企業の価格設定行動カギ

渡辺 努
元ファカルティフェロー

デフレ脱却に向けて、政府と日銀が一体となって取り組んでいる。日銀は本年1月に2%の物価目標を打ち出し、4月には異次元の金融緩和により物価目標を2年以内に達成するとアナウンスした。人々の物価予想にも変化が現れつつあり、企業の側も、小麦粉、マヨネーズなどの商品で出荷価格を引き上げる動きがある。消費者物価指数(CPI)も、これまで前年比でマイナス基調だったが、6月には0.4%のプラスに転じた。

しかし、最近の動きは電力料金やガソリンなどの値上がりによるものであり、幅広い商品で価格上昇には至っていないとの見方も根強い。実際、スーパーの販売商品を対象として「東大物価プロジェクト」が作成している日次物価指数は7月26日時点で前年同日比0.9%の下落であり、下落幅は徐々に縮小してはいるもののそのペースは緩慢である。メーカーの出荷価格引き上げが末端価格まで十分に浸透していないことを示唆している。こうした中、2年で2%という物価目標の達成は困難との指摘も聞かれる。

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大恐慌期における米国のデフレについてはバーナンキ米連邦準備理事会(FRB)議長をはじめとする研究が蓄積されている。大恐慌期の米国でデフレ脱却に成功するカギとなったのはルーズベルト大統領による政策転換であった。それまでの金本位制、均衡財政、小さな政府から決別し、金本位制の放棄とドル切り下げ容認に踏み切ると同時に、拡張的な財政政策を採用した。この結果、人々のデフレ予想が払拭され、インフレ予想が定着した。

重要な特徴は、個別の金融・財政政策のアクションではなく、政策形成のゲームのルールを替えること、つまり、政策レジーム(体制)の転換であるという点だ。しかも、その転換を徐々にではなく、突然行った。安倍晋三政権の施策は、政策をパッケージとして変更しようとしていることと、短期間での転換を志向している点において大恐慌期の政策レジーム転換に近い。

しかし我が国のデフレは米国の大恐慌と次の2点で異なり、それがデフレ脱却を難しくしている。第1に、デフレの速度という点でみると、日本のCPIの前年比マイナス幅は大きいときでも2%であり、ならせば1%弱にすぎない。これに対して米国のCPIは1931年から33年にかけて年率8%で下落し、激しいデフレであった。第2に、日本はデフレが長期にわたっている。90年代半ば以降、15年以上にわたって物価下落が続いており、人々のマインドにデフレ予想がしみついている。一方、米国のデフレは約2年で終息し、その後一転してインフレヘ向かった。

この違いはどこから来るのか。背後には企業の価格設定行動の違いがある。すなわち、大恐慌期の米国では、企業が需要や供給に応じて価格を迅速に変更していた。これに対して近年の日本では、需給が変化しても企業は価格を即座には変更しない傾向が強まっている。

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価格硬直性の高まりは、横軸に失業率、縦軸に物価上昇率をとった「フィリップス曲線」の変遷から確認できる。図は日本の80年代以降のフィリップス曲線である。80年代には失業率が下がると物価上昇率が上がるという明瞭な関係が存在したが、90年代のフィリップス曲線の傾きはそれ以前に比べ小さく、2000年以降はさらに小さくなっている(フィリップス曲線のフラット化)。つまり、需要の変動によって失業率は上下するが、物価上昇率はほとんど変化していない。

図:日本のフィリップス曲線
図:日本のフィリップス曲線

フィリップス曲線のフラット化はデフレ脱却にどのような意味をもつのか。需要増が失業率を下げる一方で物価はさほど上がらないというのは、インフレ局面であれば望ましいことである。しかし現在の日本のようなデフレ局面ではデフレ克服を困難にし、物価の下落が将来も続くという人々の予想が経済の成長力を抑えてしまう。

「フィリップス曲線の傾きが今後も不変」との前提の下で、物価上昇率を2%引き上げるには需給ギャップをどれだけ変化させる必要があるかを試算すると、50兆円の需要創出が必要になる。これを2年間で実現しようとすると、実質国内総生産(GDP)を年6.3%で成長させることになる。物価目標達成までの期間を3年に延ばしたとしても必要とされる実質成長率は年4.5%と高い。

これらの数字は誰がみても達成不可能である。しかし、この試算は「フィリップス曲線の傾きが今後も不変」という前提の下でなされている点には注意が必要である。この試算結果から我々が学ぶべきは、物価上昇2%を実現するには、この前提を何とかして変えなければならないということだ。つまり、デフレ脱却は、フィリップス曲線の傾きを大きくできるかどうかにかかっている。

安倍政権発足後、フィリップス曲線の傾きは変化しているだろうか。図には12年1月~13年6月の各月の物価上昇率と失業率も示している。この時期の傾きはそれまでとほとんど変わっていない。

フィリップス曲線のフラット化の原因として有力なのは同業他社との競合である。メーカーや流通業者は、価格を上げるとライバル企業に顧客が流れてしまうとおそれる。そのため、少々需要が増えたりコストが増加したりしても、価格の引き上げに踏み切る勇気がない。その結果、マクロで需要が増えたりコストが増加したりしても物価が変化しないという「協調の失敗」が起きる。安倍政権発足後、企業の価格設定に積極性が出てきているのは事実であるが、マクロでフィリップス曲線の傾きを変化させるには至っていないとみるべきである。

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今後、物価上昇2%に向けて前進するには、第1に、企業の価格設定行動を変化させる必要がある。需要増加にもかかわらず企業が価格引き上げをためらうのは「物価はこれまで下落してきたし、将来も続く」という予想があるためだ。これを「これからは物価上昇の時代だ」という予想に切り替えることができれば、ライバル企業も価格を上げるはずという強気の思考へと切り替わる。

そのためには、政府・日銀が物価上昇の時代に入るというメッセージを一層明確に発信する必要がある。また、先般、消費税特別措置法が可決されたが、これは、消費税率の引き上げというコスト増分について価格転嫁を促進する狙いがある。これと同じ発想で、消費税に限らず、コストや需要の変化分を企業が適切に価格に反映させられる環境を整備する必要がある。

第2に、日銀は2%の物価上昇へと着実に向かっているか否かを点検し、その結果を開示すべきである。米国や英国の量的緩和の効果を評価した最近の研究では、株価などの資産価格には有効だが物価には及ばなかったとの結果が得られており、日本の緩和が物価の引き上げ効果をもつかどうかは今なお未知数だ。それだけに、政策効果の丁寧な点検が不可欠である。

また、短期間での決着が成否を左右するという観点からすると、2%の達成が難しいと判断した際には、直ちに先行きの政策をアナウンスする「フォワードガイダンス」の強化や購入資産の範囲拡大などの追加策を講じるべきだ。

2013年7月31日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2013年8月9日掲載

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