農協の農業構造改革論

山下 一仁
上席研究員

6月24日付けの読売新聞"論点"で全国農業協同組合中央会(JA全中)の山田専務は「稲作農業の担い手は危機的状況にあり、65歳未満の稲作の専業的な働き手が全くいない集落が半分もある。わが国の農業は、零細で分散した農地所有の形ができ上がっている。"集落営農"はこうした農地利用の問題を克服するための手法である。集落を1つの農場のように使う仕組みを作り上げることで、効率的な経営が実現できる。地域の実態に応じた多様な形の"集落営農"の取り組みを政策の対象にしていくことが必要である」と主張している。これは、農業基本法以来、農業の規模拡大、構造改革論に対し、JA農協が一貫した反対してきた主張である。また、農地の零細分散錯圃に対応するため集落を1つの農場のように使う仕組みを作り上げるといっているが、できれば集落の中で零細な兼業農家があちらこちらに分散している農地を耕作している現状をそのまま集落営農として政策の対象にしてもらいたいというものだろう。以下詳しく説明しよう。

零細分散錯圃とは何か?

零細分散錯圃とは、一農家の所有農地があちこちに分散している実態である。零細分散錯圃は1つの場所に農地がまとまって存在していれば自然災害を一気に受けてしまうため危険分散を図るとの観点からあみ出された古い時代の知恵であった。しかし、これが農業の近代化、合理化を著しく阻害してきた。圃場が分散していると機械の移動に多大な時間が必要となる。これは労働コストを増加させるだけではなく、播種、田植え、収穫等の作業適期が短期間に限られる農作業の場合には作業時間の減少となるため、規模拡大は進まなくなる。零細分散錯圃のため、日本の稲作経営は同規模の海外の経営に立ち打ちできないのである。

柳田國男以来の農政の先人達が目指したもの

1900年農商務省に入った柳田國男以来の農政が目指したものは、地主制からの小作人の開放と零細分散錯圃を含む零細農業構造の改善であった。前者は農地改革で達成されたが、後者はこれによりむしろ固定化されてしまった。柳田國男は零細分散錯圃の解消のための交換分合(農家の所有農地を交換して一箇所にまとめる)という具体的提案を行っているし、農地改革の際はそのチャンスだったが、GHQが農地改革を極めて短期間(2年)に終了すべしと指示したため、これを実現する余裕がなかった。零細農業構造の解決に本格的に取り組もうとしたのが、1961年の農業基本法だった。

明治期、井上馨らはアメリカのような大規模農場を育成すべきであるという大農論を主張したが、我が国の実態に合わなかったため衰退した。これに対し、農業の現状を維持・固定しようとする勢力は小農論を主張した。柳田國男は、この農本主義的な小農保護論に異を唱え、中農養成策を論じた。現に存在する「微細農」ではなく、農業を独立した職業とならしめるよう企業として経営できるだけの規模をもつ2ha以上の農業者を考えた。「日本は農国なり」とは「農業の繁栄する国という意味ならしめよ。困窮する過小農の充満する国といふ意味ならしむるなかれ」と主張したのである。現在300万農業者がいて平均農家規模は1haなので、1600万農業者がいた当時の2haは相当な規模の農業である。

「それは、営農の規模の観点から、農業構造の改善を提案したものである。農業基本法に規定している「自立経営」と類似する考えが、その半世紀以上も前に彼によって論じられているのである。われわれは、唯柳田の「中農養成策」をモデルにすればよかったのであるが、慙愧なことにも、われわれ(農林漁業基本問題調査会)はその存在を全く知らなかったのである。」とは、構造改革を主張した農業基本法の生みの親である小倉武一の回想である。(小倉[1987]『日本農業は活き残れるか』農山漁村文化協会217頁参照)

零細分散錯圃の解消と望ましい集落営農

全中が零細分散錯圃や零細農業構造を前提とするのであれば、それは現状固定であり農業の構造改革ではない。もし、柳田や小倉のように、土地所有など営農の大部分まで集落の協同化が及ぶ『集落農業生産協同組合』的な考え方(農地改革時に小倉を中心として農林省が検討しGHQに拒否された"農協法案"はこのようなものだった)をJA全中が真剣に考えているのであれば、零細分散錯圃は解消される。しかし、後述するように、20年以上に及ぶJA全中の集落営農に対する取組みにもかかわらず、これに近い営農を行っているのは、全農業集落のうちわずか0.7%にすぎない(2005年農林水産省調査等)。

