新型コロナウイルス感染の情報提供の在り方と安心(“public confidence”)について

山下 善太郎
研究コーディネーター

エピソード

先日、筆者が執務するビルの他のテナントで新型コロナウイルスの感染者が出たとの情報がもたらされた。この感染者は、最後に出勤した後、3日後に陽性判定を受けたというものであった。ビルの管理会社からは、どのフロアーで、どこの企業等であるかの情報は非開示とされ、ビルのエレベーターボタンやドアノブを従来どおり消毒するとの対応が知らされた。

その後の第2報では、このビル内に当該感染者の濃厚接触者はおらず、PCR検査対象者もいないこと、また、保健所からの指導では、そもそも、そうした知らせ自体、不要とされていたというものであったことが知らされた。

人々の安心とリスクコミュニケーション

この事例は、人々の安心とリスクコミュニケーションを考える上で、興味深い材料を提供している。

新型コロナウイルスは、文字通り目に見えず、治療方法も確立していないため、人々の感染に対する不安感は強い。また、電車内や職場での感染があるのではないかという指摘もあり、不安感が助長されている。このため、例えば、同じエレベーターに乗り合わせたことで感染する可能性があるのではないかと心配する向きからは、この感染者は、どのフロアーの、どこの企業等に勤務しているのか、どのエレベーターを使用したのか、マスクを着用していたのか、などといった情報が求められることにもなろう。

新型コロナウイルスの感染者がどの企業等から出たかという情報は、時に、従業員やその家族に対するいわれのない差別、偏見にもつながるものであり、企業等に対する風評被害をもたらしうるものである。このため、これまでも、積極的に企業名等を開示する企業等や自治体は少なく、かなり慎重な対応を取るところが大半である。ただ、この結果として、人々の不安感は解消されず、むしろ、政府、自治体に対する批判となって現れることにもなってきた。

しかし、感染者を特定する情報が提供されたとしても、それで不安感が解消されるわけではない。中国で、マンションのどの部屋から感染者が出たかという情報がエレベーターホールに貼り出されている様子がテレビ番組で紹介されていたが、同じマンションの住人がこの情報を知ったからといって、不安感が解消されるというものではない。そもそも、新型コロナウイルスの性質がまだ解明途上にあることからすれば、ほとんどの人々にとって、個別の情報を受け取って、それを自分で分析して、リスクを評価することができるということを期待することは困難であろう。結局のところ、濃厚接触者となり得る場合とはどのような場合であり、その場合に該当する人はどの範囲に存在しているのか、ということを行政が示していかないと、リスクが潜在したままであり、不安感が解消されない。ここに行政の役割があるといってよい。冒頭の事例でいえば、感染者が具体的に、どのフロアーに所在するどの企業等であるのかを開示する代わりに、保健所が、当該感染者の行動を分析して、濃厚接触者となり得る人がいない、と宣言することによって、不安感が解消され、人々は安心できる、ということが意図された、ということであろう。

しかしながら、ここで重要なことは、意図した通りに安心が得られるためには、保健所が、当該感染者の行動を的確に分析し、濃厚接触者の範囲について示すことができるという実態があり、それについて、人々が疑いを持たず、信頼をしている、ということが前提となっていなければならないという点である。企業等の名称、感染者の行動履歴などの情報がブラックボックスとなっているため、保健所に対する信頼がなければ、自分が感染していないか否かについて納得ができず、結果、企業等はどこか、感染者の行動履歴はどうであったのか、といった情報を開示せよという動きとならざるをえない。また、保健所が信頼されていなければ、いったいどのような根拠で濃厚接触者はいないのか、と尋ねられることにもなろう。「保健所が濃厚接触者はいないと言っているから」という説明だけで人々が安心できるとしたら、保健所は非常に高い信頼を得ているということになるだろう。つまり、保健所が果たすべきアカウンタビリティーの程度は、人々の安心の程度と結び付いている、ということである。

リスクコミュニケーションにおける“public confidence” の重要性

ところで、米国、英国では、人々が国や自治体の説明、姿勢を信頼し、納得しているかどうか。国や自治体は、人々の信頼、納得を得るために努力し、獲得しているか。こうした評価をするとき、英語では、人々が国や自治体に対して“public confidence”を持っているか、国や自治体は“public confidence”を獲得できているか、というように議論される。

緊急事態宣言が解除されて以降、リスクコミュニケーションが強調されるようになっているが、リスクコミュニケーションが奏功しているかどうかを見極める上で、“public confidence”が重要な鍵となる。

これまで、わが国では、製品や鉄道などでの安全を議論する際、安全と安心という2つの概念を用いて議論してきた。製品やサービスに利用されている技術の内容を説明していかに安全であるかを説明しても、人々が安心を得られるということにはつながらない。それでは、人々が安心だと思えるようにするにはどうすればよいのか。安全と安心をつなぐキーポイントとしてリスクコミュニケーションが位置付けられている(注1)。

安心については、主観的な判断が主であり、個人によって感じ方が大きく異なり、信頼するという人間の心に強く関係するものとされる(注2)。安心という概念に、“relief”や“security”などといったさまざまな言葉が充てられていることを調べた研究もあるが(注3)、安心という概念には、日本独自の考え方とニュアンスが含まれているようで、対応した適切な英語がないようだ、安心という言葉は英訳できないといわれている、との指摘もある(注4)。

筆者もかつて実際に米国で経験したところであるが、こと安全に関する分野では、“security”はもとより、“relief”という訳語でも、うまく議論が噛み合わなかった。安心に着目した研究は随所でなされてきたが(注5)、このところ、人々の安心を揺るがすような安全に関する事故が目立たなくなっているためか、大きく前進したとはいえないように思われる。

安心を“public confidence”と観念する

こうした中で、新型コロナウイルスに対する各国の対応が日々報道され、比較される中にあって、わが国でこれまで安心と呼んできた概念について、国際的な議論をすることが容易となるように、少なくとも高度な科学・技術が関わる安全に関する分野では、英語の訳語として共通の言葉を充てる必要があるのではないかと改めて考えるところである。

そこで、筆者としては、安心に充てる言葉(英語)として“public confidence”を用いることを提案したい。

“public”という総体的な主体を考えることによって、個々の個人によって感じ方が異なる、という認識上の壁を乗り越えることも可能になると思われ、また、行政が国民、住民とリスクコミュニケーションを図る中で、アカウンタビリティーを果たし、国民、住民が行政に対して信頼を持てるようになったかどうか。これを各国で比較しようとするようなときに、共通した言葉がある方が、より正確な実態把握を可能とすることになるだろう。また、アカウンタビリティーと表裏一体の関係にあるが、情報公開の範囲をどこまでとすべきなのかを考える上でも、共通した言葉があることで各国の制度、運用の比較も可能となるであろう。

新型コロナウイルスの出現をきっかけとして、安全と安心に関する議論が更に深まることを期待したい。

脚注
  1. ^ 向殿政男『入門テキスト 安全学』、東洋経済新報社、2016年
  2. ^ 上記(注1)と同じ。
  3. ^ 岩瀬貴子、野嶋佐由美「安心の概念分析」、高知女子大学看護学会誌第39巻第1号、2013年
  4. ^ 北野 大、向殿 政男ほか『日本の安全文化―安心できる安全を目指して (安全学入門)』、研成社、2013年
  5. ^ 代表的なものとして、向殿政男ほか『安全学入門-安全の確立から安心へ-』(研成社、2009年)、村上陽一郎『安全と安心の科学』(集英社、2005年)。

2020年7月16日掲載

この著者の記事