解説者 | 安藤 光代 (慶應義塾大学商学部准教授) |
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発行日/NO. | Research Digest No.0050 |
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昨年9月のリーマン・ショック以降、世界中で保護主義台頭への懸念が広がった。世界貿易機関(WTO)のドーハ・ラウンド交渉も農業分野の取り扱いを巡って各国が対立、暗礁に乗り上げている。その一方、日本は東南アジア諸国連合(ASEAN)などとFTA(自由貿易協定)/EPA(経済連携協定)を締結し、貿易の促進に力を注いでいる。さらに鳩山新政権は東アジア共同体構想などで、この地域の関係強化策を打ち出している。FTA/EPAなどを通じて東アジアで貿易を加速させれば、地域全体の経済の活性化が期待される。
安藤光代准教授は本論文で、東アジアにおけるFTAの経済効果について、CGEモデルを用いたシミュレーション分析を行った。その結果、農業分野も含めた貿易の自由化(関税などの貿易障壁の削減・撤廃)だけでなく、通関手続きの簡素化や規格の相互承認などの貿易の円滑化や途上国への技術支援などを盛り込んだ包括的なFTAを形成することで、より大きな経済効果を期待できることが明らかになった。また、構成国の多い広域FTAほど経済効果が大きくなることが確認された。
――FTAについての研究を重ねておられますが、これまでの研究と今回の違いは何でしょうか。
2007年にRIETIで発表したFTAに関する研究成果は、日本が締結・発効した実存のFTA/EPAについて、その初期時点での効果を検証した事後評価分析にあたります。実際の効果を分析するために必要な統計は、FTA発効後ある程度の時間が経過していないと入手できないため、分析対象は日本-シンガポールEPAと日本-メキシコEPAの2つでした。2009年3月現在、日本は9つの国・地域との間でFTA/EPAを発効させており、その他の国・地域とも交渉中です(表1)。また、日本を含め、FTAへの取り組みが遅れていた東アジア全体を見ても、2000年代、とりわけその後半に入り、二国間あるいは複数国間のFTA締結に向けた動きが加速しています。
今回の研究は、東アジアにおける(実際に締結しているわけではない、という意味で仮想的な)FTAの効果として貿易自由化などがもたらす経済効果を、CGEモデル(計算可能な一般均衡モデル)を使ってシミュレーション分析したものです。2007年の分析が事後評価であったのに対し、今回の分析は事前評価にあたります。分析対象としている東アジアの(仮想的な)FTAは、ASEAN、ASEAN+3(日本、中国、韓国)、ASEAN+6(左記3ヶ国に加えて豪州、ニュージーランド、インド)、アジア太平洋経済協力(APEC)のFTAおよび複数のASEAN+1FTAであり、これらの経済効果を、GDP成長率、経済厚生の変化、貿易の変化率などの側面から分析し比較します。また、分析で用いているデータベース(2001年の世界経済に基づくGTAPデータベース第6版)は87の国・地域および57の産業から構成されており、これを分析の目的にあわせて、18の国・地域と16の産業に集計して各国・地域や産業への影響を試算します。
農業分野を含めた貿易自由化、円滑化、技術支援を考慮した試算
――具体的にどのようなシナリオでシミュレーション分析をされたのですか。
本論文では、FTAの経済効果として、貿易自由化、円滑化、途上国への技術支援の効果を推計しています。具体的には、1) 農業分野以外での貿易自由化(S1)、2) 農業分野での貿易障壁の部分的削減(半減)と他の産業での貿易自由化(S2)、3) 全産業での貿易自由化(S3)、4) 全産業での貿易自由化および円滑化(S4)、5) 全産業での貿易自由化、円滑化、および途上国への技術支援(S5)という5つのシナリオでシミュレーションを行い、これらを比較することで、それぞれの効果の大きさを検証します。
貿易自由化については、WTO交渉でも暗礁に乗り上げている農業分野での自由化を一気に推し進めるのは現実的には難しいという状況を鑑みて、全産業で貿易障壁を撤廃するケース(S3)に加えて、農業分野での貿易障壁を部分的に削減するケース(S2)やまったく削減しないケース(S1)も検証することで、農業分野での自由化の議論を試みています。貿易円滑化に関しては、輸入時の通関手続きの簡素化や相互認証制度の導入・適用品目の拡大などのさまざまな貿易円滑化によって輸入の効率性が上昇するという形で、途上国への技術支援においては、技術協力を通じて途上国の生産性が向上するという形で、モデルに織り込んでいます。
