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no.27: スポーツマーケティングにおける権利ビジネス

広瀬 一郎
RIETI上席研究員

スポーツという概念は19世紀のビクトリア朝期のイングランドで形成され、フランスを経由してグローバル化されたものである。それは運動や体育という物理的な「もの」を直接指すものではなく、飽くまで「近代」というパラダイムに沿って意図的に規定された「概念」なのである。(78年のサッカーW杯で開催国アルゼンチンに初優勝をもたらしたセサル・ルイス・メノッティ監督は「サッカーというものはない。ただサッカーをする人間がいるだけだ」という至言を残した。)

極言すれば、スポーツという概念の基本は、近代が標榜する「理性」「抑制/非暴力」「進歩」に他ならないのである。「ルール」とは「非暴力」の確立であり、非暴力こそが「文明化」であり、それを19世紀中葉のイングランドでは「スポーツ化」と定義したのだ。そして、「近代」がグローバル化し、近代国家(=国民国家)がグローバル化するとともに、近代を体現するスポーツもグローバル化したのであった。(グローバル化にあたってフランス人のピエール・ド・クーベルタン伯爵が提唱した「オリンピズム」は大いに貢献した。)

1960年代以降、TVメディアが先進国を中心に著しい普及を果たすと共に、その有力なコンテンツであるスポーツもグローバル化を完成させた。同時にスポーツはビッグ・ビジネスへの道を歩み始めたのである。その最大の転機は民活五輪の嚆矢となった、84年のロス五輪であった。大会委員長のピーター・ユベロス(つい先日逝去した。)によって、1976年のモントリオール五輪がもたらした巨大な負債(この負債の支払いが完了したのは、ほんの数年前のことである)が示すように、膨大な運営費を負担しなければならない「金食い虫」であった五輪が、巨額な利益をあげるマシンとして再生された。

この、まさに「ユベロス・マジック」と言われた成果は、「権利」ビジネスの確立によって達成されたものであった。前述したようにスポーツとはモノではなく概念である。「概念」のビジネス化とは、将に「権利ビジネス」とならざるを得ないのである。

ユベロス氏の「権利」というものに対する考えの卓越したところは、「制限」するという発想にある。権利とは、もともと王権を制限し逆に貴族の権利を拡大する事(英国の「権利の章典」(Bill of Rights)を見よ)であり、その後は市民が自分達に対する制限を縮小するために勝ち取ってきたものである。何かが制限されて初めてその「制限を制限すること」自体、つまり「権利」自体に意味が生ずるのだ。また権利が与えられても、権利を持たないものとの区別がなければ、やはり意味は無い。権利の有無によって区別が無いのなら、なんとかして差別化を行って区別を作り出すことが必要になる。権利を持たざるものにたいする制限が強い程、その「制限を免除される権利」自体の価値は高くなることは自明だ。

また「権利」という商品は物理的に存在しない観念的な存在であるので、通常の商品とはその性格が大いに異なる。「無体財産権」はまた「知的財産権」(Intellectual Property)とも呼ばれ、あくまで知的にしか存在が認められない。従って「権利」という商品の質(あるいは価値)とは、価格でしか評価できないので、開発とは「如何に高く売るか」を工夫することであり、その成果は実売価格という結果でしか評価のしようがない。

五輪のマーチャンダイジングについては、従来は事前PRという役割だけだったのだが、ユベロスは公式マスコット「イーグルサム」の商品化を徹底して行い、独自の収入源に仕立て上げた。おかげで公式スポンサーが持つ「イーグルサム」の使用権にも、現実的なメリットが生じるようになった。もちろんこの使用権は、公式スポンサーとそうでないものとの明確な差別化にも大いに役立った。ここでも「権利の明確化」という戦略は活かされている訳だ。(誰もが使えるというのは、誰にも使われないというのと同様に、その使用に価値が生じないのだ。)

放送権についても同様に、1カ国で1つのTV局に対してだけ独占放送権を与えるという基本を確立した。そしてABCが全米の独占放送権を2億5500万ドルで購入し、世界をアッと言わせた。これだけで大会総支出の約半分をカバーできる額だと言われた。ユベロス氏は「オリンピックに必要なものは大きな競技場ではなく、問題はその競技場に何台のTVカメラが入れられるかだ」と言い切った。つまりオリンピックをTV放送用のエンターテインメントとして位置づけ、排他的な放送権利の売買を行いビッグビジネスにする道を拓いたと言える。これ以後の放送権獲得の熾烈な戦いと権料のウナギ昇りのアップが、ここから始まった。ここで注意を促しておきたいのは、価格の高騰と五輪の放送時間とは現在のところ正の相関関係にあるという点である。「高いものを買えば、何とかしてもとをとりたい」という考えは、個人だろうが法人だろうが万国共通なのであろう。超高額な権利料を支払うと、権利を取得したTV局は目一杯放送をしようとするし、視聴率を確保するためには、事前のPRにも注力する。料金の高騰は、結果として五輪の露出を増やし、普及に寄するところ大だったのだ。

以上のような制限が可能なのは、一体何に由来するのであろうか。スポーツの権利ビジネスの基本となる「独占権」(Exclusivity)が成立するのは、スポーツを統括する組織がヒエラルキー型であることによる。FIFA(国際サッカー連盟)やIOC(国際オリンピック委員会)などの欧州型スポーツ組織には特にその傾向が顕著である。これらメジャーな競技を統括する国際組織のトップ達を、スポーツ業界では「スポーツマフィア」と呼んでいるが、実に言い得て妙である。他方、NBAやNFLを初めとする米国発のスポーツは、独占を許容しない。米国の四大スポーツで、独占禁止法の適用除外を受けているのは、メジャーリーグ(野球)のみである。

この差は是非の問題ではなく、文化的な相違によるものだと考えられる。スポーツには必ずしも全て市場に委ねるべきではない部分も存在する。それをどこで線引きをするかは、一重に文化的な判断によるものであろう。わが国では、米国型の野球と、欧州型のサッカーの両方がプロ化され定着している。今後どちらの方向へ進むのか、あるいは日本型の第三の道を模索するのか。いずれにせよ、わが国が「成熟した国家として」判断することが求められているのである。

一方、ITとスポーツマーケティングという点から言えば、この権利の概念をインターネットに援用した際の、独占性の構成という問題点が新たに浮上して来るであろう。つまり、放映権の例が分かり易いが、一つの権利に対して付与された「地域」「時間」「媒体」などの条件が、インターネットによって容易に飛び越えられるからである。さらに、HDDレコーダやピア・ツー・ピアのような新しい流通手法が普及することで、例えばペイ・パー・ビュー(PPV)のような放送方式による独占権が有名無実化する危険性も指摘されている。

さらに、FIFAのようなマフィア方式によるガバナンスは、各国の制度の違いを前提としたコーディネーションを図る際には極めて有効であるが、一つの契約モデルを(メディアを通じて)普遍的に適用しようとする米国型のスポーツマーケティング手法には馴染まない。(スポーツをコンテンツの一種と捉えれば、映画や音楽に関しての米国コンテンツ産業の手法と源流を同じくしていることが容易に分かるだろう)

インターネットの上でのスポーツ・マーケティングは新たなビジネスチャンスとも言えるのだが、今後どのような展開を見せるのかは、このようなインターネット上での権利を巡る諸制度が各国においてどう扱われていくのかにも懸かっていると言えよう。

2003年10月1日

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2003年10月1日掲載