政治家と官僚の役割分担

開催日 2010年12月7日
スピーカー 八田 達夫 (RIETI顧問/政策研究大学院大学学長)
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議事録

八田 達夫写真世論や政策を決めるパワーエリートの選ばれ方はさまざまである。政治家は選挙で選ばれ、それが彼らの権威の根拠になっている。官僚は試験で成績の良い人がなる。

このように、政治家と官僚は、明らかに違う基準で選ばれている。では、両者は、政策決定にどのような役割を果たすべきなのだろうか。つまり、選挙で選ばれた人と、試験で選ばれた人がどのように政策決定過程における役割を分担すべきなのだろうかという問題を考えてみたい。

政策の分類

政策を大きく分類すると、所得再分配と効率的な資源配分とに分けられる。前者はパイの分割に関してであり、後者はパイを大きくすることが目的である。

まずは所得再分配は非常に大きな問題で、経済学者は昔から頭を悩ませてきた。再分配の考え方は価値観に大きく影響を受けるものなので、結局は政治家が選挙に基づいて、どこまで再分配するかを決めるべきだろう。

一方、資源配分の効率化によるパイの拡大に関する政策は、価値観ではなく、分析によって形成される。たとえば効率化に関して、「ある改革により利益を得た人が、損失を受けた人に仮に補償したとしても、まだ社会全体でおつりが残る」という改革を続けていけば、長期的に見て国は成長していく。しかし、改革の効果は分析しなければ予測できないので、そこに官僚や学者、シンクタンクの役割が明確にあるといえる。元来は、効率化政策は官僚の役割であるが、特殊で新しい問題については学者が、あるいは学者と官僚が協力して考えれば良い。

しかし、事業仕分けで明らかになったように、専門的な知識を用いなくても非効率を指摘できる事業がある。たとえばJICAがカンボジアで建設している学校の建設コストは、他国の援助による学校建設の2~3倍かかっている。それは、すべてを日本の業者に発注しているからだ。その表向きの理由は、質の良い学校を建てたいというものである。しかし、カンボジアの人からすれば、当然日本以外の国が建設しているような学校を倍の数建ててもらう方がいいと考えるだろう。このような状況を改善するには経済分析はさほど必要ない。専門的な知識がなくても、単なる無駄と汚職に近いものがあるのだろうという判断ができるため、このような問題の解決は、恐らく事業仕分けが向いている。

経済分析が必要ないもう1つの事例として、交差点の信号機に使われていた電球がある。LEDは電球に比べ、1)電力の消費が少ない、2)明るい、に加え、3)寿命が長いのでメンテナンスのコストが非常に少ない、という3つの利点がある。しかし、電球からLEDへの切り替えは、電球会社の抵抗により膨大な時間がかかった。

ところで、カンボジアの学校建設とLEDの問題に共通するのは、改革をすれば必ず損をする人がいるということだ。効率化により質のいい学校を建てていた建設会社や、電球の会社が損をすることになる。それにもかかわらず、これらの事例では、社会全体の得の方が一部の人の損失より大きいことははっきりしている。

もう少し複雑なものとして、近代郵便事業の例がある。前島密が西洋の郵便事業を見て日本でも郵便事業を立ち上げようとしたとき、飛脚業界が猛反対した。飛脚業界は大変な政治力を持っていたため、前島密は非常に苦しんだ。最終的には飛脚たちを郵便事業に雇用することによって一応の解決を見た。それでも飛脚たちは転職にまつわる大きな犠牲を払ったが、これも郵便事業という新しい技術を入れることのメリットは明白だろう。

もう少し分かりにくい例が、通産省が1960年代前半に行った、石炭から石油への転換策だ。石炭は戦後、「傾斜生産」政策で政府が手厚い保護をして、コークス以外は日本でほとんど自給自足できるほど立派な産業に育て上げた。雇用も多く、三井三池炭坑だけでも30万人が働いていた。ところが、中東の石油が輸入される可能性が出てきた途端に考えられないぐらい安い値段で石油が輸入できるようになった。

私の高校時代はテレビが一般家庭になかったため、学校行事でよく記録映画を観に行った。その中の1つに、カラコルム山脈を舞台にした作品があった。京都大学の人類学や生物学の学者で構成された探検隊が、イランからカラコルム山脈に行くというものだった。最初のシーンはイランの砂漠で火が燃えている場面で、「これが将来、世界の石油のかなりの部分をまかなうかもしれない中東の石油で、それが砂漠で燃えているのだ」と説明があって、なるほどそういう状況になるのかと思った。それが1950年代の話だ。

