食料・農業・農村基本法見直しの背景

山下 一仁
上席研究員(特任)

食料安全保障の強化や一次産業の成長産業化などを理由に、1999年に食料安全保障や農業の多面的機能を推進することを目的として制定された「食料・農業・農村基本法」が見直されることになった。本稿では、戦後農政の軌跡を紹介し、基本法見直しの背景に何があるのかについて、解説したい。

戦後農政を規定した農地改革と農業協同組合の設立

1946年地主から農地を買収し小作人に譲渡した農地改革は、戦前から小作人解放のために努力した農林官僚の執念が実現したものだった。財閥解体など戦後の経済改革の中で、農地改革は唯一日本政府のイニシアチブによるものだった(https://www.rieti.go.jp/jp/columns/a01_0138.html)。しかし、これによって自作農=小地主が多数発生し、戦前からの零細農業構造がむしろ固定されてしまった。

最初農地改革に関心を示さなかったマッカーサーのGHQは、やがてその政治的な重要性に気付く。終戦直後、小作人の解放を唱え、燎原の火のように燃え盛った農村の社会主義運動は、農地改革の進展とともに、急速にしぼんでいった。農地の所有権を獲得し、小地主となった小作人が、保守化したからだ。これを見たGHQ は、保守化した農村を共産主義からの防波堤にしようとして、“自作農”という農地改革の成果を固定することを目的とした農地法の制定を農林省に命じた。

農政官僚たちは、農地改革の後に零細な農業構造改善のために“農業改革”を行おうとしていた。1948年の農林省「農業政策の大綱」は「今において農業が将来国際競争に堪えるため必要な生産力向上の基本条件を整備することを怠るならば、わが国農業の前途は救いがたい困難に陥るであろう。」と述べている。かれらは、現状を固定する農地法の制定に抵抗した。他方で、地主階級の代弁者だった与党自由党も、農政官僚とは逆の立場から、農地法には反対した。

しかし、後に総理大臣となる池田勇人は、GHQと同様、農村を保守党の支持基盤にできるという、農地改革・農地法の政治的効果にいち早く気付いた。池田は、自由党をとりまとめ、農地法の制定を推進した。こうして農地法が1952年に成立した。農地法は単なる農業関係の法律ではない。戦後という時期において、それは小農固定による強力な防共政策であり、保守党の政治基盤を築いたものだったのである。

こうして、農村は保守党を支える基盤となった。保守化した農村を組織し、自民党を支持したのが、戦後作られたJA農協だった。

戦後の食糧難時代、農家は価格の良いヤミ市場に米を販売してしまう。そうなると、政府が貧しい消費者にも均一に米を売り渡す配給制度を実施しようとしても、政府に米が集まらない。このため、農林省は、1948年戦時中の統制団体だった「農業会」を食糧の供出団体として活用しようとして、農業協同組合に改組した。農協は「看板を書き換えた農業会」といわれた。

農協は民主的な衣をまとって再生することになったが、国、都道府県、市町村からなる3段階制の組織体制の下で、中央の意向を末端に浸透させるという農業会の上意下達的、統制的な性格を引き継ぐことになった。しかも、他の法人には禁止されている銀行業務と他の業務の兼業が認められ、これが農協発展の基礎となった。そればかりではない。農業会は、政治活動を行っていた「農会」と経済活動を行っていた「産業組合」(協同組合)を統合したものだった。農協は万能の経済活動を行うとともに政治活動を行う団体としても設立された。

数奇な運命をたどった農業基本法

農業基本法が作られたのは1961年だった。この頃になると、終戦直後の食糧難から米を中心に食糧生産は大幅に拡大し、農村地域出身の国会議員は、農業関係の予算が縮小されるのではないかという危機感を持つようになった。日本社会党の議員が、ドイツで農業基本法が作られ、これを契機に農業予算が拡大したことに着目し、日本でも農業基本法を作るべきだという主張を行うと、与野党を問わず農業関係議員が同調した。

これに対して、政府・農林省(当時:1978年から農林水産省)は、1959年農林漁業基本問題調査会を総理の諮問機関として設置した。会長は、シュンペーターの高弟である東畑精一・東大教授、同調査会事務局長には、後に16年間政府税制調査会会長を務めた小倉武一・前食糧庁長官が就任した。

当時は、農業生産は回復したが、経済が復興するにつれ、農家所得が工場勤労者の所得を下回るようになっていた。このため、農業基本法は“農工間の所得格差の是正”を目的に掲げた。当時農家所得のほとんどを占めていた農業所得(農業生産から生じる所得で、農家所得は農外所得も含む)は、農産物価格に生産量を乗じた売上額からコストを引いたものである。価格または生産量を上げるか、コストを下げれば、所得は上昇する。しかし、価格を上げれば消費者家計に影響する。このため、基本法は農家規模を拡大してコストを下げる方法を選択した。戦前の二大農業問題のうち小作人の解放は農地改革で実現した。農政は、残る“零細農業構造の改善”を実現しようとしたのである。

しかし、このような農業基本法は、農業の発展よりも農業保護の確保・増大に関心があった国会議員には受け入れられなかった。特に、社会党は貧農切り捨て反対というイデオロギー的な主張を行い、基本法に反対した。組合員を丸抱えしたいJA農協も、基本法の構造改革を選別政策だと非難して協力しようとはしなかった。

