日本の教育問題

開催日 2011年1月31日
スピーカー 橘木 俊詔 (同志社大学経済学部教授)
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議事録

橘木 俊詔写真私が産業構造審議会基本政策部会で教育問題にたずさわった際、日本が生産性を上げ経済効率を高めるためには、教育を充実させて国民の資質を上げなければならない。そのためにどのような政策が必要かということを報告書で発表したが、そうした内容が経済産業省内ではあまり評判がよくなかったと聞いて非常にショックを受けた。しかし、その後、そうした評判の背景として、文部科学省の幹部から経済産業省が教育政策に口を挟むことに対する抗議があったとのことを耳にしたので、抗議を受けたり駄目出しをされたりするような報告書だったということは、逆に関心を持ってくれたのだとポジティブに理解したいと考えている。

私の信念は今も変わらず、日本のように資源のない国では、労働者の質を高めることが一番大事な政策だと考えている。教育によっていかに国民の資質を高めるかは日本社会にとって非常に大事な論点だと思うので、本日はそうした視点に基づく私の考えをご報告し、皆様からのご意見や反論をお受けしたい。

半年ほど前に『日本の教育格差』(岩波新書)を出版し、日本における教育の現状についてまとめた。そこに 書いたことを踏まえつつ、8つの課題についてお話しする。

家庭環境が子どもが受けられる教育に与える影響

家庭環境(親の所得や職業)の差が、子どもの受けられる教育に大きく影響している。親のステータスと子どものステータスがどのような連鎖関係にあるかを扱うのが社会移動(ソーシャルモビリティ)と呼ばれている分野で、これについては経済学者ではなく教育学者や社会学者が研究している。単純にいえば、親が農家だと子どもも農家になり、親が医者だと子どもも医者になるのかといった親の職業と子どもの職業の関係性や社会的地位の変化を見るのだが、そこに教育が関与してくることが非常に重要である。

医者を例にとると、ご存じのように、今はどこの大学も医学部の偏差値が異様に高い。某国立大学に至っては医学部の最低点が他学部の最高点よりも高いという異常な事態になっているほど、医学部に入るのは難しい。そのため、親が医者で子どもも医者になることを望めば、医学部に入るためには子どもの頃からどのような教育をしなければならないか、どのような中学校、高等学校に行けばよいかと、親子共々必死になる。このことから、どのような家庭に育った人がどのような教育を受けられるかということが非常に大きなテーマになることがお分かりいただけるのではないかと思う。

もう1つ例を挙げると、一昔前までは親が農家であれば子どもも農家を継ぐケースが多かったが、たまたま農家に育った子どもが非常に優秀だと、たとえば東京大学法学部に行って中央官庁に入るという人生経路を選ぶこともできた。このようなことが可能だった背景としては、本人の優秀さはもちろんだが、学費が安かったことがもう1つ大きな理由としてあった。昔は公立高校の授業料は非常に安かったし、国立大学の授業料も我々が学生だった時代は月1000円、年額12000円であった。一昔前までは学費の安さを背景に、親の所得や職業などとは無関係に本人の能力と意思だけで自分の望む教育を受けられる時代であったということだ。

ところが今、国立大学の授業料は年額54~55万円になっている。学費は消費者物価指数の上昇の10数倍の伸びを示しているということになる。このことによって、貧困の家庭に育った子どもは、たとえ本人に能力と意欲があっても、国立大学にすら進学できない状況が想像できる。かつて私立大学と国立大学の学費の差は6~7倍あったが、今はおよそ2倍程度に縮まっている。昔は家庭が貧しくても勉強をすれば、私立大学は無理でも国立大学には行けた。ところが今は国立大学にすら行けない時代になりつつある。つまり、親の職業や所得といったステータスが、子どもの教育に大きく影響する時代になっているわけである。もう1つ直感的な話をさせていただくと、我々の頃は貧しい家庭の子どもは国立に行き、少しお金のある子は私学に行くという時代であった。昔は慶応義塾大学に進学する学生の親と東京大学に進学する学生の親の所得を比べると、慶応義塾大学に進学する学生の親の所得の方が高かった。ところが、今はそれが逆転しつつあることをご存じだろうか。慶応義塾大学に進学する子どもの親の所得よりも、東京大学に進学する子どもの親の所得の方が高いことが統計上出ている。同じことが京都でも起きていて、昔は同志社大学に進学する子どもの親の所得の方が京都大学に進学する子どもの親の所得よりも高かったが、現在はそれが逆転しつつある。親の所得が高くなければ東京大学や京都大学には行けないという時代になっているのである。

