います。また、財務省と日銀では先の国債管理の話を除くと、為替介入権の問題があります。今のところ為替介入権は完全に財務省にありますから、その委託を受けて日銀が指図に従ってやっているにすぎない。でも、それがいいのか悪いのかという問題はあるかもしれないですね。

飯尾:
そうすると、国際金融については日銀に揃えたほうがよろしいのでしょうか。

齊藤:
介入の当事者であるという意味では日銀で担っておいた方がいいように思います。介入した後に出てくるマネーを胎化するか不胎化するかという問題というのは金融政策上の問題ですから。

飯尾:
ということは、金融市場のマネジメントと為替市場のマネジメントというのは現在では一体だということですね。

齊藤:
ええ、そうだと思います。やはり円の価値の問題ですから、国内物価をどうするかということと名目水準としての為替をどう持っていくかというのは、これだけグロバールなマーケットになると抜き差しならない関係にありますので。

飯尾:
そうすると、整理が不十分で、日銀はシステムの安定性みたいなものについては少し手を引き、そのかわり国際金融の部分を背負い、国債の管理は完全に財務省がすべきでと、そういうふうに三者を分けているほうがよいだろうということですか。その場合少し難しいのは、理財局が持っている政府系、財政投融資みたいな話で、これがあるので金融政策は一体化できなくて、これは当然財政投融資の制度管理みたいな金融システムの問題と財政投融資の運用という金融マーケットの問題とがあるということですね。

齊藤:
金融庁と日銀と財務省の間でどう分担していくかというのが非常に難しいかもしれないですね。

デフレについて

飯尾:
それでは、マクロ経済運営の仕組みについてお伺いしていこうと思いますが、最初に先ほどお話の出てきたデフレの問題をどう考えるか。デフレは貨幣的現象だとお題目のようにとなえる方もいらっしゃれば、需給ギャップによるものだという方もおります。この辺はどういうふうに考えたらよろしいんでしょうか。

齊藤:
その辺は、すごくジェネレーションギャップがあって、多分45才ぐらいより上の経済学者と我々若い方とで違います。

飯尾:
どういうふうに違うんですか、それを教えていただきたいのですが。

齊藤:
需給ギャップという不均衡現象に原因を求めて、だからデフレ圧力が出ているという発想はあまり最近の人からは聞きません。そのようには考えません。マクロ経済学も含めて、経済学の枠組みが大きく変わったのですが、今まではたとえば非常に競争均衡的な世界をつくって、そこで説明できなかったら「不均衡現象」ということで扱ってきました。

そこで、その理想的な世界から外れている部分だけ、たとえば調整のためにデフレが生じる等という発想だったのですが、これは正しいようでいて、理論的には非常に無茶なことをやっています。そもそも現実が説明できない枠組みを持ってきて、現実はこうだからこのズレがありますよということで考えると、不均衡という発想自体、経済学のロジックを放棄しているのではないかというように感じます。

そこで、さまざまな均衡概念を取り扱える枠組みが経済学にできて、これはゲーム理論の進展が非常に大きいのですが、そういう中で、今観察される状況をある種の枠組みの中での均衡現象と捉えるようになりました。そのときに、その均衡が望ましい性格を備えているかどうかは別として、現在ある状態を均衡と考えるようにはなったのです。

そういう考え方からすると、需給ギャップが出ていてという説明はすごく考えづらい。それもある先生は90年代の終わりぐらいから今にかけて需給ギャップが5、6%から最近は10%とかいう言葉まで出されています。4~50兆円ということですよね。そのような状況が数年も続くというのは、よほど日本の資本主義のメカニズムがおかしいということになってしまいます。数カ月ぐらいでそういうことだったらわかりますが。

デフレの見方も、低金利になり始めたのが95年半ば以降で、誘導金利の翌日物のコールレートは0.5%下がって、ちょうどそれに前後して、WPI(卸売物価指数)はいろいろな輸入物価の関係もあって、もっと前から下がっていましたが、いわゆる最終の帳尻の消費者物価指数が横ばい、もしくは若干マイルドなデフレーションの傾向になったのが90年の後半なわけです。基本的な姿というのは超低金利、マイルドなデフレーションというのが、95年から2003年の今の時点まで続いているということです。

