追悼文:経済産業研究所所長・スタンフォード大学教授 青木昌彦

戸矢哲朗さん

決して長くはとはいえないが、ともに社会科学の進化への貢献にむけて励まし合い、日本の過去・現在・将来について飽くことなく語り合い続けた充実した時間に、ついに別れを告げるときが来ました。私が、あなたに出会った最初の時のことは、ほんの昨日のごとくに鮮明に覚えています。それは1999年の4月、スタンフォード大学で、私が春学期の大学院講義を開始した最初の日のことでした。大概の学生が受講する講義の候補をいろいろと値踏みして歩くその日に、早くも私の講義計画の内容に迫って、流ちょうな英語で鋭く質問を投げかけてきたのがあなたでした。変な表現ですが、そうした日本人離れしたあなたの資質に印象をうけ、授業が終わってから、君はどこの国の出身ですかと、滅多にしたことのない不躾な質問をしたことを覚えています。その学期、政治学部大学院2年生であったあなたは、経済学部の大学院学生に混じって、気後れなく終始討論に積極的に参加し、学位論文の基礎となるタームペーパーを書きました。私は、あなた方の討論から多くを学び、執筆中であった書物の内容を改善させていくことができました。この書物は、まだゲラの段階でしか、あなたにお見せする事ができませんでしたが、あなたはご自身の影を、きっとそのなかに読みとっていただけたと思います。あなたは、ゲームの理論という経済学者の使う数学的道具の本質を、数学的訓練を経ることなくとも、直感的に、的確に理解していました。あなたが麻雀の名手、すなわち優れた戦略家であったことを後に知り、成る程と思った次第です。

しかし、あなたのほとんど超人的といってよいほどの大活躍が始まったのは、東大時代からのスイートハートであった理衣奈さんとの結婚を夏休みに成就して、スタンフォードに戻ってきた3年目の夏のことでした。制度変化はいかにして起こりうるか、という社会科学者がいま直面している、一番難しいが、それだけにやりがいのある問題を真っ向から取り上げ、それを日本の90年代の金融財政政策の変化という文脈のなかで考えようという、全く野心的なテーマの学位論文に、あなたは取り組み始めました。それからのあなたの活躍ぶりは、まさに獅子奮迅というべきものでした。公務員の身分のもとでの留学という時間の制約もあって、普通ならゆうに数年はかかるような学位論文を、あなたは10ヶ月ほどの間に仕上げてしまうという、余人にできがたい離れ業をみせて、我々を驚かせました。草稿の何章かにコメントをすると、数週間のうちに改善された草稿が帰ってくる、それをまた週末の時間に一緒に議論するというような、まことに贅沢で、充実した知的生活を共に過ごせたことを、今は夢のごとくに思い起こせます。そうした緊張した生活の傍らで、精神的にも、知的にも、あなたの研究を支えると同時に、自らも歴史についてのご自身の著作を完成された理衣奈さんの思いも同じでしょう。

THE POLITICAL ECONOMY OF THE JAPANESE FINANCIAL BIG BANG:INSTITUTIONAL CHANGE IN FINANCE AND PUBLIC POLICY MAKING (日本の金融ビッグバンの政治経済学:金融公共政策形成における制度変化)と題した学位論文は、政治学部での指導教官であったダン・沖本教授をはじめ、政治学者のクラスナー、ワインガスト、社会学者のパウエルという、当代の社会科学の最高峰にいる学者たちの構成する審査委員会で圧倒的な支持を得て、パスしました。彼らは一致して、学位論文を、さらに彫琢して出版することを強く推薦しました。彼らにとって、あなたの学位論文は、日本の政策分析というより、何よりも、制度分析の創造性において評価されうるものだったのです。あなたは、国際的な学者として自己を確立しうるスタートラインに就いていたのです。

しかし、一つ気がかりだったのは、口頭試問当日、原因不明の高熱で体調が優れず、審査委員の質問の応答に、いつものキレにややかけていたことです。審査員の全員は、スタンフォードでもまれな短期間に学位論文を仕上げた無理がでたのだろうと、日本に帰ってから待ちかまえているであろう行政官としての激務に備えて、卒業式までゆっくりと休養をとるようにと、ねぎらいの言葉をかけました。しかし、今から思うとそのときにすでに、君の将来性あふれる未来を残酷にも奪い去った病魔が密かに迫っていたのかもしれません。