なぜ親の所得が高くなければそうした大学に行けないかは、どのような高校から進学しているかということから間接的に証明できる。かつて東京大学進学者数が1番多かったのは、東京都立日比谷高校という公立高校であった。番町小学校、麹町中学、日比谷高校、東京大学というのが一直線のエリートコースだったようだ。豊かな家庭の子どもも多かったとは思うが、必ずしも豊かな家庭ばかりではなかった。

それが20~30年前に一変する。学区制の変更により、開成や麻布、灘、東京教育大学(現筑波大学)附属等、いわゆる国立と私立の中高一貫校がトップに踊り出て、公立高校はあまりそうした大学に学生を送れなくなったのである。なぜならば、そのような中高一貫校に入るには塾に行かなければいけない、家庭教師をつけなければいけない、つまりお金がかかるということだ。今の子どもはひと月におよそ10万円ほどの費用を払って塾に行っているなどという話を聞く。親が豊かでなければそのような学校外教育は受けさせられない。したがって、今はどこまでの教育を受けるか、あるいはどの学校に進学するかは、親の所得に大きく左右される時代なのである。

これをより具体的に証明する数字が、東京大学の教育学部が行った調査で出されている。親の家計所得で区別して大学進学率の違いを見たところ、親の所得が200万円以下では28.2%、1200万円以上では62.8%という結果が出て、親の家計所得が高い家庭と低い家庭とでは大学進学率が倍以上違うことが証明されたのである。さらに具体的に大学に注目すると、トップレベルの大学や医学部に進学する子どもの親の所得はやはり非常に高く、所得の低い家庭の子どもは進学できていない。

もちろん、大学まで行くか、あるいはどこの大学に進学するかは、家庭の所得だけではない。本人の能力と意欲も非常に大事だし、中高でどのような教育を受けるかも大事である。親の所得だけが子どもがどこまで教育を受けられるかを決める変数ではないが、やはり今の時代は親の所得が備わっていなければ子どもの希望も達せられないかもしれない。

したがって、私が第1番目の結論として申し上げたいことは、今の時代は教育がすべての子どもに平等に開かれているとは言えない時代になりつつあるということである。

学力低下の原因は「ゆとり教育」か

学力低下の問題については、分数が計算できない経済学部の学生の話などが、ここ10年ほどいろいろなところで取り上げられてきた。世界各国の生徒の学力を比較するOECDのPISA調査で、数年前まで日本はトップクラスにいたが、ここ数年、日本の小学生、中学生、高校生の学力が低下し、10位以内ではあるがトップクラスたり得ず、日本の子どもの学力は非常に落ちている。

ゆとり教育を導入しなければならないと言い出したのは文部科学省だが、それに対して国民的な合意があったのだろう。つめ込み教育はいけないという風潮が非常に強くなって、基本的な勉強はほどほどにして全人教育などを一生懸命しようということになった。ゆとり教育の導入が学力低下の主要要因なのかどうかについては教育学の専門家にお任せしたいが、いずれにしろそのような雰囲気があって、子どもがあまり勉強しなくなり、学力が低下したので、数年前からつめ込み教育を復活させなければならないという動きが出てきた。それで文部科学省も慌てたのだろうか、ゆとり教育の見直しを行い、つめ込み教育を復活させるような状態になっていることは皆様もご存じだと思う。

ここでの結論は、日本の子どもの学力が低下した理由はどこにあるのかをはっきりさせた上で、教育をしっかり行う時代にしなければならないということだ。私自身は、ある程度のつめ込み教育は必要だという意見を持っている。