デフレになってからもう8年です。そうすると、これをもって需給ギャップで説明してしまうと、一見すると分かりはいいかもしれないけれども、やはりすごく考えづらい。実際にその間日銀は、ベースマネーとか決済に必要な預金関係の供給というのは2桁でずっと増やしつづけています。それにもかかわらず、このような状況が起きているということは均衡でない需給ギャップによって保たれているとは思えません。こういう状況がこれだけ長く続くのだから、望ましい均衡ではないと思いますが、ある種の均衡状況の中でそういうことを考えてみるということだと、若い世代はそういうふうに捉えています。

現在のように非常に低い金利になると貨幣を保有していても機会コストがほとんどかからないので、どうしても貨幣の退蔵とか、貨幣市場においては貨幣の滞留が起きてしまって、貨幣数量説の言葉で言えば、「貨幣の流通速度の低下」ということです。「物価は貨幣現象ですよ」というのは、貨幣供給量と流通速度の積が物価水準というときに、流通速度が一定で貨幣供給が増えたら物価が増えるという関係をもって貨幣的現象というのです。しかし、超低金利の中で流通速度が低下していって、貨幣供給を上げても物価があまり上がらないということが起きており、そうした状況を均衡現象として説明できる貨幣経済モデルというのは幾つもあります。

そうすると、そういう中で貨幣供給の実績と物価の動向にすごくズレが生じてしまって、それが超低金利の政策になってきてしまったということは、あまり不思議なことではないのです。均衡現象であるところの証拠として、そうした状況が非常に長く続くとマーケットの人はそれを織り込み、それに適応した投資行動をしています。

このような状況の中で、本来金利リスクが大きいであろう長期国債もどんどん買ってしまうとか、ある種今起きている現象が、超低金利、マイルドなデフレというのを均衡と見て、その均衡状態が全然望ましくはないのですが、ある程度持続するのではないかということを織り込んでみんなが動いてしまっていると考えるほうが自然だと思います。このフレームワークの中で幾ら貨幣供給量、たとえば当座預金残高を、今は20兆円を超えていますが、100兆円にしても、あまり意味があるようには思えません。結局、貨幣流通速度が下がって、主たる国債保有者が日銀になっていくということぐらいしか起きないと思います。

これからマイルドなインフレーションに移ることは、これは多分多くの人が一致していると思いますが、やはりそちらの方がいいということです。そのときに、いい均衡と悪い均衡があって、それで今悪い均衡のほうで膠着状態が起きていて、全ての人たちがそこに適応的に活動しているという状態があって、良い方に移りましょうとやったら、何をしなくてはいけないかというと、その均衡を叩き割って、人々の期待を転覆させて、それで新しいところへ持っていかないといけない。

多くの場合、均衡と均衡の間の移行が徐々に起きるようなものでは全くなくて、一挙に変わらないといけません。そうすると、これはどういうことになるかと言えば、インフレ目標をやって、今の均衡を徹底的に壊すために株式を買いまくるとかをするわけです。土地を買いまくるとかすれば、人々の期待と均衡を転覆させます。そこまでしたときには、物価がぽんと上がるだけではなくて、金利とか為替の原価とか、そうした名目変数のドラスティックな変更が急激に起きるわけです。ですから、インフレも起きますが、たとえば、金利も上がってしまいます。

しかし、代替的な方法もあります。僕だけが言っている話ですが、金利をわずかに上げることによって、マーケットがインフレの方向に期待をがくっと改定できれば、それほどアグレッシブな貨幣供給政策をとらなくても、貨幣数量的なチャンネルで物価が上昇していくと思っています。

95年以前というのは貨幣供給速度はすごく安定していました。バブル期もその前も70年ぐらいからずっと安定していました。実証研究をしてみると、コールの翌日物レートが0.5%に下がった、0.3、0.4%になったぐらいから、先ほどの貨幣の滞留と流通速度の低下ということが起きてしまいました。そうすると、量的緩和をしても空回りしてしまう。だから、貨幣を持っていることをコストと認知して、特に企業セクターや投資家が認知できる閾値なのが多分0.5%ぐらいかなと思うんです。

ほんの少しだけ金利をずらして、ずらした時点で「当座預金目標をこれから年2%ずつ増やします」というようなことをやり始め、誘導金利を上げて、貨幣保有コストがかかるような状態の中で、それでも無理やり貨幣を入れていくと宣言をしたときに、最後帳尻をとる為には物価が上がるしかないんです。

飯尾:
しかし、金利が上げられるのでしょうか。

齊藤:
貨幣を増やすことと金利を上げることは操作上はできないことはないと思います。

飯尾:
金利を上げるというのはどのような方法があるのですか。

齊藤:
実はコール金利の操作というのは日銀が一番得意としていることで、いかようにも金利の水準を持っていくことができます。しかし、今の日銀はそうはしていません。基本的には、ゼロ金利水準へのコミットメントに近い政策手続をしています。

