ブレイン・ストーミング最前線 (2007年12月号)

動かぬ物価の謎

渡辺 努
ファカルティフェロー、一橋大学経済研究所・物価研究センター教授

物価安定――真の意味での「安定」か

日本のGDPデフレーターは戦前から戦後1985年までの期間、おおよそ5~6%で推移していました。しかし1985年以降現在に至るまで、物価は、バブルの発生や崩壊、あるいは失業率の変動とは無関係に、動かない状態が続いています。本日はその理由を探ってみたいと思います。

90年代初め、為替相場や株価等、資産価格が崩れ、実質GDPも振るわない中で物価が安定していることを評価する見方がありました。しかし、私はこれを1つの指数だけが一定なのは良いことではなく、物価が安定しすぎていると見ます。

一般物価が地価に応じて上昇する限り、日銀の金融政策を考える際に「地価をみるのか、物価をみるのか」といった議論をする必要は生じません。1970年代の列島改造ブームのときは正にそうでした。ところが1985年以降は一般物価が地価の上昇に追いつかず、両者の差が拡大する一方という状況が続きました。そして最終的には、地価が下落することにより一般物価に歩み寄り、両者の差が解消されました。この地価の下落が不良債権問題を発生させ経済の長期停滞をもたらしました。仮に物価が上がっていれば地価の絶対水準が下がる必要はなかったのです。

通常は右下がりのフィリップス曲線も1995~2006年の約10年間は平坦化して、失業率は改善しても物価が上がらない状況が生まれています。このことは、物価が動かない分だけ、失業率や生産量で余分に大きな調整圧力がかかったことを意味します。物価が動かないために大きなコストが生まれているのです。

フィリップス曲線が平坦化したのは、インフレーションターゲティング等金融政策の運営技術で革新が起きたためという説もありますし、経済のグローバル化により中国やインドが得意とする商品が大量に供給されるようになり、それがインフレ圧力を相殺するためだという説もあります。しかし理由を完全に特定し、それに基づき政策を決定する段階にはまだいたっていません。

物価の新しい分析手法

そうした中で、物価に対する新たな視点が生まれています。実際に店頭で売られている商品の価格1つひとつを丹念に分析することで全体として物価がどう動くのかを理解しようとする動きです。従来は、集計した各商品の価格を平均して、その平均値の変化率を見る物価指数でインフレダイナミクスを理解していました。新たな手法は、平均するのではなく、個別商品の価格改定の規則性を調べ、そこからある種の共通要素や価格間の相関関係を導き出し、全体の動きを見定め、インフレダイナミクスを理解しようとするものです。

「価格の粘着性」

このようにミクロ価格を使ってインフレダイナミクスを分析した結果、次のようなことが明らかになってきました。

たとえばあるスーパーマーケットで売られている1つの商品の価格の推移をみてみると、価格は一定期間動かず、ある日突然動き、またしばらく動かないという動き方をしています。ここで価格が動かない状態が続くことを「価格の粘着性(硬直性)」と呼びます。この粘着性を測るために、価格が1カ月で改定される確率を調べたところ、フランスでは21%という数値がでました。つまり約2割の商品の価格が1カ月内に改定されるということで、逆に考えれば、5カ月経てば、ほぼすべての商品の価格が新しい価格に入れ替わっているということになります。この確率は商品ごと、国ごとに大きなばらつきがありますが―たとえば「加工食品」、「工業製品」、「サービス」の3つでは、調査を行なった日米独仏伊いずれの国でも「サービス」の価格改定確率が最も低くなっています―商品ごとにばらつきがあることを考えるならば、個別の価格の平均からインフレダイナミクスを理解しようとする従来の手法には問題があることが確認できます。

一方、さまざまなショックに対する調整にどの程度の時間が必要なのかを、ミクロのデータではなくGDPデフレーター等で調べてみたところ、政策金利引き下げショックに対するインフレ率と産出量の調整終了には14半期以上かかっています。ミクロでみると半年程度で価格が改定されているという前述の分析結果と比べると、明らかに長い。つまり、個別の価格から得られた価格の粘着性と、マクロの集計値から観察される価格の粘着性の間に大きなギャップがあります。ポイントは、この不整合をどう理解するかです。

「戦略的補完性」

企業A~Eがあったとします。各企業の価格更新時期がずれていると、企業Aは同時期には価格更新をしない企業B~Eに顧客が流れてしまうことを心配して、価格更新の幅を小幅にとどめるようになります。このように企業Aの価格設定行動がそれ以外の企業の影響を受けることは「戦略的補完性」と呼ばれています。戦略的補完性があると、企業が互いに牽制しあう結果、個別企業の(つまりミクロの)粘着性よりも、経済全体としての(マクロの)粘着性が大きくなります。つまり、個別の企業の価格粘着性が企業間の牽制によって増幅されるということです。

われわれの分析では、価格が20日以内に改定される確率は1989年以降高まっており、価格の伸縮性増大が示されています。これはフィリップス曲線の平坦化とは反対の話であり、従って価格改定の確率だけをみていてはフィリップス曲線平坦化の説明はできません。一方、価格改定の幅をみると、2000年以降、小幅化していることがわかります。インフレ率は「改定の頻度×改定幅」で決まりますから、改定幅の小幅化はインフレ率の変動を抑える効果があります。この改定幅の小幅化が動かぬ物価の原因です。なぜ改定幅が狭まったのか―可能性の話となりますが―戦略的補完性が強化されたため、換言すれば、グローバル化等により競争が激化したため、とも理解できます。

このように企業は価格を上げたくても上げられないと考えるならば、現在の物価安定は真の意味での「安定」ではなく、むしろ経済厚生上は問題のある現象と捉えることができるでしょう。

最後に、物価の予測精度をマイクロデータを使用して向上させるには、「価格改定頻度」と「改定幅」を分けて考えた方が良いと思います。消費者物価指数(CPI)やGDPデフレーターのアプローチでは捉えていない価格間の相関を明示的に考慮する必要もあります。高頻度大量データの解析がカギを握ります。

質疑応答

Q:

サービスの場合に価格変動の頻度が少なくなるのは何故ですか。また、サービス業の場合はグローバル化はそれ程効かないと思いますが、この点についてもお考えをお聞かせください。

A:

労働集約的なサービス業では労働賃金が最大のコストとなっています。そして日本を含む多くの国で、労働賃金の改定は通常は年に一度で、賃金の粘着性が非常に強いといわれています。このことが転じてサービス業の価格の粘着性を強めていると考えられていますが、果たして実際にそうなのか、現在検証が進められています。労働賃金がサービスの原価の大きな決定要因となるならば、その賃金が経済のグローバル化に同調して動くかがカギとなりますが、規格化できる商品を作るある種の労働の賃金は、グローバル化に同調して上下する傾向が確認されています。その意味では、サービスでも賃金面でグローバル化の影響がでてきている可能性はあります。しかしこの点も現在検証中です。

※本稿は10月5日に開催されたセミナーの内容に一部加筆したものです。
掲載されている内容の引用・転載を禁じます。(文責・RIETI編集部)

2007年12月20日掲載

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