小学区制か大学区制

学区制については、昔は小学区制で、生まれた地域、住んでいる地域のそばの小学校や中学校、高校に通うというのが、ほとんどの府県の教育方針であった。小学区制が採用されていたのは、学校格差があってはならないという理由によるものだ。当時は日教組が非常に強かったため、子どもに学力の違いがあることはよく分かっているが、それをあからさまに認めるような学校格差があってはいけないという発想から、勉強のできる子もそうでない子も皆同じ学校で勉強する小学区制が良いとされた。それが30年以上前の日本の教育界の考え方だったのである。

その代表的な例は京都府だ。京都府は教育改革を行って小学区制を徹底した。小学校から高校まで自分の住んでいる地域に行くという制度にしたのである。その結果、学校間格差をなくすという目的は達成され、どの子にも平等な教育を行うという制度が定着した。

ところがその結果、京都の高校から京都大学への進学者が非常に少なくなった。昔は府立一中や府立二中から三高、そして京都大学というのが京都のエリートコースであった。それが湯川秀樹や朝永振一郎というノーベル物理学賞を受賞した人たちのコースであったのだ。ところが京都府が小学区制を徹底した後、京都から京都大学への進学者が減り、代わりに大阪府の高校からの進学者が多くなった。大阪府の公立高校は小学区制ではなく、10校程度で1群を作り、天王寺高校や北野高校、大手前高校といった名門公立高校から大量に京都大学に進学するようになったのである。

その意味で、小学区制には一長一短がある。平等教育を行うべきだという観点からすると小学区制は適しているが、優秀な人を飼い殺すのかといわれかねないような短所もある。東京都の学校群制度も同じで、導入後はそれまで東京大学に百数十人の生徒を送っていた日比谷高校や西高校、戸山高校のような名門校の実績が落ちたという事実が、この小学区制の問題と大いに関係している。

この学区制の問題は、どのような教育制度がいいのか、どれだけ規制をすればいいのか、平等がいいのかそうではないのかなど、政府のとるべき教育政策を考える際のポイントをそのまま提供している。

私立と国立の中高一貫校が台頭してくると、東京都は公立の中高一貫校を創設し、さらに中学校も学区制を廃止して遠い学校に通ってもよいという制度にしたが、私は小学校では小学区制を維持すべきではないかと思っている。小さな子が電車に乗って遠い学校に通う姿は危うさを感じさせる。小学校は地元でいろいろな子どもの中で育ち、中学校あるいは高校からは、個人の能力と意欲に合った学校に行けるような学区制にすればよいのではないか。大学には学区制がないので、上に行けば行くほど学区制を廃止するという制度がよいのではないかというのが私の個人的な意見である。

学校外教育の役割

学校外教育というものをどう考えるか。塾や家庭教師などの学校外教育が非常に重要になっている中で、親がどれだけの所得を得ているかがそれを受けられるかどうかの決め手になっていることを考えると、1番難しい問題がここにあると思う。

塾など行かずに小学校、中学校、高校の勉強だけしていれば望む大学に行けるのが理想だが、非常に優秀な子どもが学校外教育を受けることによってますます伸びるという学校外教育のメリットを考えると、学校外教育禁止などという政策は絶対にとれない。しかも、たとえ学校外教育はやめた方がよいという方針を決めたとして、普通の小学校、中学校、高校で勉強しただけでいい大学に行ける時代になるかといえば、それはまた難しい。学校の勉強だけの範囲で入試の科目を作ると全員が100点を取ってしまうことになるので、名門校は差がつけられなくなる。したがって、そこに学校外教育の一定の役割があるといえる。

小中学校教育の最大の目的は、トップにいる生徒の学力を上げることではなく、生徒の平均的な学力を上げることである。あえていえば、出来の悪い生徒の学力を上げるという目的の方が小中学校の場合は大事かもしれない。そうなると、非常によく勉強ができる子どもが公立の小中学校の勉強だけをしていたら、本人はフラストレーションがたまるだろうし、能力が十分に伸ばせないかもしれない。そういった子どもは学校外教育を受けて、良い高校良い大学に行ける道があってもよいかもしれない。