飯尾:
どうして誘導金利がゼロがよいというふうに判断しているのでしょうか。

齊藤:
この辺がすごく混乱があると思うのですが、金融緩和というのと、通常でいくと金利の引き下げと貨幣供給量の増大は表裏一体であるということになっているので、とりあえずそうしているわけです。

飯尾:
供給を増やしているものだから、そうしなければいかんと思い込んでいるわけですか。

齊藤:
というか、そういうふうにならざるを得ないような、そういうフレームワークを敷いてしまっているんです。今の仕組みはゼロ金利政策の延長線上に量的緩和を置いてしまっていて、金利をゼロのもとで量を増やすという仕組みを作っています。物価を上げたいのであれば、金利の方は、総裁がおっしゃるように「マーケットで決めてくれ」と。「少し上がっても構わないよ」と。もう少し積極的に言うと、「日銀の方は少し上げてしまうよ」と言って、その一方で量は増やしますよと言ったそのときに、多分そこで均衡現象として生じるのは物価の上昇なんだろうなということです。

その閾値がやはり、0.5%だと考えています。企業とか投資家、とにかく大きな資産ロットを持っているところは今のように寝かすなんていうことは絶対できませんから。そうすると、貨幣を回していきます。

飯尾:
そうすると、回すためにはどこかで実物のものを買うわけですね。

齊藤:
そうですね。そこで経済全体のパイがもし一定だったとしたら物価が上がって、実質購買力が下がる方向で調整が起きて、いわゆる貨幣数量説のメカニズムが働く。金利の方を柔軟に動かすような状況をつくっておいて、それで貨幣供給を増やしていけばいいのだと思うのです。ただ、この点に関して言うと、日銀が不作為であるとか怠慢で今の状況をつくってしまったかというと、そうは思えません。というのは、先進国の金融政策は金利を動かしていくということで、一応政策の枠組みを作っていたんです。金利ルールと言われます。

70年代の終わりぐらいに貨幣供給量ルールでやっていましたが、すごく金利が高い水準のところでそれをやって惨憺たるありさまになってしまったため、一応金利ルールに戻って、金利を引き下げていくということを緩和政策だという位置づけのもとで、金融政策を行ってきました。そこで、結局金利はゼロに近づいて、ゼロに行ったら空回りしてしまうという状況になってしまいました。

これはいろんな学術雑誌でも出てきている議論なのですが、そういうゼロ金利近傍に来て、流動性の罠にかかったときには、貨幣供給量を主軸とするルールの方に移った方がゼロ金利から離陸をすることが可能であるとか、極端には、2年前にスベンソンというスウェーデンの学者が日銀で研究発表をしたときに、今言ったように金利を少し上げて、そのかわりターゲットも入れて供給量ルールもやると、新しい均衡のもとでは物価も上がり、為替も減価をしてということが起きますよということを示しています。だから、今の金融政策のフレームワークを、そうしたゼロ金利状況のいろんな教訓を踏まえて政策ルールを変えていくことが必要だと思います。同時に、物価も上がるんだけれども、他の名目変数も大きな調整を迫られるということを納得してもらわないといけません。

飯尾:
デフレの最後の質問ですが、世の中には、デフレというのは国際化の影響が大きいとの意見を持っている人もいます。為替の問題もあって、止めるということは実事上難しいのであると。デフレは好ましくないとは言っても、現実に起こっており、今の社会で止めるのは具合が悪いからそれに合わせた暮らし方をした方がいいんじゃないかという方もおりますが、それについてはどうお考えになりますか。

齊藤:
もし、中国から安価なものが入ってデフレという議論があったとしたら、中国に関して言えば、元の相場が調整されないので、そこで向こうの安いものが入ってくると日本の物価が下がります。

飯尾:
これは変動相場制を前提とした世界でないもので、それで変なことになっているだけであるということですね。

齊藤:
そうですね。デフレ傾向に慣れろという話ですが、先ほど言ったように、マイルドなインフレーションへの転換というのは、マイルドなデフレからマイルドなインフレーションへの転換であっても、すごく急激な変化を強いられます。そうすると結局、経済全体として、どちらの変化に対しても中立的な仕組みをつくっておけば、いざマイルドなインフレへの転換というときにも、先ほどの大幅な所得移転が起きなくて、混乱が最小限で収まるのではないでしょうか。