さらに、当時自民党最大の支援団体であるJA農協の強力な政治運動を受けて、自民党政府は、農家所得向上のため、食糧管理法の下で政府買い入れ価格(生産者米価)を大幅に引き上げた。このため、農村に零細な兼業農家が大量に滞留し、主業農家の規模拡大は実現しなかった。1965年以降サラリーマン収入と農業所得を合わせた農家所得は、勤労者世帯を上回るようになった。農工間の所得格差の是正は、農業の構造改革ではなく、農家の兼業化(サラリーマン収入)によって実現した。

農業基本法は、制定後10年もたたないうちに、農林省からも顧みられなくなった。零細農業構造を改善して規模を拡大しようとすると、農家戸数を減少させなければならない。そうなると農業の政治力が低下して農業予算を獲得できなくなるからだ。

農業基本法から食料・農業・農村基本法へ

米価引き上げで60年代後半から米が過剰となり、3兆円もかけて過剰米をエサや援助用等に処理するとともに、1970年からは減反政策を本格的に実施するようになった。減反とは、農家に補助金を与えて米生産を減少させ、食糧管理制度の下で政府が買い入れる量を少なくしようという、同制度維持のための緊急避難的で完全に後ろ向きの政策だった(食糧管理制度が廃止されてからは、米価維持の唯一の政策となる)。

1980年代に入ると、日本の大幅な貿易黒字が米国等から問題視され、日本に対して農産物自由化の要求が高まるようになった。輸入制限の撤廃や関税引き下げに対抗して、日本農業の国際競争力を高めるためには、規模拡大等の構造改革が必要となる。80年代後半以降になると米価など農産物の行政価格は据え置きまたは引き下げられるようになった。

1993年ガット・ウルグアイ・ラウンド交渉による米の部分開放、食糧管理法の廃止、経済界からの株式会社による農地取得の要求、中山間地域の荒廃などにより、農政を巡る状況も変化した。休眠状態にある農業基本法に代わり、新しい基本法を作るべきだという主張が、農林水産省の中から出されるようになった。農政の対象を農業以外に広げるべきだという考えから、新しい基本法の名称は「食料・農業・農村基本法」(1999)とされた。

新基本法が理念として掲げたのは、食料安全保障と多面的機能である。農業構造については、「国は、効率的かつ安定的な農業経営を育成し、これらの農業経営が農業生産の相当部分を担う農業構造を確立するため、(中略)農業経営の規模の拡大その他農業経営基盤の強化の促進に必要な政策を講ずるものとする。」(第21条)とし、農産物自由化への対応を強く意識したものとなった。農業分野においては、WTO農業協定において、さらなる保護削減の交渉が予定されていたからである(第20条)。農業基本法的な思想が復活した。

農業基本法の時と異なり、主たる検討の場となったのは、松岡利勝衆議院議員(のち農相)を委員長とする自民党政調の基本政策小委員会だった。農林水産省が検討資料を作成して、松岡委員会で実質的な議論が行われた。

今回の食料・農業・農村基本法見直しの背景~再度の揺り戻し

2020年に基本法に基づき策定された「食料・農業・農村基本計画」は、「経営規模や家族・法人など経営形態の別にかかわらず、担い手の育成・確保を進める」とし、大規模農家を軸とした農政(つまり農業基本法や食料・農業・農村基本法の思想)から大きくかじを切ったとして、JA農協や農学会を中心とした農業界から高く評価されている。

2020年の「基本計画」は小農保護主義を復活させた。ドーハラウンドの失敗でWTO(世界貿易機関)は機能不全に陥っており、また、関税撤廃を要求されるかもしれないと思って戦々恐々としたTPP交渉も農業には大きな影響なく妥結した。農産物貿易の自由化は遠のいた。農業の国際競争力を心配しなくてもよくなった。

この基本計画の考えは、その元となる食料・農業・農村基本法に反している。今回は逆に、2020年「基本計画」の方向に沿って食料・農業・農村基本法を見直すのだろう。しかし、国際競争力をつけなければ農産物の輸出は増加できないのだが、それには気が付かないようだ。

「基本計画」は「農は国の基(もとい)」という時代錯誤的な言葉を盛り込んだ。農業基本法を作った2人の先達の指摘を紹介しよう。

東畑精一は「営農に依存して生計をたてる人々の数を相対的に減少して日本の農村問題の経済的解決法がある。政治家の心の中に執拗に存在する農本主義の存在こそが農業をして経済的に国の本となしえない理由である」という主張に、小倉武一は「農本主義は今でも活きている。農民層は、国の本とかいうよりも、農協系統組織の存立の基盤であり、農村議員の選出基盤であるからである」と加えている(小倉武一『日本農業は活き残れるか』上 農山漁村文化協会、1987年、280ページ参照)。

本来農本主義とは、高米価で消費者に負担を与えるようなものではない。戦前農政の大御所であり、農本主義者といわれた石黒忠篤は、近衛内閣の農林大臣として1万5000人の農民に次のように話しかけている。

「農は国の本なりということは、決して農業の利益のみを主張する思想ではない。所謂農本主義と世間からいわれて居る吾々の理想は、そういう利己的の考えではない。国の本なるが故に農業を貴しとするのである。国の本たらざる農業は一顧の価値もないのである。」(大竹啓介『石黒忠篤の農政思想』農山漁村文化協会、1984年、247~248ページ参照)

国民の主食たる米の価格を上げたり、食料安全保障の基本である水田などの農地資源を減少させてきた農業は、国の本たらざる「一顧の価値もない」ものではないだろうか。

2022年10月11日掲載

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