これに対する私の1人のアイデアは、同じ小中学校の中で格差を作ることだ。同じ学校の中で学力の高い順にクラス編成を行い、1番学力の低い生徒の揃ったクラスに資金も先生も投入して学力を上げればいい。学力の高い子どもの揃うクラスは、お互いに切磋琢磨して頑張って勉強するかもしれない。

公立校と私立校の差

公立校と私立校の差をどう見るべきか。これは1番目のテーマのところでもかなり申し上げた。大学においても国公立と私立の差はあるし、高等学校以下でも国公立と私立の差がある。学校教育にはどのような目的があるのかということとも関係するし、公立校内で学力にそれほど差があってはならないという考え方もあり得るだろう。私立は多少自由が利くので建学精神に基づいて好きな教育ができるが、公立は国民の税金で運営されている学校なので、文部科学省の監督の下、必ずしも好き勝手にはできない。そうした制約があるため、教育問題を考える時には公立と私立の差は常に念頭に置いておかなければならない。

高校・大学における実学の位置付け

教育の目的や役割は何かということと関連してくるのが、高校や大学における実学である。教育の大きな役割・目的の1つは、善良な市民として堅実に育つ人を養成する、1人の人間として立派に育てることだが、もう1つは良い職業人を育成することである。皆、学校を出た後は仕事に就く。学校でどのような教育を受けたかが、その人の職業人としての資質にも影響を与えるという意味で、有能な働き手を育てることも教育の大きな役割であるといえる。

教育が担うの2つの大きな役割・目的を理解した上で、今の日本の学校教育を考えてみたい。30~40年前の高等学校には商業科や工業科、農業科、水産科などの職業科があり、そうした職業人を生む学科で学んでいる学生が4割前後おり、普通科で学ぶ生徒はおよそ6割であった。つまり良い職業人を生むという教育が、高校教育のかなりのウェートを占めていたのである。

ところが、職業科の比率は徐々に低下してきた。これは30年前から現在に至るまで、大学進学率が急上昇してきたことと密接につながっている。つまり、日本経済が豊かになるに従って、親子共々大学進学を目標にしだしたということだ。そのため普通科に進学する生徒が増え、現在の比率は職業科が2割以下、普通科が8割以上になった。普通科の比率が圧倒的に高いということは、高等学校では国語、理科、社会、英語、数学を教えていて、電気や簿記、農業のような職業人として役立つ教育はほとんどしていないのが日本の高校教育の現状だと言い換えることもできる。

実際に、現在は18歳人口の50%が大学に進学している。大学進学のために皆が普通科に行くという時代になったわけだが、ここで問題が生じる。80%の子どもが普通科に行き、50%が大学に行くなら、残りの30%は就職したことになる。彼らがどのような職業生活を送っているかを調べたところ、フリーターやニート、非正規労働者など、いわゆる格差社会の一方の極にいる率が高い。普通科の生徒は、高校では国語、英語、数学、社会、理科しか勉強しておらず、職能を身に付けていない。さらに不幸なことに、普通科は基本的に大学進学が目標なので、先生の目は大学に進学する生徒にばかり向いて、落ちこぼれている生徒は見放されてしまう。職を探しに行っても技能がないので就職先がなく、フリーターやニートにならざるを得ないのである。その意味で、私は高校でもっと職業科を充実させるべきだと思っている。

大学についても実は同じことがいえる。理科系は大学で勉強したことが職業生活で役立つ比率が高いが、文学部や芸術学部など、就職とは必ずしも直結しない人文科学系の学部で勉強している学生の方が圧倒的に多い。高校と大学は実学をもっと重視する方向に向かわなくてはならないというのが私の持論である。

日本社会における理科系出身者の冷遇

日本の企業や役所では文系が有利で、理科系出身者は冷遇される傾向にある。役所は技官冷遇・事務官優遇といわれるが、民間企業も同様である。新日鐵の歴代社長の学歴を調べてみると、理系の社長は戦後何十人かの社長の中で1人か2人で、あとは文系である。新日鐵といえば技術の会社であり、採用数も理工系が圧倒的に多いにも係わらず、トップになるのは文系の人なのである。