それは、物価に対する中立化ということですが、たとえば、物価連動国債を導入しておけば物価が上昇して金利が上がるからキャピタルロスが生じるという部分はなくなって、民間セクターと公的セクターの間での分配は物価に対しては中立的になります。

今は、多額の国債を発行せざるを得なくなり、一部のセクターが集中的に購入せざるを得ない、たとえば、財投協力という形で政府系の公的金融だったり、日銀が多分純増の半分ぐらい吸い取っています。こういう状況では、そういうところに金利リスクを押しつけていくよりは、物価連動債のようなもので中立的な契約をしておいた方がいいと思います。そのようにして、物価の変化に関しては、一切どちらの方向でも再分配効果が起きないようにすべきだと思います。

たとえば今公的年金も郵便貯金のほうも財政投融資協力で財投債を買っていますよね。財投債の契約も契約期間を短くしてみたり連動債にしてみたりということで、一般会計と公的金融セクターの間で物価に対して中立的な状況ができてきます。

飯尾:
副作用の部分を少なくするような薬を売らないといけないので、副作用があるということが目に見えている以上はそうですね。

齊藤:
冒頭の話とよく似ているんですが、不良債権問題の信用リスクが銀行部門に塩漬けになってしまったのと同じように、今の国債管理政策のもとで国債の増発をやってしまうと今度は金利リスクが一部のセクターに塩漬け状態になってしまいます。そうすると、また今度動けなくなってしまいます。だから、私はよく「リスクの凝りをほぐす」と言っています。

<景気循環と総需要管理政策>

飯尾:
次に移りまして、不均衡という考え方はともかくとしても、景気循環というのはそれなりにあるものですよね。

齊藤:
もちろんあります。多分GDPの水準に対して1%上下ぐらいではどうしても資本主義社会の中では起きてしまいます。ときどき子供が熱が出てしまったりということは、どんなに注意してどんなに健康管理をしていても起きてしまいますから、そのことに関して事後的になりますが、早くお医者さんに連れていくということは政策としてはやはり必要だと思います。

そういう意味では、どうしても出てきてしまう景気循環上の振動に対して、総需要管理政策をやっていけばいいと思うんですが、それは多分かなり節度ある範囲で金融政策がまず比較的早いタイミングで動く。また、財政政策も、財政支出よりはどちらかと言うと税の方のビルトインスタビライザーのような自動安定化装置的なところで、不況時にはできるだけ事実上の減税になるように進めるべきだと思います。ですから、ある程度、税制に累進構造を入れておく方が、そういう意味では望ましいと思います。

そうした範囲で財政金融政策によって上下1%ぐらいは、調整できると思います。そういうことに関して言うと、日銀も政府もそんなに他の先進国に比べて悪いと思わないのですが、日本の場合はそれを逸脱するような部分についても景気対策といってしまいます。

飯尾:
しかし、需給ギャップデフレ説だと、景気対策とデフレ対策は同じということになっていますよね。政治の世界ではデフレというのは不景気のことだと、これは私は確証を持てますが、国会議員の半分以上はそう思っています。そのため、大変困って、「うちに来るやつはみんなデフレで困っていると言っているんだから早くやれ」と言う。早くやれと言っても論理上違うものではないかと思うんですけれども。

齊藤:
アメリカには、CEA(大統領経済諮問委員会)という大統領に対して経済アドバイザーをする機関があります。CEAの議事録を見てみると、70年代に入って財政政策に関しては大きく方向転換をしていて、基本的には先ほど言ったビルトインスタビライザー的なところを除くと景気制御に財政政策を使うことをやめて、財政政策では、基本的には社会的インフラの整備と、所得再分配と、ミクロ的な効率性の向上という、全部ミクロ経済学的課題のほうに移りました。

飯尾:
アメリカだけでなくてヨーロッパ諸国はみんなそうだと政治的に認識していますが。

齊藤:
ユーロのような制度をつくるということはまさにそういうことです。そういうことから言うと、日本はそこの整理がないままに公共投資と景気対策ということの結びつきが強過ぎてしまって、それでさまざまな問題が起きていると思います。

財政の問題について

飯尾:
そうすると、今の日本の財政の状態というのは、やや分散型、拡散型の方向にいっていて、サスティナブルかどうかというのは疑問という感じもするのですが、この辺については経済学者としてはお考えになることはおありですか。

齊藤:
いや、私も今のままいくとサスティナブルではないと思いますが、これは非常に理屈から離れている話ですが、どこかで国民が帳尻合わせに負担をしなければいけません。

