著者からひとこと

フードセキュリティ

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    著:山下 一仁

著者による紹介文

食の安全に必要な基礎知識が詰まった一冊

最近、食についての関心が高まっています。そもそも、食品、食料は国民生活に不可欠のもの、というより生命維持に不可欠といってよいので、国民・消費者がこれに関心を持つのは当然です。おいしい料理の作り方とかグルメについての話題や関心にも根強いものがあります。

しかし、以前と違うのは、食についての不安が高まっていることです。
不二家、ミートホープ、マルフク、吉兆など、賞味期限の切れた食材を活用したり、豚肉を牛肉と偽ったり、外国産を国産と偽ったり、表示を改ざんしたりするといった食品企業の不祥事が立て続けに起こっています。これらの事件によって食中毒が生じたというものはありませんが、食品に対する信頼が著しく損なわれていることは事実です。

さらに、偽装表示だけではなく、食の安全について疑問を持つような出来事や事件も起こっています。まず遺伝子組換え農産物・食品が流通しはじめたころから、国民・消費者はなんとなく食の安全性に疑問を持ちはじめたのではないでしょうか。遺伝子を組み換えた農産物や食品が安全であると言われても、生命・健康に長期的にどのような影響が起きるのかわからないのでは、というのが消費者の素朴な不安ではないかと思います。遺伝子組換え技術は1980年代から開発されてきましたが、1996年頃から日本にも遺伝子組換え農産物が輸入されるようになりました。2000年には食用に向けられないはずの遺伝子組換えとうもろこしが食用とうもろこしに混入したスターリンク事件が発生しました。

同じく1996年には、イギリス政府が牛のBSE(注1)と人の変異型クロイツフェルド・ヤコブ病(vCJD)の間に関連性があると発表したことが、我が国でも国民・消費者の注目を集めました。しかし、このときはまだ遠いヨーロッパでの発生だったため、イギリスからの輸入を禁止していれば健康に影響はないというのが一般的な受け止め方でした。しかし、2001年我が国で最初のBSE感染牛が発見されました。このとき焼却処分されたと発表された牛がBSEの感染源である肉骨粉に加工され、それが流通していたことが判明したことは、国民に大きな不安を与えました。さらに、国民の不安を解消し、国内牛肉産業への打撃を回避するために、在庫の国産牛肉を全量買い上げ・焼却処分するという政府の対策を食肉業界が悪用し、輸入牛肉を国産牛肉と偽って政府に買い取らせるという牛肉偽装事件までも発生しました。

2003年には我が国の輸入牛肉の大きな割合を占めるアメリカでBSE感染牛が発見されました。我が国はただちにアメリカ産牛肉を輸入禁止しました。この後、日米協議がたびたび実施されて、2005年せき柱を含む特定危険部位(SRM)を除いた20カ月齢以下の牛肉の輸入が認められました。しかし、2006年1月アメリカから輸入された牛肉の中にせき柱が含まれていることが判明し、我が国は再びアメリカ産牛肉の輸入手続を停止しました。同年7月に輸入は再開されましたが、2007年2月には20カ月齢以下ではない牛の肉の混入が発見され、また2008年4月にはアメリカから輸入された牛丼チェーン吉野家の牛肉にせき柱が入っていたことが判明し、アメリカ産牛肉への不安が募りました。

アジアでは、2003年以降高病原性鳥インフルエンザが発生・流行し、人への伝播のおそれが指摘されました。国内では、1996年に大阪府堺市で腸管出血性大腸菌O157による食中毒事件が学校給食で発生しました。さらに、2000年黄色ブドウ球菌毒素による大量食中毒事件を引き起こした乳業界最大の企業、雪印乳業は解体されました。

中国との関係では、2002年輸入された中国産農産物について基準値を大幅に上回る残留農薬が検出されました。2007年北米でメラミンを含んだ中国産ペットフードにより犬や猫が死亡し、中国産食品の安全性について世界的な関心が高まりました。このような中で、2008年1月には我が国で中国産冷凍ギョウザによる中毒事件が発覚しました。中国政府は当初中国国内での毒物混入を否定していましたが、中国国内で同じ会社のギョウザを食べた中毒事件の発生が明らかとなりました。この事件で中国産食品に対する消費者の評価が大きく低下しました。中国産冷凍ギョウザ事件は我が国の食料自給率の低さ、つまり海外への食料依存度の高さに気づかせた点で、転換点を作った事件となりました。その後、中国産乳製品等へのメラミン混入事件が発覚しました。

食料が満ち足りているときには、安全性の問題に目が集まります。また所得が高くなると安全性の要求水準も高くなります。しかし、食料が十分に手に入らない状況では安全よりも量の確保が心配になります。終戦後、ひもじさを満たすために人々は安全性という観点からは問題の多い食品を闇市で購入して食べました。