1960年代になると、それは現実的なものとなった。私が大学に入った1961年には、近所の銭湯の人から、コストダウンのため、風呂の燃料を石炭から石油に替えたいのだが、条例か法律かによって、石炭保護のために石炭の使用が義務付けられていると話を聞いた。そのような矛盾が、1961年に既に明白になりつつあった。そこでまもなく国は大々的に石油を輸入することを決断したが、その結果、石炭産業で大量の失業が生じた。それに対して国は、雇用促進事業団を作り、多くのアパートを東京や大阪に建設し、炭坑離職者が移住できるようにした。さらに、炭坑離職者を雇用した会社には補助金を出した。この石炭から石油への転換策は、日本が誇れる構造改革だったと思う。この政策のすごいところは、炭坑のあった筑豊や夕張ではなく、炭坑離職者が移っていく東京や大阪に資金を投入し、炭坑離職者の移動を促進したことだ。その意味で、素晴らしい模範的な構造改革だったといえる。

しかし、巨大な既得権を失う人々を説得するためには、改革の利点を説明する確固たる理屈の構築が必要となる。これは今の農業自由化の話と似ている。農業自由化では農業そのものに金をつぎ込んでいるという違いはあるが、パイの拡大に関する原理原則の説明はどうしても必要だろう。このような政策を理論的に正当化するためには、経済学の知識が不可欠である。

特に、外部不経済がある場合には、費用便益分析が必要になる。しかし、外部不経済などの市場の失敗がない場合には、特別な費用便益分析をしなくとも経済学の分析ツールによって、自由化の是非を判断できる場合がある。

いずれにしても、パイの拡大策では、確かに得をする人も損をする人もいるのだが、パイがそもそも拡大するのかどうかを分析する必要がある。それが、官僚や学者、シンクタンクの役割だ。

効率的資源配分

パイの拡大策とはいかなるものか。また拡大するために必要な市場と政府の役割は何かを詳しく見よう。

市場には、効率的な資源配分をする役割がある。しかし、市場の失敗がある場合には政府が介入しなければならない。

市場の失敗には、一般的に4つの類型がある。「外部性(外部経済・外部不経済)」「公共財」「情報の非対称性」「規模の経済」だ。

さらに、政府の失敗がある場合にも、政府は、それを自然に戻すために介入する必要がある。市場に任せておけば資源は生産性の高い方向に流れていくのに、参入制限など資源の移動を妨げるような規制や法律によって、資源の流れが滞っている状態を指す。

実は、「市場の失敗にも対策を立てた場合、市場に任せておけば効率的な資源配分が達成される」という命題を証明することができる。この命題は、「厚生経済学の基本定理」と呼ばれている。

このときの効率的な資源配分が達成されている状況とは、誰かの生活水準を上げるためには、ほかの誰かの生活水準を下げるほかないという状況を指す(もし、ほかの人の生活水準を下げずに、ある人の生活水準を上げることができるなら、それは無駄のある状況、非効率的な状況だったといえる)。

効率的資源配分を図で見てみよう。図1の外側の実線は、効用可能性フロンティア(効用フロンティアとも呼ばれる)である。これは、ある経済で資源が一定で技術が与えられているとき、Aさんの効用水準(生活水準)を一定にして、Bさんの効用を最大限達成しようとするとき、どこまで達成できる効用の組み合わせを連ねたものだ。効用の組み合わせがこのフロンティアの上にある状況で効率的な資源配分が達成されている。つまり、Aさんの生活水準を上げようと思うと、Bさんの生活水準を下げるしかない。ところが、もしJ点にあるならまだ無駄があるので、両方の生活水準を上げることができる。要するに厚生経済学の基本定理は、「市場の失敗も政府の失敗もないのなら、市場に任せておけば経済はフロンティアの上に乗る」と言い換えることができる。

しかし、実際にはわれわれの経済はゆがみだらけで、市場の失敗や政府の失敗が頻発するため、実際の経済はフロンティアの上ではなく内側にある。点線はゆがみを前提にした効用可能性曲線だ。独占もあり、農業もうまくいかないなど、さまざまなことを前提にして所得再分配すると、生活水準はこの線上を動いていく。