なお、とりわけ途上国とのFTAにおいて重要な要素だと考えられる直接投資や人の移動については、基本的なCGEモデルでは資本や労働は国境を越えて移動しないという前提に立っていることから、今回その効果を考慮していません。また、サービス貿易についても、関税障壁に関する情報が不足しているため、十分な検証が出来ているとは言えません。
貿易自由化=貿易障壁の撤廃のシナリオにおいて削減される輸入関税は、国によって大きく異なります(表2)。産業別の関税率(輸入額で加重平均したもの)を見てみると、たとえば、日本の製造業品では1.4%とかなり低いのに対し、農産品では30.2%と高くなっています。日本と同じように農業保護の高い韓国でも、製造業品の関税が4.5%であるのに対し、農産品のそれは81.7%です。また、相手国別の関税率(輸入加重平均)が示すように、たとえば、中国やASEANが日本から輸入する場合にはそれぞれ13.6%、5.5%、逆に日本が中国やASEANから輸入する場合にはそれぞれ5.2%、2.8%の関税が課されています。貿易自由化の効果を分析する際には、FTA参加国との間のこのような関税などを撤廃することになります。
他の分野と同様に、農業分野での貿易自由化も必要
――貿易自由化についての試算結果はどのようなものだったのでしょうか。
先に述べたように、本研究では、貿易自由化について、農業分野の取り扱いに応じて3つのシナリオを分析しました。その結果、GDP、経済厚生、貿易のいずれの面においても、ASEAN全体、ASEAN+3全体、ASEAN+6全体、APEC全体で見て、農業分野での貿易自由化を全くしないケースよりは部分的にでも自由化するケースの方が、そして、農業分野における貿易障壁の部分的な削減にとどまるケースよりも農業分野も含めて貿易障壁を完全に撤廃するケースの方が、その経済効果が大きいということがわかりました。したがって、やはり農業分野においても、他の分野と同様に、貿易自由化を推し進めることが域内経済にとって必要だと言えるでしょう。
また、各国別に見ても、ほとんどの国において同様の傾向が見受けられます。とりわけ中国やインドにいたっては、農業分野を自由化の対象から外すと経済厚生が大幅に悪化します。この経済厚生の変化をいくつかの要因に分解すると、中国では交易条件効果において、インドでは交易条件効果と分配効果においてマイナスになっています。つまり、交易条件の悪化に加え、農業を貿易自由化の対象から外すことによって資源分配の非効率性が一層高まったことで、農業を含めない自由化では経済厚生が大幅に悪化する結果になったと考えられます。
貿易円滑化や技術支援も重要
――貿易自由化以外の側面での試算結果はどうでしたか。
表3のS3の結果が示唆するように、貿易自由化は一定の経済効果をもたらしますが、一部の産業を除き、先進国ではすでにある程度貿易の自由化が進んでいます。さらに、東アジアの発展途上国などでは電気電子産業を含む機械産業を中心に、輸出財生産に用いる部品・中間財の輸入にかかる関税の免除や還付などの措置を実施しているため、実際の関税負担率はもっと低い可能性があります。したがって、貿易自由化だけでは十分に大きい経済効果は見込めません。
S3とS4を比較すると、どのFTAにおいてもS4の方が大きいことは明らかです。つまり、東アジアでは、貿易の自由化のみならず、輸入手続の簡素化などさまざまな貿易の円滑化の実施も重要だということです。輸入にかかる効率性の上昇は、国境をまたいで分散立地されている生産ブロックの間をつなぐサービス・リンク・コストの低下を意味します。円滑化措置を実施して国境を越えるサービス・リンク・コストを低下させることができれば、東アジアにおいて展開されている国際的な生産・流通ネットワークをより一層進展させることができるでしょう。
また、技術協力の効果も大きいと考えられます。S4とS5を比較すると、特に技術協力を受けると想定した途上国において大きな経済効果が観察されます。FTAの交渉では関税の引き下げに焦点があたりがちですが、貿易円滑化と同様、貿易自由化だけでなく、より包括的な内容を有するFTAを形成することで、より大きな効果が期待されます。
広域なFTAほど効果大
――その他に重要な要素として何が挙げられますか?
