夏休み特別企画:フェローが薦めるこの1冊'07

『ヤバい経済学』

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八代 尚光(コンサルティングフェロー)

研究分野 主な関心領域:国際貿易、マクロ経済学、国際マクロ経済学

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『ヤバい経済学』スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー著 望月衛訳 東洋経済新報社 (2006)

『ヤバい経済学』表紙 90年代の米国における犯罪件数の急速な減少に寄与した要因は次のどれか? 好景気、銃規制の強化、画期的な犯罪対策。正解は、そのどれでもない。では実際には最も寄与した要因は? 懲役の増加、警官の増員、中絶の合法化。答えは本書を読んでください。「ヤバい経済学」には、このような我々を驚かせる小話がもりだくさんだが、その1つ1つはシカゴ大学経済学部の気鋭の若手経済学者である著者、スティーブン・レヴィットが、米国で最も権威のある学術雑誌に過去10年にわたり発表した論文による分析である。といっても、本書は小難しい経済学書にはほど遠く、あなたが半身浴ダイエットに凝っている20代の女性ならお風呂の中で、トイレを長時間占領して家族の顰蹙を買っている中年男性であればトイレの中で、お気軽に読み切ってしまえることは保証できる。

さて、本書はなぜ「ヤバい」のか。本書における議論そのものは、実はヤバいどころか、きわめて正統で洗練された経済理論と実証分析に基づくものである。問題はそれを理解した後で、我々が常日頃思いこんでいる通念がいかに「ヤバい」のか気づかされるのである。本書を読まれた後、あなたは同僚、嫁さん・旦那、彼氏・彼女、近頃の若いモン、おばあちゃん等を相手に最近偉そうにぶっていた話を思い出し、「ヤバっ」と独白されるだろう。

本書に含まれる各種の分析は、実証ミクロ経済学という、個別企業や個人ベースのデータを計量的に分析し、これら経済主体の戦略的行動や社会経済現象(寡占企業の製品価格設定行動、医療保険加入者の非加入者と比較した薬剤購入とか)を解明する最近の経済学の範疇に属する。ところが、レヴィットの研究テーマは、一瞬「はあ?」と思ってしまうものばかりである(力士の勝敗結果や出会い系サイトの勝算とか)。本書の面白いところは、そういった経済学とおよそ無関係に思える社会現象を、経済学の原則で明快に説明してしまうことである。

本書の命題は単純明快で、「人々はインセンティヴに反応する」というものである。インセンティヴは、よく誤解されるように経済的なものだけでなく、社会的なものや道徳的なものを含む。たとえば、飲酒運転には30万円以上の罰金という(負の)経済的インセンティヴが付されているが、同時に職場で訓告をくらうという社会的インセンティヴや、そもそも酒を飲んで運転するなんて社会人の常識に反したことをしてはいかん、という道徳的インセンティヴもあるだろう。インセンティヴは人々の行動原理を根本的に規定し、この視点に立てば、人々の不可解で時にはけしからん行動だって、あっけないくらい簡単に理解できる。

本書のもう1つの重要なメッセージは、客観的なデータと正しい分析手法に裏打ちされた議論の大切さである。とかく世の中には、自称「専門家」の方々の長年の経験だけに基づく感覚的な議論が多いが、本書はこういう感覚論が横行する社会的なトピックについて、綿密なデータ分析と明快な論理でこれらを鮮やかにひっくり返し、正統な議論とは何かをさらっと示してみせる。

本書は基本的に笑いながら読めてしまう本だが、我々行政官にとって本書のメッセージは重く受け止めるべきものである。インセンティヴ整合的でない政策は意図した効果を上げられないことが多い。たとえばアジアの優秀な人材を確保するため留学生に手厚い支援を行うのはよいが、良好な学業成績や日本企業への就職といった明確な給付条件を設定しなければ、数年間バイトしたあげく本国に帰ってしまうのではないか。また、日本経済の本質的問題の正しい分析と理解に基づかなかった90年代の大型経済対策は、日本をOECD中最悪の財政赤字国に転落させた。政策立案の場においては、偉い方々の意向に逆らえないことはしばしばある。ただし、我々自らが彼らのドグマに溺れる必要はない。正しい社会経済の見方を学び、鋭い分析の視点を磨くことは、経済政策の企画立案に関わる者にとっては尽きることのない責務である。

2007年8月17日