もっと理工系を優遇しなければ、理工系の反乱が起こるのではないか。数年前に東京大学工学部電気工学科で、志望者が定員を割るという事態が起きた。このまま理工系を軽視し続けると、日本は技能でしか生きていけない国であるにもかかわらず、理工系に優秀な人が集まらない時代になる可能性があると申し上げておきたい。

公共部門の教育費支出額の低さ

日本では「教育は私的財であり、教育を受ける人が負担すべきだ」という哲学があるために、家庭に教育費を負担させ、国はあまり教育費を支出してこなかった。その結果、格差社会となり、親の所得が高い子どもは良い教育を受けられ、親の所得が低い子どもは良い教育を受けられない時代になった。そうした歪みを是正するためには、国がもっと教育費を支出しなければならないと思う。

これを間接的に証明する統計がある。日本はOECD諸国の中で、公共部門が支出している教育費(対GDP比率)が最低水準なのである。公共部門からもっと教育費を支出していただきたいというのが私の個人的な意見である。

質疑応答

Q:

理科系と文科系の話で、実際の企業名や官庁の例を挙げておらたが、これはサンプルの選び方の問題ではないか。最近、RIETIの西村和雄FFが同様の研究プロジェクトを開始し、近々ディスカッションペーパー検討会も開く予定だが、むしろ理科系の方が収入が高いという結論になっている。したがってどの辺りから見るか、どれほど一般化できるかは議論の余地があるのではないか。

また、医学部のことをおっしゃっていたが、理系で1番偏差値の高い優秀な人が医学部に行っているとすると、医学部も理科系に属していると思うので、医学部も含めて考えれば結論が違ってくるのではないか。

橘木:

私は主に官庁と企業における昇進の話をした。社長や重役、あるいは次官や局長などに誰がなっているかを調べると文系が多く、理系は昇級人事において冷遇されていると申し上げた。

Q:

教師の質が非常に重要だとする実証研究が多くあり、教師の質をわずかでも改善させるとGDPに非常に大きなインパクトを与えるという分析もある。教師の質を上げるにはどうすればよいと思われるか。

橘木:

2つ方法があると思う。1つは少人数教育にすることだ。これは教師の質とは直接は関係ないが、生徒の学力を上げるには40~50人のクラスよりも30人程度のクラスにして、1学級の生徒数を少なくした方が良いし、あるいは1クラスに2人担任を置くこともあってよいだろう。そのような形で1人の先生が面倒を見る生徒の数を少なくするというのが第1点だ。

教師の質を上げるために、たとえばフィンランドなどでは、大学院で修士号を取らなければ教員になれないという制度に変えたそうだ。大学レベルで先生になる教育を徹底させ、大学院レベルでなければ先生になれないようにすることも1つの方策であろう。さらに、教師の待遇を良くすることも非常に重要だ。

Q:

日本の教育費支出額はOECD諸国中最低水準だといわれたが、2年ほど前にRIETIが開催した政策シンポジウム「経済社会の将来展望を踏まえた大学のあり方」のパネルディスカッションで財務省の参加者から、確かに教育費支出額の水準は低いが、人口に占める子どもの数も最低水準であり、GDPに占める比率を子ども1人当たりに換算すれば日本はそれほど低くはないとの指摘があった。これに対するコメントがあればお聞きしたい。

橘木:

文部科学省と財務省の文教予算のやり取りの中で、いつもそうした意見が財務省から出ていることは私もよく承知している。一方で、教育費に占める公共部門の比率と、家庭の負担の比率を各国別に比較する数字も出ているが、それによると、日本は学生1人当たりにかける教育費支出の割合は圧倒的に家庭の負担が高い。外国では公共部門が負担している。そちらの観点から見ても日本は教育費の負担を家庭に強いているといえるのではないだろうか。

