新春特別コラム:2013年の日本経済を読む

「対岸の火事」ではなくて「人の振り見て我が振り直せ」

祝迫 得夫
ファカルティフェロー

二組の夫婦の話

ここに二組の夫婦がいる。どちらも所得が落ち込み借金が溜まっているので、家計を切り詰めなければならない状態に陥ってしまっている。

片方の夫婦の間では、どの支出にどれだけの金額を割くかの優先順位がいつも食い違っており、毎年繰り返し似たような話し合いを繰り広げなかなかまとまらない。この家では、夫婦の間で合意できないと一切の支出が行われない決まりなので、電気・水道は止まるかもしれず、子供は食事をもらえないかもしれず、夫婦がツケで買い物をしている近所の商店も支払いをしてもらえないかもしれないので気が気ではない。周りには迷惑この上ないのだが、しかしこの夫婦は毎年同じ時期になると、同じような内容で喧嘩寸前の夫婦間協議を繰り広げる。

もう一組の夫婦は、支出を最終的に決める権限は夫にあるが、財布の中身を熟知している(はずな)のは妻の方である。妻はいつも「家計が苦しい」と言っているのだが、夫が「不景気なときはパーっと旨いものでも食べて、景気よくしなきゃ」と言うと、妻は「これが最後ですよ」と言って、どこからか不承不承お金を取り出してくる。こちらの夫婦も、毎年同じことを繰り返しており、近所から見るとなぜ未だに破産しないのかが不思議なのだが、こちらはものを買うときはいつも現金払いなので、周りもあまりやかましいことは言わない。ただし近所の連中が、この夫婦が破産して立派な家具やら高級家電やらを売りに出さなければいけなくなったら、安い価格で買い叩こうと密かにソロバンを弾いているという噂である。

自分で書いておいてあまり良い例えだとも思わないのだが、前者が米国、後者が日本の財政の話である。両国とも政府債務の累積により、本格的な財政破綻の可能性が内外の懸念材料となっているが、財政問題の現実経済への影響の現れ方は大きく異なっている。米国の「財政の崖」の問題は、世界景気の深刻な懸念材料として取り上げられる一方、我が国については国債の低金利の継続が理解しがたい現象として報道されている。実際のところ我が国の財政状況は、米国のそれよりずっと深刻である。したがって、米国の状況を見て対岸の火事と思うのではなく、このまま行くと我が国で何がおこるかについて想像力を働かせることの方が重要である。

情報の透明化と可視化の必要

第1に、民主党と共和党の間で毎年代わり映えのしない財政論議を繰り広げる米国のやり方は、確かに周辺にとってははた迷惑だが、少なくとも当事者同士が問題の存在を認識し、話し合いのテーブルについている状態ではある。これに対して我が国は、与野党とも言葉の上では財政再建の重要性を認識していると言ってはいるが、選挙のことを考えると、現実にはどちらの側も財政支出を本格的に削減したいと思ってはいない。第2に米国では、少なくとも現在どのくらいの政府債務があり、将来どれくらいの支出と税収が予定されているかということは明確である。これに対し我が国では、財政投融資や年金制度が極端に複雑になってしまっており、将来、本当にどれだけの支出が必要とされており、どこまで財政状態が深刻なのかを数量的に把握するのが困難になってしまっている。そしてそのことが、政治に財政状態の深刻さにあえて立ち入らない理由・インセンティブを与えてしまっている。というか、その場しのぎの対応を繰り返して制度をいじりすぎた結果、熟知していることになっている官僚たちですら、特に年金問題については、実際どこまで事態を把握しているかが怪しくなってしまっている。

「努力目標」ではなく「達成義務」に

無論、米国の抱えている問題も深刻である。米国は、財政状態の悪化がある程度自動的に財政支出の削減に跳ね返ってくるようなシステムになっているので、警察・消防や義務教育といった、我が国では考えられないような領域にもその影響が及ぶ。確かに、国民生活の安全や治安に直結するような支出が自動的に削らされてしまうシステムというのは、他の側面で日本と違いがないとすれば、決して優れた制度とは言えない。しかし少なくとも、国民が財政問題の深刻さを、身をもって感じざるを得ないという点に関しては、まったく悪いところばかりとも言えない。

逆に日本の場合、近い将来、義務教育や警察・消防への支出に手をつけざるを得なくなったとすれば、それはもう後戻りできないくらい本当に深刻な財政状況に陥ってしまったことを意味することになる。突然前触れもなく、取り返しのつかない危機的状況に陥っている自分達を発見する前に、国民が多少の痛みを感じるようなシステムにはそれなりにメリットがある。だとすれば、財政再建を「努力目標」にするだけではもう不十分である。日本経済が財政状況悪化の熱湯の中で「茹でガエル」になってしまわないように、アングロ・サクソン流に、まず法律という縄で自分達の手をきつく縛ってから経済政策に関する議論のテーブルにつくような、厳しい制度化が必要な時期に来ているのかもしれない。

地方分権化を進めるなら明確な再分配のルール作りを

日本国民が米国の現状から学ぶことのできる、もう1つの重要な教訓は、地方分権化、特に財政面での地方分権化がもたらすメリットとデメリットである。シュワルツネッガー知事のカリフォルニア州の惨状が物語るのは、地方に財政主権を大きく委譲した場合、地方の財政運営の失敗は、当然その地方自治体が全面的に責任を負わなくてはならなくなるということである。我が国の地方交付税制度は、裕福な地域からそうでない地域への財源の再分配という役割を担ってきた。もしこの先、我が国が本当に地方分権化を進めて行くのだとすれば、これに代わる何らかの新しい財源の再分配制度を作らない限り、都道府県間の貧富の格差の顕在化という事態に直面することになるだろう。

2012年12月28日

2012年12月28日掲載

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