農業の貿易の自由化の結果、J点からE点に移ったと仮定する。農民(A)の生活水準が少し下がり、ほかの人たち(B)が得をすることになる。ところが、所得を再分配すればK点の方へ動く。そうであれば、得をしたBはAに補償してもなおおつりが来るということで、効率化したといえるだろう。先ほど定義した、得をした人が損をした人に補償してもなお得をするという状況というのはこういうところで、結果的には両方ともが前よりもいい状況になり得るというわけだ。つまり、所得再分配によってJ点を頂点とする斜線領域に移り得る場合には、その政策は効率化政策だといえる。

問題は、補償はなかなかできないということだ。これは後で説明するが、改革で損害を受ける人全員に対して補償することなどできない。したがって、結局、補償せずに政策を実施して、次はまた別の政策を行うというように、失う人を作り続けていってしまう。

とは言え、徹底的に効率化政策を実施することで、いずれは効用フロンティアに到達するだろう。

社会的厚生の最大化

さて、効率化政策によって効用フロンティアの上に到達したとしよう。しかし効用フロンティア上には無数の点がある。そのうちどの点が社会的な観点から最も望ましいのだろうか。

その評価基準は、所得分配を含めた価値観に基づく「社会的厚生」だ。異なる人々の効用のさまざまな組み合わせに対して、社会的厚生水準の評価を与える関数を社会的厚生関数と呼ぶ。図2の無差別曲線は、AさんとBさんの効用水準の組み合わせに対して順位付けを行っている。もちろん、上の方に行けば行くほど社会的に望ましいと評価される。L点では平等だが、それより多少Aさんが貧しくなってもBさんが非常に豊かになるJ点に移るなら、L点と同じぐらいの社会的価値があるだろう。あるいはBさんだけが非常に豊かでAさんが貧しい状況と、Aさんだけが豊かでBさんが貧しい状況というのは、似たような社会的厚生の水準だと考える。この曲線群が、特定の社会的厚生関数-価値観-を表している。図2では、フロンティア上で社会的厚生を最大化している点はMである。

このような価値観は、選挙で選ばれた政治家が表明するもので、政党ごとに違った価値観の体系があって構わない。効用フロンティアと社会的厚生関数を組み合わせて、自分の党が目指すべきところ、社会的に最大化する位置を示すことが政治家の役割なのである。

効率化政策を続けて行けば、次第に、フロンティア側に近づく。その間に併行して、低所得者に対しては高所得者から所得再分配をしていけばM点に近づくのではないか、あるいは一度Q点へ来てからM点にへ行ってもいいので、とにかくその2つを並行して別の次元でやっていけば、いつかはM点に来るのではないかと考えるのである。このように効率化は、所得再配分政策と併用することで長期的に社会的厚生を上げることができると考えるのである。

厚生改善と効率化の矛盾

図3の曲線(a)は、ゆがみを前提にした効用可能性曲線だ。たとえばこの曲線上のJ点からE点に移るのは明らかに効率化している。しかし、E点は、J点を通る社会的厚生関数の無差別曲線より下にあるため、社会的厚生は落ちている。J点より不平等になっているからだ。一方、W点はかなり平等化しているので、社会的厚生関数の観点では厚生は上がっているが、明らかに効率は下がっている。つまり、効率化と社会的厚生改善という2つの基準は矛盾しているのだ。

効率だけ考えれば、厚生の水準は全く無視するため、W点への移動は拒否する。それに対して、社会的厚生関数で逐次に改善する必要があるという人たちは、W点を受け入れ、E点は拒否するという問題が起きる。

私が思うに、政治主導という考え方は、社会的厚生の逐次改善を意味しているのではないか。要するに、初めから効率が改善するかどうかは関係なく、政治的判断で1つずつ見ていくのだという考え方が後ろに潜んでいるのではないかと思う。

補償は不可能

このような矛盾を解決する1つの方法には、個々の政策ごとにAさんもBさんもベターオフするような的確な補償を行うことだ。図1でいえば、ある政策によってE点に行ったものを放置するのではなく、再分配によってK点に戻す。そのようにひとつひとつ丹念に補償していけば、社会的厚生も当然上がり、矛盾は生じないではないかと考えられる。しかし、それはまず不可能だ。

