新春特別コラム:2012年の日本経済を読む

2012年にしておかねばならぬこと

小野 五郎 上席研究員

2011年は大震災等々による混乱はあったが、「もはや米国さえ往時の力を失った事実を冷静に受け止め、早急に己の分に合った経済社会を構築しなければならない」との根本命題は不変。ユーロ不安・円高等も予期されたことが顕在化しただけだから、12年は「11年にしておかねばならぬこと」で指摘した「向こう最低20年を睨み、経済規模縮小に伴う摩擦覚悟で、最小限のセーフティネットを残し、市場原理を貫き速やかに財政再建を図る」ほかはない。

福島原発事故から何を学んだか

そこで新たに踏まえるべき第1は「福島原発事故から何を学んだか」。巨大システムとか構造問題など非可逆な命題に取り組む際念頭に置くべきは、環境庁の「事後処理費用は事前防止費用の5倍から100倍かかる」という四大公害報告。そこから得た世界的にも評価の高い貴重な教訓「事前対策こそ政策の要」「問題先送りは不可」を活かすことなく、自己に甘い仮定で済ませてきた結果が福島原発事故であり「失われた20年」である。「想定外」を言うなら、その前提として同じ過ちに対して「想定外」を繰り返してはならない。

実は阪神淡路大震災では直接被害にばかり目が行き重要な先例が見落とされた。すなわち神戸製鋼で全電源が落ち高炉が暴走し炉中圧力の異常上昇が起きて、全自動システムのため電力喪失下では圧力を抜く手段が無く大爆発寸前。まさに今次福島原発と同じだが、昔の手動システム制御技術を覚えていたエンジニアOBが駆けつけ手作業で減圧に成功。が、「異分野」ゆえにか、それが電力関係者に教訓として活かされた形跡はない。「失敗から学べ」と言う「失敗」ではないが、この種経験に学ばねば巨大システム起因の大惨事が際限なく繰り返されよう。

要は、巨大システムでは須らく予めシステムに組み込まれない狭義の「想定外」リスクを洗い出し、別途システム外で処理する方法を用意し可及的に広義の「想定外」を減らすこと。特に過去に実績のない新規・先端的なものほどしかり。

「経済」とは一見無関係なようだが、市場機構を巨大システムと解し、その自動調整機能を過大に評価せず同種対応が不可欠。筆者が「緊急時における産業政策」としたオイルショック等が前例で、「緊急事案に備え財政健全化を図れ」の警告は今も有意。また「金融工学」「高速取引技術」等を駆使した新市場等、実績なき新システム採用前には十二分ゆとりを取るべきことも金融市場の崩壊が実証済み。

必要最低限のセーフティネットと社会の基本的枠組みの再構築を

第2は経済論壇再登場の「ケインズかハイエクか」という議論の不毛性。両者共存命中ならばケインズはケインズ政策採用を否定し、ハイエクは自由放任の前に市場ルール再構築を優先したはず。

現下現象はリーマンショックで明かされたカジノ資本主義の病根、ユーロ危機で露呈した先進諸国の放漫財政等々、日本の「失われた20年」と同じく世界を主導してきた先進国の成熟期=成長余力喪失、90年頃筆者が指摘した「需要飽和」(新規需要分野創出の都度「需要の壁」発現)など先送りできぬ構造問題であり小手先で糊塗しうる循環問題ではない。

よってマクロ俯瞰的な発想から循環現象における時間軸の人為的短縮を重視したケインズ政策的対応は無用というより構造的変革を遅延・歪めるだけ好ましくなく、必要最低限のセーフティネットと社会の基本的枠組みの再構築を除き、新たな定常状態に落ち着くまで自由放任すべきなことは明らか。といってミクロ的視座から市場の試行錯誤過程・自動調整機能を重視したハイエク的市場過程に委ねうる問題でもない。

元々スミスから現代米国経済理論まで、経済学は国益実現ツールの理論的裏付けにすぎず「価値中立」ではない。また現代理論の前提たる定常状態は旧世代の定常状態であって向かうべき新たな定常状態ではないし、人類社会にあるのは「野生の自由」でなく「管理された自由」。そこに元々財市場での理屈付けを直に生産要素市場に演繹した無理も出た。かくして米国御都合主義型知財保護が完全自由主義を求めるハッカーと衝突し、発想の転換抜きの税制改革論議=消費増税・所得増税等「取りやすい所から取る」重商主義的発想がネット社会では非力となる。

政策論では経済効用も総効用の単なる一要素に過ぎず、個々に望ましい全願望に応ずれば財政破綻から一切の願望が叶わぬ「合成の誤謬」に陥る。ゆえに「願望」を「目標」にすり替え、それに合うよう数値・数式・理論を作ることなど許されぬ。財政再建問題で「インフレ化による実質債務圧縮は国内家計間の資産移転を伴うだけで国家経済に影響は無い」「政府が円建て債務と外貨建て資産とを交換して当面の円高と将来の円安に備える」等の意見が出ているが、いずれも「国家経済」「外貨」など多様な要素を併せ有する複合体を単体扱いした詐術にすぎない。

求められる慣性からの脱皮

今や筆者が92年『実践的産業政策論』中で提唱しスティグリッツ等が展開した「市場と政府との相互補完関係」下、70年代に「文化産業論」で提唱した「より精神的価値重視」へのパラダイム転換を図り、新たな社会の基本構造設計を行ない、そこに誘導すべく全政策ツールを傾注するのみ。

TPP参加も「成熟社会に合った社会構造転換」へ向け必要なのであって、「国際化至上主義」「自由市場原理主義」などのためではない。後者に農業保護派が反対するのは当然だから、別途「構造改革により国家としての生産性向上を図らねば保護すべき分野を保護する余力も失われる」として説得すべき。元よりこの種の域内経済開放政策は米国等参加国の産業政策にすぎぬから、日本としても「保護政策の可否」を離れた「国益全体を睨んだ産業政策」として活用すべきが当然。グローバリゼーションも欧米型一元化ではなく多様化でないと、エントロピー増大から破局は必至。

なお、直面する新課題を解くためには筆者が90年代初め主張した「慣性からの脱皮」が求められるが、それは単に「大きすぎても潰せ」という既得権・旧体制打破のみならず現行理論が依拠するパラダイムそのものの転換も含まれる。

結論:12年は筆者が11年に述べたことを全部認め、追加課題と合わせ粛々と進めていくべき。特に財政再建を最優先とし、当面重商主義的発想も次善の策として容認せざるをえぬし、福祉・教育等拡充も予算増額と切り離し既得権やムダとのスクラップアンドビルドで十分対対応可能と認識すべきだ。

2011年12月28日

2011年12月28日掲載

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