JA全中は担い手である専業的農家がいない水田集落がかなりあるから対象者の限定に反対するとしているが、高米価により零細兼業農家を滞留させ、専業的農家が育たないようにしたのは誰なのだろうか。専業的農家がいないから対象としないというのは政策論として逆転している。専業的農家が少ないのであれば、専業的農家を育成するのが政策だ。都府県の農業集落の平均農地面積は28ha、一番多い分布は10ha未満層である。したがって、現状では3~5ha規模の少ない担い手専業的農家に集落のほとんどの農地が集積されていけば、零細分散錯圃は解消し、コストは低下する。全中の主張とは逆に、一集落あたりの担い手農家が少ないというこれまでの構造改革の遅れは、かえって少ない農家に農地を集積でき零細分散錯圃を解消できるチャンスなのだ。まがりなりにも機械の共同化等集落営農といえるものを実施している農業集落は14万集落のうちわずか7002集落、5%に過ぎない。全中の議論だと集落営農を対象とすることもとんでもないことにならないか。

JAと構造改革

(1)JAは農業基本法の構造改革に反対した。農業基本法の起草者である小倉武一は次のように述懐している。
「基本法農政がうまくいかなかったのには、2つの理由がある。或るいは3つといってよい。第一は、農業の国際化を殆ど無視したことである。(中略)第二に、農業基本法は、スタート前後から悪運に付き纏われた。そのうち1つは社会党の反対であった。構造改善というのは'貧農切り捨て'だと叫ばれて、農林省の労働組合も反対運動を行った。(中略)悪運のもう1つは、農協系統が基本法農政に同調しなかったことである。無関心というよりも、たとえば"営農団地"というような独自のスローガンを持ち出して、構造政策の推進に協力するような体制を取らなかった。当時は地域間、業種間の所得均衡が国政をリードするスローガンであったといってよいが、その所得均衡は、農政においては構造改善によってではなく、専ら価格政策=価格支持政策(筆者注...米価引上げである)に依存するようになった」(小倉武一[1995]『ある門外漢の新農政試論』食料・農業政策研究センター8~9頁参照)

佐伯尚美東京大学名誉教授の解説によると、営農団地構想とは、「政府の自立経営農家の育成という構造政策の方針に反対し、これに対置すべき系統農協独自の地域農業対策として展開された。自立経営育成政策が農家の選別という発想をその根底にもつのに対して、営農団地構想はこれを否定し、産地を経済地域としてとらえ、そこでの農家をいわば丸抱えしていこうとする発想に立つ。(中略)組合員の平等と言う形式的民主主義をとる農協にとって組合員の選別という発想はとうてい受け入れがたかった...。」(佐伯尚美[1993]『農協改革』家の光協会197頁)

(2)JAにおいても、1980年以降、農業の現状に危機感を抱いた一部の優れたリーダーによって、担い手を育成しようとする"地域営農集団"運動が展開された。しかし、内部の組織討議の過程で、集落を利用しながら担い手に農地を集積しようとする構造改革の側面と兼業農家も地域農業の一員として扱おうとする現状維持の側面が同居・混在してしまった。また、この運動への取り組みは極めて低調であった。1987年において、これに取り組んだ農協は、35.5%にすぎず、その取組みも機械の共同利用(44.9%)が主体で、担い手への農地集積に取り組んだケースは2.4%に過ぎなかった。(佐伯尚美[1993]『農協改革』家の光協会199~225ページ。農林金融2000.5『地域農業再編と農協の役割』参照)

担い手と集落

リーダーや担い手のいない集落営農は機能・永続しない。担い手を集落がバックアップしているというのは、実態とは異なる。担い手が農作業を受託しなければ地域の兼業農家の営農活動も行えない、担い手が集落の面倒を見ているのが実態である。集落営農といってもコアとなる担い手が成長しなければ、先行きに赤信号が点滅するだけである。農林水産省「集落の農業の将来展望に関する意向調査」(2005年)によると、集落営農の組織化・法人化にあたっての問題点として「集落リーダーが不在で組織化の体制が整っていないこと」が57.6%で最も高く、また、行政等に期待する支援として「リーダーの育成」が66.0%と最も高い。