たとえば独占禁止法を考えよう。独占企業が被る損失は、改革の前後における利潤の差として計測するのが第一次接近だろう。しかし、補償を受ける会社が改革後、利潤が下がっただけ補償を受けられるとなれば、モラルハザードが起きてしまい、経営努力を行うインセンティブがなくなってしまう。つまり、改革による損失額に基づいて補償することはできないため、何を補償していいかよく分からないのだ。

独占禁止法によって人1人の消費者が得る利益に基づいて課税し、独占企業の損失補填の財源にしようと思っても、余剰の変化の計測は難しいので、各自の消費量に応じて税金を課すとすると、消費者は税金を下げるために財の消費を減らしてしまう。このようにモラルハザードが起きる。従って、何らかの損失に対して補償しようとすると、原理的にできない面がある。だから、丹念に1つ1つ補償することはできず、よほど大きな産業がつぶれるようなときに、何らかの荒っぽい激変緩和措置を取るぐらいのことしかできない。

効率政策と分権化

では、効率化政策と厚生改善政策のどちらがいいのか。まず、厚生改善政策の問題点は、政治家自身がすべての判断を下さなければいけないことだ。そこでは価値観を導入する必要があるため、膨大な手間がかかり、実際には不可能である。政策の数があまりにも多いため、その1つ1つを価値観では判断できないのだ。もう1つの問題は、価値観であるが故に判断の透明性を欠くことだ。したがって、厚生逐次改善政策に基づいて政治家がトータルで判断していくやり方が「正しい政治主導」であるとは考えられない。

社会的厚生を逐次改善する必要があるという立場からは、効率性は関係がない。1つ1つの事柄について、社会的厚生が上がるかどうかを基準に政策決定を行うので、仮に社会的厚生が上がるなら非効率になっても構わずに推進するという考え方があり得る。この立場は、厚生逐次改善原理と呼ばれる。この原理は、分権化ができないために現実的ではない。

これに対して、効率化の判断にはある程度客観性があるので、膨大な政策の判定案件があるときにも官僚機構がそれを粛々と分析できる。分権化できるのだ。官僚は、変なことをするかもしれないが、それは情報公開でチェックすることができる。つまり、厚生改善政策と効率化政策は、運用に要する費用という意味においては非常に大きな違いがある。

効率化政策がもたらす長期的厚生改善

一方、効率化政策は行うたびに何らかの犠牲者を生む。それでもいいのだろうか。

実は、今われわれがごく当たり前に使っている消費者余剰という概念を作ったヒックスやホテリングが当時書いたものを読むと、これについて彼らは非常に楽観的だ。

たとえばホテリングは、The Tennessee Valley Authority(TVA)について次のように書いている。「TVAはテネシーバレーの近隣住民に治水による恩恵を与える。その一方で、テネシーバレーの近隣以外に住む納税者に負担を強いる。しかし、TVAのような事業は、全国で行うものだから、それらの事業全体でみれば、納税による損失を相殺して余りある利益をすべての人々に与えよう」このような効率改善政策を行うと、長期的視野ではみんながベターオフするというのがホテリングの主張だ。全部が良くなるというのは少し言いすぎだと思うが、大抵の人が良くなるということはいえると思う。

当時は社会的厚生という概念はなかったが、この概念を入れれば、効率化原理の採用によって、一部の人は多少前よりも悪くなるかもしれないが、全体的には良くなるので、社会的厚生は上がるだろうという楽観的な観測を持てるかもしれない。特に、再分配を並行して行うなら、そういうことがいえるだろう。

個々の効率化政策は、損をする人を生み出しても、すべての効率化政策を遂行していくならば、長期的にはほとんどの人が高い生活水準に移るだろうという見込みに基づいてすべての効率化政策を行う方針を効率化原則という。

効率化原則採用のための前提

ここで「効率化原則の採用が望ましい」と学問的にあるいは先験的にいえるわけではないことは確認しておく必要がある。

ただし、場合によっては、厚生改善政策の方が効率化原則で突き進むよりいいこともある。たとえば効率化政策がほとんど行われない途上国において、世銀のファイナンスによってダムができるとしよう。ダムができると、人々の生活は大きく改善するが、ダムで沈む町の人々はやはり損をする。しかも、この経済では、ほかの効率改善政策などは行われないので、一生に一度の政策変更になる。このように、得をする人は大きな利益を得るが、失う人の損失があまりに大きい、しかもまれな効率化政策は、やめておいた方がいいといえるかもしれない。