世界に目を向けても、食料品・農産物の国際価格が高騰し、食糧危機がG8洞爺湖サミットの大きなテーマのひとつになりました。国際市場は50年も続いた過剰から逼迫へと大きく変わっています。2000年に比べ2008年大豆の価格は2.5倍、とうもろこしは3倍、小麦は5倍に高騰しました。これは人口・所得の増加による食用需要の増加、エタノール需要の増加、投機的資金の動き等によるものです。しかも、今後さらに需要が増加することも予想されます。世界の人口は20世紀初めの16億人から2000年には61億人となりました。国連の推計によると2050年までに92億人へ増加します。さらに、畜産物1kgを作るのに、牛肉では11kg、豚肉では7kg、鶏肉では4kg、鶏卵では3kgのとうもろこしが必要です。経済成長による穀物消費から畜産物消費への移行によって穀物需要は大幅に増加します。

世界のエタノール生産は2002年の3,407klから2007年には6,256klに約倍増しました。このうち41.7%のシェアを持つアメリカは国内とうもろこし生産の3割をエタノール生産に使用し、32.3%のシェアを持つブラジルは国内サトウキビ生産の5割を使用しています。原油価格が上昇すると、石油の代替品であるエタノール生産も増えていきます。また、ディーゼル車が普及しているヨーロッパではバイオディーゼルの生産のために、その原料となる大豆やナタネの需要も増加します。需要が拡大すると農産物価格は上昇します。原油価格と農産物価格が連動するというこれまでにない現象が発生しています。

これらに供給サイドが対応できなければ、国際価格はさらに上昇し、途上国に飢餓が発生します。これまで世界の農業は、人口増加に単位耕地面積当たりの収量(単収)の増加で対応してきましたが、単収の伸びは時がたつにつれて鈍化しているという指摘があります。

また、アメリカやオーストラリアなど世界の大規模畑作地域等で、土壌浸食、地下水枯渇、塩害などによって生産の持続が懸念されています。土壌は風と雨によって侵食されますが、アメリカでは、大型機械の活用により表土が深く耕されるとともに、機械の専用機化により作物の単作化が進み収穫後の農地が裸地として放置されるので、土壌侵食がさらに進行します。かんがい等のための過剰な取水や揚水により、アメリカ大平原の地下水資源であるオガララ帯水層の5分の1が消滅しました。乾燥地で排水を十分しないままかんがいを行うと、地表から土の中に浸透する水と塩分を貯めた土の中の水が毛細管現象でつながってしまい、塩分が地表に持ち上げられ、表土に堆積します。これが塩害です。これで古くはメソポタミア文明が滅び、20世紀ではアラル海が死の海となりました。さらに、地球温暖化が食料生産に与える影響がいまだ十分には解明されていないという問題があります。

こうした中で、食の安全だけでなく食の量の確保にも国民・消費者の目が向きはじめています。食品・農産物供給の多くを輸入に依存している世界最大の農産物純輸入国である日本にとって、食の安全と食料安全保障は国民の大きな関心事です。当然のことながら、我が国の食料・農業政策のあり方について大きな関心が寄せられるようになりました。しかし、残念ながら、我が国の食料・農業政策は食料の自給を達成するという目的に応えてないのではないかと思います。

その一方で、安全の問題が消えてしまったかというとそうではありません。お隣の韓国では、アメリカ産牛肉の輸入解禁に対する抗議活動が政権を揺さぶるまでになりました。BSEや遺伝子組換え食品など、科学的に安全だといわれても安心ではないのではないかという国民・消費者の感情にまだ十分に答えきれていないのです。

この本では、国民・消費者が食の安全と食料安全保障について考える際に知らなければならない基礎的な知識を解説するとともに、あるべき政策についても考えていこうと思います。

(注1)Bovine Spongiform Encephalopathy:牛海綿状脳症。

山下 一仁

著者(編著者)紹介

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山下 一仁

1955年岡山県笠岡市生まれ。1977年東京大学法学部卒業、同年農林省入省。1982年ミシガン大学にて応用経済学修士号、行政学修士号取得。2005年、東京大学にて博士号取得(農学)。農林水産省ガット室長、欧州連合日本政府代表部参事官、農林水産省地域振興課長、食糧庁総務課長、農林水産省国際部参事官、農林水産省農村振興局次長等を歴任。2003年~2006年7月、経済産業研究所上席研究員。2008年より経済産業研究所非常勤研究員。著書に『詳解 WTOと農政改革-交渉のゆくえと21世紀の農政理論』(食料・農業政策研究センター,2000年)、『制度の設計者が語るわかりやすい中山間地域等直接支払い制度の解説』(大成出版社,2001年)等。