至近の例を挙げれば、今はさすがにイギリスやドイツでも授業料を取り始めたが、ヨーロッパではこれまで大学の授業料は無料だった。アメリカは圧倒的に授業料が高く、私学はおよそ200万円だが、奨学金制度が日本よりも充実している。日本は家庭に負担を強いながら奨学金の支出も少ない。誰が教育費を負担しているかという観点から、日本はあまりにも家庭に負担を強いていると申し上げたい。

Q:

国立大学の授業料について、現在は年間50~60万円の支払いが必要とのことだが、なぜ、戦後20数年間は月額1万2000円程度という低額に抑えることができたのか。

橘木:

1つの大きな原因は、学生数が少なかったということだ。18歳人口に占める大学生の比率が、当時は2割前後であった。2割程度しか大学に行かない時代であれば国もお金を出せたのだ。

今のように18歳人口の5割を超える人が大学へ行く状況では、大学生全員に国が支出したのでは日本の財政は破綻する。したがって、奨学金制度その他の方法で大学生の教育費負担を支持しなければいけない。

Q:

現在、ユニクロや楽天が社内の公用語を英語にしようとチャレンジしている。人文科学でも語学は役に立つと思うのだが、語学教育はどうすべきとお考えだろうか。

語学教育を開始する年齢が早ければ早いほど有利であることが分かっているので、大学でいくら語学教育をしても駄目だとお考えか、あるいは大学での語学教育は重要だとお考えか。教育投資の観点からお話しいただければと思う。

橘木:

英文科を出ても英会話ができない生徒が多い現状を考えれば、英文科でサマセット・モームやチャールズ・ディケンズばかり読んでいるだけではなく、会話を徹底的に教える方が語学科にとっては大事なのではないか。

Q:

能力のある人が大学で学べない、金銭的理由あるいは周囲の環境で頭を押さえれるということが1つの問題意識だったと思うが、一方で、その気があればウェブベースの一流大学の講義も聴ける。

あるいは人に意見を求めようと思えば、たとえばネットワークサービスで先達の意見も聞ける。その気になれば世界は相当広がっていると思うので、やる気があって能力があるけれども環境あるいは公的支援がないので芽が摘まれているという状況がある一方で、やる気があれば日本のフォーマルエデュケーションの枠を超えていろいろなことができる時代にもなっていると思うのだが、そういった可能性とのバランスで、この問題は今後自然に解消されていくという楽観主義は採れないか。

橘木:

まだ10代の子どもが、大学を出ずにインターネットだけで知識を吸収して、力のある人間になれるだろうか。

ごく一部の天才的な人はできるかもしれないが、私はごく普通の人にはそこまでなかなかできないのではないかと思う。

Q:

これまで日本の教育制度では、国語、算数、理科、社会で学び癖がついている人、モーティベートしている人を選別してきたわけだが、一方で、学校秀才が必ずしも社会においては柔軟性を発揮しないということもいわれている。

東京大学への進学者は確かに親の所得も高いし試験の成績も良いけれど、必ずしも東京大学出身者が高所得を得ている、あるいは企業家として成功しているわけではない。

いわゆる名門大学の重要性は低下しつつあるのではないかという議論もある。社会移動を固定化したとしても、逆の観点から見れば、名門大学の地位が相対的に低下し、それ以外の大学から社会的に上昇するチャネルが開かれて、社会的な流動性が固定化されることの弊害が逆に緩和されることもあろうかと思うがどうか。

橘木:

現状、やはり東京大学を出たという人と会った時には、この人は勉強してよく努力した人だなと、ほとんどの人が思うだろう。その意味で、人間の能力にはさまざまなディメンジョンがあるのだが、東京大学を出たということで人よりも抜きん出た資質を持っていると誰もが思うであろう。それがあるから東京大学を出た人が社会で活躍し、世間も尊敬し、したがって皆が東京大学を目指すのではないか。

アメリカは機会平等、学歴主義ではないという声があるが、日本よりもアメリカの方が学歴主義だ。どこのビジネススクールを出たか、どこのロースクールを出たかで初任給から違う。個人的には、日本のようにどこの大学を出ても初任給は同じで、その後にその人の頑張りようで差をつけるやり方のほうが望ましいと思う。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。