しかし、そうした国の状況と、日本の状況はかなり違うだろう。次の3つの前提を満たしている国では、効率化原則を採用することが望ましいといえよう。

第1は、その国で他に多くの効率化政策が行われていること。多くの効率化政策が行われていれば、それらの再配分効果が相殺し合う可能性がある。

第2に、職業選択や居住地選択の自由があること。先ほどのダム建設の例でも、居住地選択の自由があれば、住民は長い目で見て改革の恩恵を受ける場所に移っていくこともできるだろうが、そうでなければ建設すべきではないといえる。

第3に、セーフティネットが充実していること。前述の2つがあったとしても、運悪くどの政策でも救済が受けられなかったときでも、セーフティネットによって立ち上がるチャンスが与えられるかどうかである。

両原則混合の不可能性

効率化原則を採用すれば、基本的には官僚機構が客観的な基準で政策を選別し、ダイナミックに発展する社会を作ることができる。とはいえ、やはり政治家も分配に関する価値判断を一部には入れて厚生改善を評価したいという場合があるだろう。効率化原則に併行して社会厚生改善政策を混合しようというのが、今の政治主導なのかもしれない。

ところが、厚生改善政策と効率化政策の両方を採用すると、何の政策も行わない場合よりもパレート劣化する可能性がある。このことを示そう。

図4のJ点をスタート地点として2つの省庁が別の政策を実施することを考える。たとえば経済産業省がある政策を行うと、経済はJ点からE点に行くとしよう。この政策は、不平等化するので社会厚生は下げる。しかし、E点は(a)より上位の効用可能性曲線である(b)の上にあるので、効率化政策ではある。次に、厚生労働省が行う別の政策で、経済はE点からQ点に行くとしよう。Q点は明らかにE点より非効率化しているが、社会的厚生を上げる。

ところが、両省の政策の組み合わせの結果到達するQ点は、最初のJ点と比べてこの国全ての人の生活水準が下がっている。これは、2つの省が別の基準で政策を遂行した結果だ。それぞれの政策の悪い面の方が残ってしまい、効率も厚生も下がってしまっている。

厚生逐次改善原則(厚生改善政策のみを毎回採用する方針)か、効率化原則のどちらかで、首尾一貫するのならば、このようなパレート劣化は起こり得ない。したがってわれわれは、効率化原則か厚生逐次改善原則かの二者択一を迫られている。

日本のような先進国では、効率化原則を採用し、所得再分配の制度を併用することが、長期的な発展のためには望ましいといえよう。

八田 達夫写真

政治主導の意味

効率化原則の下における政治家の基本的な役割分担は、所得再分配である。しかし、政治家には、この原則の下でも、その他の役割もある。

(1)激変緩和措置

まず、効率化をもたらす改革は、勝者とともに敗者を生むので、敗者に対する激変緩和措置が必要な場合が多い。どのような激変緩和措置を取るべきかを決めることは、政治の役割だといえる。すなわち、政治は官僚が示す最終的に採用すべき政策を了解した上で、そこへのスピードを調整する役割を持つといえる。

(2)プライオリティー付け

効率化政策を実現するためには、オータナティブの手段の選択、それぞれの比較、国際比較、また関係者からのヒヤリング、利害の調整といった大変なエネルギーと努力と資源の投入が必要である。したがって、無数の改革のアジェンダの中から、何を優先的に選ぶかという選択をする必要がある。これは、政治の役割である。

(3)官僚機構の機能発揮のための環境作り―公務員制度改革

従来、日本の官僚は、パイ拡大政策や長期的なビジョンを示す役割を十分果たして来たわけではない。官の既得権を守るためにエネルギーを使ってきた。さらに族議員と結びついて民間の利益集団の既得権を守る役割も果たしてきた。日本の制度が、官僚にそうせざるを得なくなるよう仕向けてきたという側面がある。

公務員が定年まで勤められるように、公務員制度を改革し、民との癒着や非効率的な天下りポジションをつくらなくてもよいようにすべきである。このようなことをして、官僚が利益集団の影響を受けずにパイ拡大の政策形成に専心できる環境を整えることも、政治家の役割だろう。