日本に帰ってからは、大蔵省であなたの才能と意欲にふさわしい仕事が与えれられ、それに献身するあなたの姿を垣間見ることができました。私は、先ほどあなたは国際的な学者になりうるスタートラインについたといいました。しかし、私はまた、あなたが、よき公僕としての高い志と献身的な忠誠心を持っていたこともよく知っています。そしてこの二つの可能性は、実は矛盾したものでなく、あなたの中で見事に統一していたのです。その何よりもの証拠が、あなたの学位論文です。その中で、あなたは、1990年代の日本が静かな制度変化を始めた大いなる転換期のはじめと捉え、その本質は日本の行政プロセスや政治統治機構が政権交代の可能性を含んだ民主過程の文脈の中にますます埋め込まれて来つつあることを喝破しました。そして、そうした文脈の中での行政機構のありかたについて多くの示唆に富む洞察を行っているのです。そうした洞察力を行政官としての経験のなかでますます深めていき、同僚の同志たちと共に切磋琢磨していくならば、あなたは霞ヶ関における行政官の新しいロール・モデル、いわば維新の志士にもなり得たはずです。いや、すでにその一歩を踏み始めていたといってよいでしょう。あなたが病気の再発によって再入院した際、面会に行ったときにも、1年前のスタンフォードの時と同じく、わたしたちは、今日本で起こりつつある変化は何なのか、我々はこの変化の過程にどう主体的に関わっていくことができるのか、熱心に論じあいました。病魔があなたの体を深く蝕んでいるに関わらず、あなたの議論は熱を帯び、ほとんどその姿は、鬼気迫る、といってよいほどでした。あなたの病魔との戦いは、壮絶であり、あなたの死はほとんど討ち死にという形容がふさわしいほどです。

最後まで、あなたは学位論文をさらに発展させ、出版することを夢見ていました。そして、私が証言しうることは、時代が、そして未曾有の転換期にある日本が、その出版を求めていることです。私は、公共政策分析の本格的な研究機関となるべく、この春独立行政法人として出発した経済産業研究所に参加することとなり、財務省にあなたが客員研究員として兼務することを許可してくださるようお願いにあがりました。あなたの超人的なエネルギーと仕事ぶりをみれば、もし体が幾分か回復すれば、行政官と研究者としての二足の草鞋をはくことができるかもしれないと、かすかな望みを抱いたからです。しかし、病魔は恐るべき勢いであなたを襲い、私どもの願いを叶えてくださった財務省の並々ならぬご配慮を知らせに駆けつけたときには、あなたはすでに冥界との境にさまよってました。しかしその朗報を大声で伝えると、あなたはその特徴ある目を一層かっと見開いてほほえんでくれたことを、ご家族の方々とともに認めることができました。そうした喜びの時を最後に共有できたことは、私たちのほのかな喜びであります。あなたはその数時間後に、この世を去りました。

あなたは、学位論文を出版するというプロジェクトを自らの手で完成する事を得ませんでした。しかしこのプロジェクトは、あなたの生前の希望通りに、あなたの学問と志の最もよき理解者であり、あなたがその学位論文を捧げた理衣奈さんが引き継ぐでしょう。そして、公共政策分析における発展を目指す研究所の我々は、財務省におけるあなたの先輩や同僚たちと協力しつつ、そのプロジェクトの完成をお手伝いすることを約束します。またあなたの行政官としての志と思いは、あなたのよき友人たち、後輩たちの手によって引き継がれ、発展されていくでしょう。心配しないでください。あなたと理衣奈さんとの共同プロジェクトが完成した暁には、その成果は、あなたの漠として抱いていた新しい日本の創生に少なからず寄与することになるでしょう。また、その暁には、最愛のご子息を失われて今は悲嘆にくれられているご両親をはじめとしたご親族の方々のお心も和まれることになるでしょう。

壮絶な病魔との戦いの終わったいま、ゆっくりと休んでこのプロジェクトの完成を見守っていてください。

青木 昌彦