第44回──RIETI政策シンポジウム「大規模業務データから何を学ぶか-経済学と物理学の統合アプローチ」直前企画

物理学で経済現象を読み解く

渡辺 努
ファカルティフェロー

情報技術の進歩は、E-mailやインターネットの普及を通じて個人の生活に大きな変化をもたらしてきただけでなく、経済活動においても、POSシステム、電子マネー、オンライントレーディングなどの導入により、従来のビジネスモデルを革新的に変化させてきた。この結果、民間企業において経済活動に伴う業務データが電子媒体で膨大に蓄積されるようになり、これらのデータを調査・分析に活用していくための、物理学のアプローチを取り入れた研究が進んでいる。RIETI政策シンポジウム「大規模業務データから何を学ぶか-経済学と物理学の統合アプローチ」の開催を前に、渡辺努ファカルティフェローに、経済物理学と業務データの分析をテーマにした今回のシンポジウムについて、その背景とポイントについて聞いた。

RIETI編集部:
初めに、今回のシンポジウムのテーマである経済物理学という比較的新しい研究分野について教えてください。

渡辺:
渡辺 努ファカルティフェロー 経済物理学とは、物理学の一分野である統計物理の手法を用いて経済現象を分析する学問です。通常経済学者は、GDPや消費物価指数など政府が作ったさまざまな統計データを利用して、経済現象を分析します。しかし、最近はIT技術の進展により、民間企業の経済活動に関するデータが電子媒体で蓄積され、これまでの政府統計に比べ、はるかに大規模で多様なデータが利用可能になってきました。たとえば為替を例に取ると、以前はディーラー間の電話で行われていた売買が現在はコンピュータを通して行われるため、売買に関する情報が、取引に至らなかった売り買いの情報も含め秒単位で電子データとして蓄積されています。このように、分析対象となるデータが、非常に詳細かつ大規模になったことで、同様に大量データから自然現象を分析する物理学の分析手法やモデルが応用可能になり、経済学とは異なるアプローチで経済現象の研究に取り組んでいるのが経済物理学です。

RIETI編集部:
具体的に、経済研究のどのような分野で物理学の分析アプローチが生かされているのでしょうか。

渡辺:
これまでに非常に有効な研究成果が出ているのは、先ほども例にあげたファイナンス分野です。為替レートや株価の変化の非常に細かい大量のデータが利用可能になったことで、その変動の分布の全体像を捉えることができるようになりました。そこから見えてきたのは、上昇にしろ下落にしろ、資産価格の急激な変化というのは、単純な正規分布で考える以上にかなりの確率で発生する現象だということです。つまり資産価格の動きとは、きれいな山形の正規分布では近似できないような裾の長い分布、ベキ分布に従うことが分かってきました。このベキ分布とは、自然界のさまざまな現象においても見られる分布で、物理学ではこの分布の形成メカニズムの分析が進んでいますので、これがファイナンスの分析に応用されています。

RIETI編集部:
経済物理学の研究アプローチにより資産価格の変動についてより理解が深まれば、今回発生したような金融危機を未然に防ぐことができるようになるのでしょうか。

渡辺:
資産価格の変動の分析からは、金融市場においては正規分布を仮定したリスク規制だけでは対応できない現象が頻繁に起きるということを学ぶことができます。つまり、正規分布でいえば、非常にまれで起き得ないので心配しなくてもよいという出来事も、実はかなりの頻度で起きているということが分かれば、それを前提にしたリスクマネジメントとの必要性が認識され、対応が進むでしょう。ただ、経済物理学の研究の中でそういった具体的な規制や対応の提案が出てくるというよりは、物理学の分析アプローチで見えてきたことを、経済学者なり実務家が十分咀嚼して、現実の問題への対応に取り入れていくという形で研究が生かされていくと思います。

RIETI編集部:
実際のビジネスレベルで、経済物理学の分析アプローチはどのように活用されていくのでしょうか。

渡辺:
これまでにお話ししてきたファイナンスの分野では、経済物理学の研究から出てきた為替変動メカニズムの理論モデルがあり、それを実際の取引に活用することを検討する人たちが出てきていますので、実務から得られたデータを基に、物理学の分析アプローチによりそのメカニズムを解明し、それが再び実務にフィードバックされるという流れが起きつつあるといえると思います。