(4)官僚機構の監視

官僚機構が企画立案している政策が真に効率化政策であるかどうかをチェックする必要がある。そのためには、官に情報開示をさせることが基本だが、政治主導によって、それをチェックするための正式の機関を設けることも重要である。

内閣府の「規制改革会議」(3年ごとに正式の名前が変わるが、この機関の一般的呼び方としてこの名称を用いる)は、国民全体の観点から、各官庁が効率的な資源配分を行っているかどうかをチェックする機関である。ついつい業界団体の利益を守ることに傾きがちな各官庁に対して、さまざまな情報の公開を求める。次に、役所側が非効率化する政策を行っていればそれを指摘し、担当官庁に直させる。もし納得しなければ内閣府の大臣と所管の大臣とが交渉する。政治主導で官のパフォーマンスをチェックする手段になっている。

また、省庁が省益を守るために改革を曲げようと化している場合には、それに対して首相のリーダーシップで牽制措置を取ることが必要だろう。経済財政諮問会議の役割は、これだったといえよう。政治主導によって、政策決定の一官庁による独占を排し、常に競合するもう1つの分析を示す体制を作ることにより、元来の官僚の役割が最大限に発揮される環境を整える機能を持っていたといえよう。

これらは自民党政権下で、一定の機能を発揮した時期もあったが、自民党政権末期には政権自体が、利益集団や特定官庁の圧力に負けて、これらの基幹を骨抜きにしていった。これらの基幹が、機能を果たしているか否かは、政権の「政治主導力」をはかるバロメータである。

(5)移行過程での政治主導

さて、新政権では、「政治主導」が大きなスローガンとなっていた。

「政治主導」の当初は、与党の政治家が直接個々の政策を決めた。これは、まさに厚生改善政策を行おうととした試みだとみなすことができる。しかし、これを試みた結果、①政治家が直接扱える範囲が少ないので、ごくわずかな政策しか実行できなかったこと、②それぞれの省の省益を代表した各省の政務三役間の意見が深刻に異なり、政府としての社会的厚生関数が示されていなかったこと、などによって、厚生逐次改善政策を全面的に実行するのは大変な困難を伴うことを露呈した。

これは効率化原則の下での政治家の役割分担を明らかに越えた政治主導を目指していたと考えられる。新政権は、効率化原則の下で官僚が元来行うべきパイ拡大政策形成の範を、政治家が主導権を持って示そうとしているのだと見ることができる。政権の転換期においてはこのような政治主導もやむを得なかったのかも知れない。

しかし政治主導の重要な課題の1つは、官僚が元来の役割を取り戻せる環境を作ることである。官僚の元来の役割が取り戻された後は、分析力と情報を持つ官僚をパイの拡大策にのびのびと専心させるべく、官僚との役割分担を明確にすべきであろう。

政策形成と社会科学

効率化政策(すなわちパイの拡大政策)は、官僚機構の役割として位置付けざるを得ない。官僚機構が、自信を持ってこの政策を行える社会にしなければ、活力のあるものにならないだろう。そのように官僚の役割を位置付けると、社会科学の役割も非常に大きいと思う。

諸外国では修士課程や博士課程の修了者が官僚になるというのが相場になりつつあり、政策研究大学院大学でも3分の2の学生が海外留学生だ。彼らは母国に戻って出世するが、日本ではそのようなことはない。もちろん、役所に既に就職した方は必要性を感じて来ておられるが、一般の学生は修士、博士を取って役所に入ろうとは普通は思わない。

公務員の採用自体を、現代的な基準に合わせ、効率化政策を遂行する使命感と分析能力を持った人によって構成される政府にすべきであろう。

官僚の役割はパイの拡大策なのだということを社会全体が認識し、それに合う教育システムや官庁の昇進システムを作っていくべきなのではないか。

一方、政治家の役割は再分配と激変緩和措置だけでない。パイの拡大策に官僚が没頭でき、しかも誘惑に惑わされない環境を整えることも、政治家の非常に大きな役割であると思っている。

質疑応答

Q:

図4で、J点からE点に行く政策はたとえば官僚の役割で、ここでは厚生労働省の政策と言われたが、たとえば政治家が再分配を行うのは、J点からW点、E点からQ点に行くようなことなのか。

