夏休み特別企画:フェローが薦めるこの1冊'03

"Law, Pragmatism, and Democracy"

"Law, Pragmatism, and Democracy" Richard A. Posner, Harvard University Press, 2003.

「参加民主主義」を否定し、国家の膨張を批判する消極的自由主義

Law, Pragmatism, and Democracy表紙 総選挙が近づき、与野党とも「マニフェスト」を作るという。しかし公約を守れなくても「大したことではない」などといい放った首相が、それをカタカナに変えたら守れるのだろうか? マニフェストが完全に実行できるぐらいなら、小泉内閣の「構造改革」はここまで手間どっていないだろう。小泉氏は「大統領的首相」だといわれるが、実際には米国大統領には法的な権限はほとんどない。大統領は行政府の機関にすぎず、その政策も党が立案するので、党の政策とそれを実行する官僚組織を一体で選択できるようにする改革(たとえば官僚の政治的任命)を行わない限り、マニフェストをいくら詳細に作っても、実行段階で挫折するだけだろう。

こういう政治的なレトリックは、「政治は政党と有権者の社会契約である」という近代市民革命の理念と、すべての国民は合理的に意思決定を行う「主権者」であるという啓蒙的な人間観を前提にしているが、著者はこうした「参加民主主義」を否定する。政治学の公共選択論が想定しているような全知全能の合理的個人がいれば、そもそも代議制は必要ない(事実その理論のほとんどは直接民主制である)。実際には、すべての国民がいつも政治について考えることは不可能だし、望ましくもない。人々の生活には、政治よりも大事なことがたくさんあるので、自分に判断できないことは専門家にまかせたほうがよい。

経済学の言葉でいえば、代議制は有権者の「情報コスト」を節約し、政策を「商品」として提供する政治家を競争させる市場メカニズムに似たしくみである。複雑な世界で「完全な契約」を結ぶことは不可能だから、政治家に一定の「コントロール権」をゆだね、有権者は政治家を選ぶことによって間接的に意思決定を行うしかないのである。これは著者も認めるように、シュンペーター以来の「エリート主義」だが、現実にはこれ以外の民主制は存在しない。インターネットで「直接民主制」が実現するとか、「反グローバリズム」の直接行動が世界を変えるなどというのは空想にすぎない。

著者は米国の連邦第7巡回控訴裁判所の判事で、一般には「保守派」とみられているが、その思考はほとんどラディカルといってもよい合理主義である。プラグマティズムは「実用主義」などと訳され、思想としては底の浅いものとみられているが、著者はこれをポストモダン以降の「真理の不在」状況における価値基準として再評価する。事実、ポストモダンの立場からプラグマティズムを唱えるリチャード・ローティなどの哲学者もいるが、著者のプラグマティズムは、こうした観念論ではなく、法的な判断において「何が正しいかは結果によって評価する」という帰結主義である。

この観点から、彼は20世紀初めのオーストリアの法学者ハンス・ケルゼンを再評価する。ケルゼンは、法を論理的な形式ととらえる「純粋法学」を唱え、法の妥当性は客観的な事実から必然的に導かれるものではなく、立法や司法の場での主観的な判断によって決まるとした。こうした経験主義(positivism)は、ワイマール時代の知的ニヒリズムだとして批判を受けたが、現代のわれわれが直面しているのも、ワイマール末期のような不安である。戦後の世界秩序を支えていた主権国家や国際機関などの権威が失われ、テロリズムや民族紛争がコントロールできなくなった。こうした混沌とした状況では、米国が「世界の警察官」として他国を先制攻撃してでも国民を守る、といった勇ましい議論が大衆的な共感を得やすいが、これはナチとよく似ている。

著者は、このように国家権力が生活の前面に出てくることを批判し、政治によって一律に「正義」を決めるのではなく、司法的にケース・バイ・ケースで判断すべきだとする。国民生活への政治の関与をなくすことこそ、究極の政治改革なのである。こういう「消極的自由主義」は、保守的で微温的にみえるかもしれないが、日本で実行するには抜本的な制度の組み替えを必要とする。政治や司法の役割まで官僚が負担する現在の行政機構は、もう限界にきている。これを打開するには、マニフェストとか地方分権といったスローガンよりも、行政の関与を減らし、当事者間で問題を解決する司法的なインフラを整備するしかない。そのために必要なのは、ロースクールを乱造することではなく、非弁護士活動の規制を撤廃して、司法的な仲介業務を自由な競争にゆだねることだろう。