東アジアの同時デフレを考える

渡辺 努
ファカルティフェロー

ばらく前のことだが、ある国際機関に勤務する友人から次のような質問を受けた。「日本のデフレが進行しているのはよく承知しているが、デフレで苦しんでいるのは日本だけではない。中国、香港、台湾でも日本と同様、あるいはそれ以上のペースで物価が下落している。アジアの一角、敢えていえば、中国の周辺国で中国以上に工業化が進んでいる国々でデフレが進行しているのは全くの偶然なのか、それとも中国の急速な工業化と何らかの関連があるものなのか」と。

その友人は、デフレが大きく騒がれている日本であれば、東アジアのデフレについてもさまざまな議論が展開されているに違いないと考えて筆者に質問してきたらしい。しかし、日頃の不勉強を恥じながら慌てて関連する論文などを探した上で筆者が知ったことは、友人の推察はどうも間違っているということだった。ただし間違っているのは、東アジアのデフレについての友人の推察ではなく、もうひとつの方――日本ならばこの点について議論が進んでいるに違いないという彼の推察である。

大手町の常識と経済学者の常識

日本のデフレを中国の工業化と関連づけて理解しようとする考えは確かに存在する。ところが、そうした立場に立つ人達はどうも勢いがない。勢いがないという意味はこうである。筆者の印象では、大手町で働くビジネスマンにとっては、「中国要因で日本の物価が下がっている」というのは改めて考えるまでもないほどに自明である。ビジネスの現場では友人の見方は広く支持されている。

しかしビジネスの現場を一歩離れると、そうした見方は自明でなくなってしまう。自明でないどころか、「実務家の誤解」というレッテルを貼られてしまうようである。その傾向は霞ヶ関界隈で特に強いように見えるが、レッテルを貼っている張本人は誰かというと、経済学者である。実務家は自分の考えを文章に起こすことは稀であるのに対して一方の経済学者は主張を書き物にするのが商売である。かくして、「デフレは中国要因とは無関係」という主張が書店では幅を利かせることになる。

経済学者の主張はこうである。中国の工業化に伴って大量に生産されている商品の価格が下がっているのは事実である。しかしこれは、それらの商品の価格がそれ以外の商品の価格に比べて相対的に低下することの説明にはなっているが、物価下落の説明にはなっていない。相対的な価格、つまり「ソウタイカカク」(相対価格)と物価は別物だというのがその主張である。

これだけ聞いて、なるほどねと納得できる読者がいるとすれば、よっぽどの天才か、経済学オタクか、あるいは単なる早とちりかのいずれかである。ごく普通の常識人には何のことやらわからない。書店の経済コーナーで頭をかかえたのは筆者だけではないはずだ。

風が吹けば桶屋が…

この点についてわかりやすい議論を展開しているのはマネタリストとして名高いミルトン・フリードマン教授である。フリードマン教授は、第1次石油危機後の原油関連の輸入品の価格上昇が物価を押し上げたという主張を否定するために1975年のニューズウィーク誌上で次のような説明を展開している。

原油関連の輸入品の価格上昇それ自体は確かに物価を押し上げる。しかし、これは物事の一面しかみていない。輸入品の価格が上がるということは、消費者がその他の商品に振り向けることのできる資金が少なくなるということだから、その他の商品に対する需要は減少し、その結果、その他の商品の価格は下落するはずである。その他商品の価格下落は石油関連商品の価格上昇を相殺するので、両者の合計である消費者物価は下落しない。最初と最後をつなげると、原油関連の価格上昇が物価を動かすことはあり得ないということになる。「原油関連」を「中国関連」に、「上昇」を「下落」と読み替えれば、「デフレは中国要因とは無関係」という日本の経済学者の主張が即席で出来上がる。

フリードマン的な見方の重要な帰結のひとつは、「インフレもデフレも貨幣的現象」という主張である。フリードマン教授の議論によれば、モノの稀少性が物価に影響を与えることはない。したがって、物価を変動させる要因はただひとつ、カネの稀少性だけである。ここから、全ての物価変動はカネの稀少性の変化によって惹き起こされるという主張が生まれる。最近のデフレ論議では「インフレもデフレも貨幣的現象」というフレーズが頻繁に登場する。また、「デフレは通貨の供給量が少なすぎるために発生している」という主張もしばしば聞かれる。これらの主張は大本を辿れば全てフリードマンに行き着くのである。

デフレの非貨幣的要因

フリードマン教授の説明を聞いて読者はどんな感想を持つだろうか。「高名な経済学者は先の先まで考え抜くものだなあ」と感心する人もいるだろう。確かに、多くの人の関心が原油関連商品の価格上昇に向いているときに、それ以外の価格の下落に注目するセンスは流石といえよう。経済学の「イッパンキンコウ」(一般均衡)の発想には、日常の観察では気づきにくいところに気づかせてくれるというメリットがある。

しかしその逆に、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の議論の展開に胡散臭さを感じる人もいるのではないか。確かに理屈で言えば、風が吹けば桶屋は儲かるのかもしれないが、現実には物事は机上の計算どおりに進まないことが多い。

筆者もどちらかといえば胡散臭さを感じた方である。原油関連以外の商品の価格は本当に下落するのだろうか――筆者が学習院大学の細野薫氏と一緒にこの問題を考え始めたのはこんな素朴な疑問がきっかけだった。

日本、米国、英国、韓国、香港、台湾の6カ国についてデータを慎重に吟味した上で筆者達が得た結論は、一部商品に価格変化が生じた時、その他の商品に反対方向の価格変化が生じるということはない、というものである。もう少し正確に言うと、「技術や人々の嗜好の変化などに伴って相対価格が変化すると、少なくとも短期的には物価に影響が出る」ということである。中国の工業化もIT(情報通信)技術の進歩も、ともに物価に影響を及ぼすのである(詳細はRIETIディスカッションペーパー「供給ショックと短期の物価変動」をご覧下さい)。

筆者の手元にある経済学の入門書には「マネーが過剰に供給されるとインフレになり、供給が足りないとデフレが起きる」と書いてある。筆者達の分析結果はこれと矛盾するものである。

当然のことではあるが、教科書と矛盾する現象が観察されたときには現象を疑うのではなく教科書を疑うべきである。

2003年5月20日

2003年5月20日掲載

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