八田:

政治家のタイプによると思う。一旦、J点からE点に移ったあと再分配する場合には、正統的な再分配政策(すなわち、累進度を高める、相続税を高める、生活保護を充実する、大学進学への奨学金を出すなど)をすると、ゆがみのある効用可能性曲線沿いに移動するので、K点に行くことになる。ところが、政治家というのは往々にしてゆがみを作り出すような再分配を行ってしまう。たとえば、正規労働者と派遣労働者の待遇に格差を縮めるためと称して、政治家が雇用規制を強める形での再分配をしようとすると、非効率で社会的厚生も下がるQ点のようなところに行ってしまうという結果を招くことになる。

Q:

年金や医療保険制度のように、分配政策であると同時に効率と公平性がトレードオフになるような政策がある。官僚が常に効率を高める方に行くとなると、たとえば年金制度は小さければ小さいほどいいのか。

八田:

そうではない。たしかに、再分配は、累進課税や、相続課税、生活保護できちんと行うべきであり、年金に再分配機能を持たせるべきでない。しかし公的年金制度は、効率性の観点から政府が設置すべきなのだ。実際には年金に再分配機能を混ぜてしまったのでモンスターのようなシステムになっている。

まず、国民年金はなぜ必要かというと、生活保護制度に対するモラルハザードを防ぐためだ。もし国民年金がなくて生活保護というシステムがある場合、所得水準の低い人の場合には、65歳を過ぎて貯金を残しておくのは無駄になる。全部使ってしまって生活保護に入った方が得だからだ。従って、もし生活保護のある社会に国民年金がなければ、大変なモラルハザードが起きるだろう。国民年金は、それを防止するために存在する。要するに、老後のための貯蓄を強制し、老後に備えさせるという意味だ。これは、モラルハザードを防ぐという目的だから効率性のためだ。再分配機能がなくても必要だ。

厚生年金の存在意義は、民間年金の逆選択による市場の失敗を克服するためだ。民間の年金会社は、個々人の寿命が分かっていれば、それに応じた保険料をかけられるが、情報の非対称性のためにそれができない。各人の潜在的な余命に関係なく、一律の保険料をかけるから、親が早く病死したり自分も病気がちだったりする人は貯金でまかなおうと考え、年金に加入しない。このため、長生きできると考える人ばかりが年金保険に加入する。したがって平均余命の高い人のみが年金に加入する。このため民間の年金の収益率は極めて低く、普通の平均余命の人にとって魅力のないものになっている。この状況を克服するために、厚生年金をつくって全員に加入させているのである。これも効率的な制度構築のためだ。

Q:

決断する政治家と、選挙民の意を吸い上げる政治家は、本当は同じであることが望ましいが、なかなかそうはいかない。アリストテレスの時代から民主制はベストではなく、独裁制や貴族制の方が優れている面もある。民主制の弊害を取り除くために大統領制や総理大臣制ができ、貴族制的な官僚や学者の役割が取り入れられ、それでバランスが取れているのではないかと思う。この決断と吸い上げに関してお考えを教えていただきたい。

八田:

民意を吸い上げる方法には、市場と選挙の2つがあり、その役割分担をどうするかという話だと思う。アリストテレスの時代には、それほど市場の役割を認識していなかったかもしれないが、民意を吸収するために市場の役割は非常に大きいことが徐々に分かってきた。それは完璧ではなくさまざまな弊害があるが、「市場の失敗」と呼ばれるその弊害の是正のかなりの部分は、選挙をしなくても行うことが可能だ。

たとえば田中角栄氏は1960年代の高度成長を1974年にある意味で止めて地方再分配を始めたが、当時はその費用便益分析を誰も行わなかった。地方へのばらまきが国の将来にとって結果的に有益かどうかは、本来なら役所や学者が分析すべきことだが、まだマルクス経済学に支配されていた当時はとても考えつかなかったのだ。しかし、今後の地域政策は、市場をどう見るかというレベルで判断すべきではないかと思う。

なお、今回の講演において政治の役割に言及したのは、資源の配分に関する話だけで、外交政策のように不確実性が高く、経済分析だけでは解決できないところは外している。すなわち、市場の情報が役に立つ部分では官僚がそれをなるべく生かすべきで、そうでない部分を政治家が担うべきだ。たとえば北朝鮮への対応を市場の情報だけで決めるのは難しく、民意を問わずにできることではない。