飯尾:
そうすると財政再建とマクロの経済運営との関係なのですが、財政再建は一挙にはできないけれども、長期的な、10年、20年の返済計画でも立てて、それでだんだん使う分は減らして負担は増やすというような長期計画を固定してしまうという方法が1つの考え方になりますが、これはどう思われますか。

齊藤:
負担の計画をきっちり提示する必要があるでしょうね。

飯尾:
しかし、そういうことはマクロの動向と独立にしても差し支えないものですか。

齊藤:
いや、事実としては、動向にかかわりなくやってしまうと影響は出てくると思います。だから、いいか悪いかという話になると難しいですね。

飯尾:
価値判断は別ですね。たとえば、ヨーロッパなんかはEUにコミットした段階でユーロに加盟しています。そろそろドイツが危ないかどうかわかりませんけれども、一応枠をはめてしまったわけです。ああいう形で財政再建計画ではないけれども、単年度の収支についてその枠をはめてしまうという方法があります。アメリカもその傾向にありますよね、法律レベルですけれども。政治的、法律的にはEUが典型ですが、憲法的取り決めによって固定するという事が大体行われています。幅を持たせないといけませんので、何%かの幅を持たせますが、そういうことかなという収支の目的をつくるということですが、その場合の経済的な影響というのはどういうことでしょうか。

齊藤:
そうですね、そういう状況の中である種、景気循環に対しても民間のほうで適応してくれということを言うしかないのではないかと思います。たとえば、戦後すぐの日本とか明治のころの日本でそう言ったらおかしくなると思いますが、やはりこれだけ富があり、生産水準の高い世の中での変動ということについて、もう少し考え直すことが必要なのかなとは思います。

飯尾:
ケインズ政策はまさに不況のときは財政支出するけれども、その後にそれを取り戻すということがセットになっているはずです。それができないということであればその幅を決めないとやり過ぎるということになってしまいます。

齊藤:
僕が会社に入ったときと比べて失業とか転職に関してもう少し距離を持って受け入れられるような感じになっているんじゃないかなという気がします。現在の若者にとっては、大変な試練ですけれども、一方で親が豊かになっていて簡単なバイトでも結構な額がもらえるということで、食いっぱぐれることはまずないですよね。少し働いてはまた大学に来て2、3年、ヒューマンキャピタルの形成を考えられるということ自体がすばらしいと思います。それを「失業」と言わないで「充電期間」と言えるような世の中の仕組みに大分なってきていると思うんです。だから、そうしたときに、国が景気緩和から少し身を引くということは、何か最終的に受け入れる素地があるのではないかという気はします。

国は本当に極端な不景気とか危機管理ということに関しては責任を持ちますが、自然と出てくる景気変動の部分については役割を終えてもいいのではないでしょうか。それと、かなり問題だと思うのは、長いタームの支出ですが、私はまだ社会的資本が不足していると思います。せっかくお金を出しても国の全体のバランスシートの資産にはなっていないというところも、ちょっと歯がゆい感じがします。

たとえば、東京に住んで2年目なんですけれども、何でもっとうまくお金をかけて都市計画をしないんだろうと、フラストレーションがたまってしまいます。本当に、そちらの方へは他の支出を削ってでもどんどんやっていくべきだと思うんです。都市とか防災とか環境とか、民間も含めて一生懸命考えていって、そこに需要が生じてくると思うし、本当は、そういうところが日本の豊かな社会の礎になっていくのではないかと思っているのです。

2002年1月23日採録 / 2003年11月7日掲載

第4回PDF [96KB]

総括

齊藤教授との対談では、不良債権、財政、デフレといった問題を総合的に見る視点が強調された。たとえば金融システム再生について、単に不良債権を処理すればよいというのではなく、処理過程を通じて、銀行に集まりすぎているリスクを分散化させ、それによって新たな金融システムを作り上げるとともに、表裏の関係にある産業再生を進めるという総合的な処方箋が示された。

あるいはデフレに関して、崩れた均衡を何かで補えばよいという考え方ではなく、悪い均衡が成立しているという見方を前提に、一挙に別のよい均衡への移行といった非連続的な過程を実現する総合的な対策が必要だとされる。

また政府の役割に関しては、明確なルールをもとに制度整備を進めることは前提だとしても、その中で各機関が明確な役割分担をもとに、民間の動きが鈍いポイントに限って少し後押しをするミクロの役割も必要になるとされた。対策の総合性と実現の手順をねばり強く追求する姿勢に強い印象を受けた。

2003年11月7日掲載