農地を集落で維持管理することと農業をどの担い手に行わせるかは別の問題である。全中はこれを意図するかしないかにせよ混同し、農地の維持管理の主体と農業の担い手とを同じとすべきだと主張している。アパートに例えると、農地の所有者はアパートの大家であり、農地を借りて地代を払い農業を営む担い手はアパートの住人である。アパートの住人は家賃を払い、それをもって大家は修繕等の維持管理をする。大家が維持管理をするからといって、大家がアパートの住人になったら家賃も入らず、アパートの維持管理もできなくなる。
"農地は集落で、農業は担い手で"守るという考え方に立つべきである。

強い農業の実現を

高米価は農協にとって必要だった。基礎的な食料である米は需要が非弾力的なので、価格を上げると総売上額は増加し、農協の販売手数料は増加する。また、政府から自動的に米代金が農協口座に振り込まれるシステムの下では農協の預金額も増加する。農産物価格が高くなると、農家はより高い価格を化学肥料、農薬、機械等の資材に支払うことが可能となるし、食糧管理法時代、このような肥料等の高価格は生産者米価(政府買入れ価格)に満額盛り込まれた。

米価引き上げの結果、コストの高い零細な兼業農家も稲作を継続し、稲作の構造改革は遅れた。JA全中は地価の上昇と兼業化の進展を兼業農家滞留の理由としているが、なぜ同じような事情にあった畑作では兼業農家がそれほど滞留しなかったのか。米の構造改革が最も遅れ、産出額に占める主業農家のシェアは麦74%、野菜83%、牛乳96%に対し、米は37%にすぎない。米作と畑作の大きな違いは米価だけ大きく上げたことである。

JAは自らの経営・組織の効率化のためには、合併による規模拡大を実施してきた。しかし、組合員農家の規模拡大、経営の効率化には積極的であったとはいえない。専業的農家が減少し、兼業農家の比率は高まっているが、戸数自体では兼業農家も減っている。JAも真剣に担い手の育成に努める時が来たのではないだろうか。

最後に、柳田國男の同志であり戦前の農政の大御所であった石黒忠篤の次の言葉を農業界の指導者の方々に贈りたい。
「農は国の本なりということは、決して農業の利益のみを主張する思想ではない。所謂農本主義と世間からいわれて居る吾々の理想は、そういう利己的の考えではない。国の本なるが故に農業を貴しとするのである。国の本たらざる農業は一顧の価値もないのである。私は世間から農本主義者と呼ばれて居るが故に、この機会において諸君に、真に国の本たる農民になって戴きたい、こういうことを強請するのである」。

2005年9月6日
本文列記以外の参考文献
  • 岩本由輝[1976]『柳田國男の農政学』御茶の水書房
  • 大泉一貫[2002]「集落と農業経営の相克に関する試論」『食料自給率向上と水田営農再構築の課題』所収 農政調査委員会
  • 大内力[1997]「農業基本法30年-農政の軌跡」小倉武一編『砂漠にバラを探せ』食料・農業政策研究センター所収
  • 小倉武一[1992]『私の履歴書』日本経済新聞社
  • 紙谷 貢[2002]『日本における農政改革の10年』農林統計協会
  • 川野重任[2000]『回想の農業・経済』家の光協会
  • 岸康彦[1996]『食と農の戦後史』日本経済新聞社
  • 佐伯尚美[1989]『農業経済学講義』東京大学出版会
  • 佐藤光[2004]『柳田國男の政治経済学』世界思想社
  • 寺山義男[1974]『生きている農政史』家の光協会
  • 暉峻衆三編[2003]『日本の農業150年』有斐閣
  • 東畑四郎・松浦龍雄[1980]『昭和農政談』家の光協会
  • 日本農業研究所編著[1969]『石黒忠篤伝』岩波書店
  • 日本農業研究所編纂[1979,1980,1981]『農林水産省百年史』
  • 速水佑次郎・神門善久[2002]『農業経済論』新版 岩波書店
  • 柳田國男[1904]『中農養成策』
  • 山下一仁[2004]『国民と消費者重視の農政改革』東洋経済新報社
  • 屋山太郎[1989]『コメ自由化革命』新潮社

2005年7月26日掲載

この著者の記事