Q:

効率化政策の問題点は、どう補償するかということだ。効率化政策によって税収が大きく増え、それに基づいて何かできればいいのだが、必ずしもそうではない。実際にそういう政策はうまくいかないものだ。ウルグアイ・ラウンドの対策費として当てられた毎年1兆円、計6兆円は補償政策の典型だが、ある意味で一番失敗した政策だと思う。日本の場合、補償政策がうまくいったことはこれまでない。結果的にほかに増大するセクターがあり、そこを吸収することによって成功してきたのだと思う。今の民主党は未知のところから出発して何かをやろうとしていて、ある意味では非常にチャレンジングな場所にいるのではないか。

八田:

補償というのは非常に難しい問題だが、たとえば雇用規制をなくすことに関して言えば、一見不平等に見えるかもしれないが、長い目で見ると平等化するだろう。つまり、既得権を持った正規労働者の生活水準の低下によって、既得権を持たない人の生活水準が大幅に上がり、併せて効率化もできるということだ。

要するに、効率化政策は一見すると人を痛めつけているように見えてしまう面があるが、長期的に考えると違う。必ずしも補償しなくても、長い目で見れば誰もが得をする可能性があるのに、なかなかそれを信じてもらえない。その点は自民党も民主党も共通している面があるので、学者や官僚機構、特にメディアにはそこをきちんと強調してほしい。たとえば、ロシアが市場化したときはひどい状況で、もう無理ではないかと言っていたが、あのショック療法も長期的に見れば効果があり、非常に成功した。それに類する改革が日本は幾つも必要なのではないか。確かに今の立ち位置がどうかということもあるが、やはり市場を活用した改革に対する根本的な理解がメディアも含めて全くないことが根源的な問題ではないかと思う。

なお、水産については、今はオリンピック方式で、全体の漁獲量が一定になるまでできるだけ急いで捕れと言われている。だからどんな小さな魚でも捕ってしまうため、稚魚が根こそぎにされてしまう。そうではなく、船ごとに漁獲量を割り当て、気長に1年間かけて漁業をさせれば、大きい魚しか捕らなくなって稚魚が守られる。しかし、稚魚が育つ前の段階では、漁業者は随分と損をする。そうすると、短期的にはそれを補償しなければならない。

Q:

以前、産業調整政策を調べたところ、繊維も石炭も、200海里水域の国際交渉に負けたときの水産の減船対策も、産業調整政策としてはそれなりに機能していた。問題は、本来は政治主導ですべきではないことを政治主導でされてしまうことなのだ。現に今の民主党による戸別所得補償政策も、豊かな兼業農家の人たちまで所得補償の対象とした。

このように、必要のない人まで所得補償をするという政治主導の政策をチェックする役割について、もしお考えがあればお聞かせ願いたい。

八田:

戸別所得補償も、原則から言えば、生産調整をやめて、その代わりに所得補償の対象とするなら筋は通る。今は生産調整をした人へのご褒美だというのだから、初めから全く筋が通っていないのだ。

現実はさておき、本当にあるべき姿は何かというと、官僚は、効率化に反することを政治家が行うのはまずいと指摘できる仕組みを作ることだ。一方、激変緩和措置として変なゆがみを伴わないランプサムの補償をするなら、それは政治家の裁量に任せようということになる。このように、よい政治主導と悪い政治主導を、仕分ける考え方が、ジャーナリズムや学者、官僚など、すべてに行き渡ることがまず必要なのだろう。今は黎明期だが、それをしなければ、いつまでたっても混沌とした議論だけで終わっていくと思う。

今後のRIETIに向けて

八田:RIETIは設立以来、大変大きな役割を果たしてきたと思っている。私はいろいろと研究領域を広げていて、最近は規制改革会議で担当した農水産業の分野についても本を書いた(『日本の農林水産業』日本経済出版社)が、その過程では山下SFの本も随分読ませていただいた。さまざまな圧力はあるようだが、幅広い日本の政策に関して分析を行うという観点からは、RIETIがぜひとも必要だと思う。学術的な分析についても、特定の省庁に独占権を与えると、いい加減になってしまう。色々な分野の研究について、常にチェックが入ることが必要だろうと思うので、その役割を今後とも続けていってほしい。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。