当たり前かもしれませんが、FTAは参加国が多いほど経済効果が大きくなります。試算結果を見ると、ASEAN、ASEAN+3、ASEAN+6、APECと構成国が多いFTAになるほど、域内諸国のGDPや経済厚生への効果が大きくなる傾向が確認できます。たとえば、ASEAN+3とASEAN+6の結果を比べると、ASEAN+6 FTAは、ASEAN+3に含まれない豪州、ニュージーランド、インドにプラスの経済効果をもたらすだけでなく、ASEAN+3の各国・地域経済にとっても、より大きな経済効果をもたらします。
また、3つのASEAN+1 FTAとASEAN+3 FTA、あるいは6つのASEAN+1 FTAとASEAN+6 FTAを比較すると、貿易自由化のみを考慮した場合(表3のS3)、一部のASEAN諸国では、複数のASEAN+1 FTAを形成した方がGDPや経済厚生への効果がわずかに高くなっています。これは、日中韓の間の貿易が大きく(ASEAN+6域内の貿易の3分の1に相当)、また関税率も高いため(表2)、日中韓で貿易が自由化されることによってASEAN諸国から中国へと貿易が転換したためではないかと推測されます。しかし、原産地規則はFTAごとに存在するため、複数のASEAN+1 FTAを形成する場合には、ASEAN+3 FTAあるいはASEAN+6 FTAと異なり共通の原産地規則がありません。その非効率さを考慮した場合の貿易円滑化効果も含めたS4では、ASEAN諸国にとってもやはりASEAN+3 FTAあるいはASEAN+6 FTAの方が望ましいとの結果が示されました。さらに、複数のASEAN+1 FTAを形成するよりは、ASEAN+3 FTAやASEAN+6 FTAの中での技術協力を望めるのであれば、ASEAN諸国にとってもこれらの広域FTAを形成するインセンティブはさらに大きくなると考えられます。
簡素で使いやすいFTA構築を
――今回の研究から、政策的にどういった提言が可能でしょうか?新政権では日米FTAも課題に上がっていますが。
まず、すでに言及してきたように、①関税の削減や撤廃といった貿易自由化に加え、貿易円滑化や途上国への技術協力など幅広い分野を盛り込んだFTA形成の必要性、②農業分野を含めた貿易の自由化の重要性、③構成国の多い広域FTA構築の意義があげられます。とりわけ貿易円滑化に関しては、東アジアで展開されている国際的な生産・流通ネットワークのさらなる発展につながると考えられます。
また、簡素で使いやすいFTAの枠組みの重要性も強調したいと思います。貿易自由化について、シミュレーションでは貿易障壁の(即時)撤廃を想定しています。しかし、実際のFTAでは、何年もかけて関税を引き下げる段階的な関税撤廃品目が少なくありません。そのような品目において最恵国待遇(MFN)関税がFTA締結時から大幅に引き下げられた場合、FTAで設定されたスケジュールに基づくFTAの特恵関税が(引き下げ後の)MFN関税を上回ってしまい、特恵関税を使わない方がいいというケースも生じています。また、たとえば、日本のFTAの場合、農業分野を中心に、MFN関税の複雑な関税体系がそのままFTAでも残存される傾向にあります。せっかくFTAを結んでも利用できなければ意味がありません。関税の即時撤廃を含め、FTAにおける関税体系は、可能な限り簡素なものにするべきでしょう。
さらに、貿易自由化に限って言えば、当然、無差別原則に基づくマルチ(WTO)での自由化が望ましいわけですが、WTOにはない対象分野の幅広さや柔軟性、さらには迅速性という優位性を活かしてFTAを戦略的に活用していく意義は大きいと考えます。FTAの波に乗り遅れずそれを積極的かつ効果的に活用していくべきなのです。一部の分野での自由化を避けてFTAが締結できないことによる他の分野でのコストは決して小さくないことも忘れてはいけません。
日米間では、両国の経済規模から考えても、FTAを結べば経済的なメリットは大きいと考えられます。しかし、特に農業分野では小麦などのセンシティブ品目の問題もありますので、実現はなかなか難しいかもしれません。
――今後の研究をどのように展開する予定ですか。
表1で示したように、日本が締結したFTAも増えてきました。また、以前分析したシンガポールやメキシコとのFTAについても、発効後ある程度の時間が経過し、扱えるデータが増加してきました。とりわけ段階的な関税撤廃品目の場合には、ある程度の時間がたたないとFTAの効果を期待しにくいため、これらのFTAの効果についても再評価していきたいと考えています。また、国際的な生産流通ネットワークとFTAの関係についても研究を進めたいと思っています。
解説者紹介
安藤 光代
慶應義塾大学経済学部卒業。同大学大学院経済学研究科にて修士号、博士号(経済学)取得。2001年から04年まで慶應義塾大学経済学部研究助手、その間、米州開発銀行統合・地域プログラム部門インターン(2002年)、世界銀行研究所リサーチ・アナリスト(2003~04年)を務める。慶應義塾大学経商連携21世紀COEプログラムCOE研究員、三菱経済研究所研究員、一橋大学大学院経済学研究科専任講師、慶應義塾大学商学部専任講師を経て、2008年より現職。主な著書・論文は、「東アジアにおける国際的な生産・流通ネットワーク~機械産業を中心に~」、"Fragmentation and Vertical Intra-industry Trade in East Asia," "Two-dimensional Fragmentation in East Asia: Conceptual Framework and Empirics," "Estimating Tariff Equivalents of Non-tariff Measures inAPEC Member Economies," "Impacts of Japanese FTAs/EPAs: Preliminary Post Evaluation"など。