また、経済物理学では、企業間のネットワーク構造やモノや資金の流れについての研究も進んでおり、現実のビジネス活動において企業がどのように取引を形成していくかについての規則性も解明されつつあります。この分野で研究が進んでいけば、企業の連鎖倒産のリスク評価にも応用が可能になり、これを未然に防ぐための制度づくりに生かしていくことが出来ます。

RIETI編集部:
現在、渡辺先生がRIETIで進められている経済物理学のアプローチを用いた研究には、どのようなものがあるのでしょうか。

渡辺:
私は価格に関心があり、RIETIでもオンライン上の価格形成に関する研究をしています。同一商品の販売価格の比較が閲覧でき、実際に商品の購入もできる価格.comのデータを利用して、数分ごとに改定されるサイト上の価格の変動の規則性を見つけだそうというのが研究の狙いです。これまでにも為替や株価などの資産市場の価格についての研究は進んでいるのですが、より生活に密着した商品の価格については分析が行われていませんでした。特に、オンライン上の価格は、日常品であっても、為替のようにリテーラーとリテーラーが取引して形成されていますので、資産市場の価格とスーパー等で購入する日常品の価格との中間に位置するものと考えています。このネット上の価格の変動を物理学の手法で分析して規則性の解明に取り組んでいるわけです。また、オフラインの店頭価格とネット価格の相関関係についても研究を進めています。

RIETI編集部:
今回のシンポジウムでは、分析対象となる業務データとして、小売、資産価格、ネットワークのデータについて議論がなされるわけですが、このような業務データの分析に関して、政策当局側にはどのようなインプリケーションが考えられるのでしょうか。

渡辺:
業務データが急速に増えていって、しかもそれを多くの研究者が利用できるようになっていることは非常によいことですが、やはり業務データは秘匿性の問題から入手が困難です。民間で蓄積されているデータの研究目的での利用を可能にするためのサポートが、行政サイドから得られるようになれば、もっといろいろなことがわかってくると思います。

また、もう一点は、これほど電子化が進み業務データが蓄積されるようになると、政府の公式データの作成もそもそも必要ないものが出てくるのではないかと思います。たとえば重要な政府統計の1つに消費者物価がありますが、現在のように調査員が店頭に足を運んで毎月価格の情報を収集しなくても、店舗が持っている店頭商品の全ての価格を電子データで提供してもらえるようになれば、人的にカバーしていた商品数よりもはるかに多種のデータを、また広範囲の地域にわたって簡単に収集できるようになります。

RIETI編集部:
今回のシンポジウムのポイントなどについて教えてください。

渡辺:
シンポジウムでは、まず3つの基調講演があり、ネットワーク、小売業、資産価格の3領域における研究で、これまでにどのようなことがわかってきているのかを報告していただきますので、これらの講演が経済物理学の研究のいまを知るよいイントロダクションになると思います。また、パネルディスカッションでは、大規模業務データの活用策について、民間の実務者、政府統計の作成担当者、物理学者、経済学者がスピーカーとして参加しますので、さまざまな視点が反映された有益な議論になると期待しています。

また今回のRIETI政策シンポジウムは、東京工業大学、一橋大学共同で、2009年3月1日から5日まで開催される国際会議の関連イベントとして開催されます。この国際会議では、経済物理学の若手研究者が国内外から多数参加して、連日研究成果についてディスカッションを行いますので、興味のある方は、ぜひそちらにも来ていただければと思います。

最後に、経済物理学は、あくまで物理学の一分野であり、日本でもまだ一部の経済学者が物理学者の共同研究者として研究に取り組んでいるのが現状なのですが、もっと多くの経済学者にも、物理学と経済学という学問の分類分けに囚われず、新しい研究アプローチにチャレンジしてもらいたいと感じています。今回このようなシンポジウムを開催することで、少しでもそのきっかけになればよいと思います。

取材・文/RIETIウェブ編集部 田原功平 2009年2月23日

2009年2月23日掲載

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