エピローグ

スポーツの世界では、とかくアカウンタビリティーが軽視されてきた傾向がある。これまでは、何について議論すべきなのか、議論のフレーム自体が設定されておらず、アカウンタビリティーを問う側と問われる側に共通の議論が成立しにくかった。「スポーツの公共性」という極めて曖昧なキャッチフレーズによって、アカウンタビリティーを問うことからスポーツを遠ざけてきたという歴史がある。(最近では「スポーツ文化」という言葉が、この曖昧さを更に補強する役割を担っている感がある。)

この問題の原因を更に調べていくと、実はわが国では「スポーツと地域振興」の関係を明確にせず曖昧なままにしておこうという意図があったのではないかと勘ぐりたくなるいくつかの事実に突き当たる。結論を先に述べれば、「スポーツによる地域振興」という耳障りの良いキャッチフレーズは、そういう政策があたかも存在するように思わせるイデオロギーであり、内実が伴わない。全くの虚偽なのである。

「地域振興」という政策が地方行政に存在するのか、その有無を証明するのは、第一に予算化がなされているかどうかである。予算化されていることが、アプリオリに有効な政策が実施されているということでは無論ない。しかし、予算化されていないということは、政策自体が不在だということに他ならない。役所の縦割り行政という問題が指摘されて久しいが、「地域振興」予算もその例外ではなく、中央省庁の管轄別に分かれている。例えば旧農林省管轄の「地域振興予算」で農道の整備が行われる。また経済産業省管轄では、中小企業の助成策が実施される。スポーツを管轄するのは、言うまでもなく文部科学省であるが、その文部科学省管轄の予算には「地域振興予算」という項目がそもそも存在しないのである。従って、一般の意識とは逆に、わが国には「スポーツによる地域振興」という政策は現実には存在しないのである。

たしかに「地域振興」をダイレクトにかつ全面に出せる省庁と、そうではない省庁があるのも事実である。なぜなら、各省庁は、それぞれ権限・目的が明確になっており、地域振興を真っ正面から打ち出せる省庁は、総務省と農水省ぐらいだろう。それ以外の省庁は、対財務省や対総務省との関係でそれぞれの所管施策の振興を第一義的に掲げながら、それが結果的に地域の振興にも繋がるというロジックで施策を立てているはずである。しかしながら文部科学省が地域振興予算を持てない合理的な根拠はなく、まさに縦割りの弊害である。

文部科学省も地域振興を直接の目的とする施策は打ち出していないが、地域のスポーツの振興や地域の文化の振興という観点から施策を行っており、それらは直接にはスポーツ振興や文化振興策であるが、結果的に、その地域の振興も図れるというロジックである。例えば、総合型地域スポーツクラブ育成事業などは、その典型であろう。「スポーツによる地域振興」では、スポーツが手段と位置づけられるため、文部科学省の「まずスポーツ振興→それが地域の振興に繋がっていく」というロジックとは齟齬を来すということであろう。だがこのロジックは、外部の者には理解しにくいし、第一、振興すべき地域の住民にとっては全く意味がない区別である。

それにも関わらず、従来大型の国際スポーツ競技大会を招致する際、議会答弁などで必ず「この地域の振興のため開催いたしたく」などと招致事由を説明している。そしてその成否は大会開催後、誰も問うことの無い空疎なお題目であることを行政側は承知の上なのだから、相当性質が悪い茶番劇が連綿と繰り返されてきたのである。

近くは98年に行われた長野冬季五輪も例外ではなかった。あれだけ大掛かりなことを行い、巨額な公金も投入されたにも関わらず、成果が調査され評価が公表された形跡がない。またそのことの不在が問題視され議論されたという形跡も見当たらない。成果を調査し報告しない長野県の行政側に「アカウンタビリティー」という意識が希薄なだけではなく、その報告を受けるべきTax Payerの県民側にもそれを要求するという意識が希薄なのである。それで良しとするなら、「アカウンタビリティー」などは望むべくもなく、もはや民主主義の放棄以外の何ものでもない。

今大会の行政評価というと、第一に施設面の問題が想起されよう。いずれも数百億円の税金を建設にかけた大型の公共投資である。大型の施設建設は「行政評価」に最も馴染むものではある。その公共投資はどのような見地から正当化され得るのだろうか。確かに大会に利用された10のスタジアムのうち4つはホームチームを持たず、中にはその上極端に交通の便の悪い場所に作られたところもあり、事後の利用に問題を抱えるところは少なくない。建設費を償却するなどは望むべくも無く、毎年数億円の運営赤字の解消に目途がたたないという施設が過半である。将に「典型的なハコモノ行政」という誹りはいくらでも可能ではある。しかしそれを事前にチェックできなかった責任に言及することなくこの問題を論ずるのは、無意味で不毛である。そういった事態を招来してしまった土壌、あるいは我々を含めた制度を再検討する必要がある。