EPAがクリアすべきWTO協定の条件とは?-条件の決定者は誰か-

小寺 彰
ファカルティフェロー

GATT24条上許されるEPAとは?

日本が正式に経済連携協定(EPA)に取り組み始めて、早7年になる。当初からよく問題にされ、また現在でも折にふれて訊ねられるのは、「GATT24条上、どのようなEPAなら許されるのですか」という問いである。

日本が交渉を終えたEPAは今のところ6カ国であるが(発効済みは3カ国)、ここ2、3年内に10カ国以上の国と交渉を終える見通しである。EPAは、投資や競争など広範囲な協力関係を設定することを目的としているが、その中心は物品貿易の関税撤廃にある。この部分を「自由貿易地域」の設定という。現在まで日本が最大の同盟国である米国とEPAを結ばず、現時点でも最大の障害と認識されているのが、米国産の農産品輸入自由化であることを考えると、自由貿易地域の設定がEPAの中心的な機能であることが容易に想像できる。

いうまでもなく現在の国際経済秩序を支えるのはWTO協定であり、WTO協定、なかんずく物品貿易を規律するGATTは、すべての国の産品の輸入について、関税を含めて同一に扱うこと義務づけている。そのため、協定相手国との貿易だけを自由化する自由貿易地域の結成には、GATT上厳しい制限が課されている。自由貿易地域がGATT上許容されるためには、「関税その他の制限的通商規則がその構成地域の原産の産品の構成地域間における実質上すべての貿易について廃止されてい」なければならない(24条8項b号)。そこで次の疑問が出る。関税を「実質上すべての貿易について」廃止するということはどういうことなのか。

この条文からいえることは、すべての貿易について関税を廃止しなければいけないというわけではないが、「実質上すべて」といいうる程度にまで関税を廃止しなければならないことだ。それでは、「実質上すべての貿易について」関税を撤廃するというのは、貿易量でいえば何パーセントなのだろうか。EPAの各構成国の輸入量について90%なのか。または両国の往復の貿易量全体で90%をクリアすればよく、片道(どちらかの国の輸入量)では撤廃率が90%に満たなくてもよいのか。さらに上記の例では90%を基準にしたが、これでは足りず95%にしなければいけないのか、はたまた85%でもいいのか等々。

どのように貿易量を測定するか、また基準の数値がいくらかは、今まで頻繁に論議されてきたが、WTO紛争解決手続でも、またWTOの他の機関においても、正式に示されたことはない(GATT24条に関する紛争判断はあり、それが多少は参考になるが決定的な内容を示してはいない)。さあどう考えたものか。

国際条約の解釈とは

WTOには整備された紛争解決手続があり、またその他にWTO協定の運用機関もある。WTOは、これらの機関を使ってWTO協定の解釈をしばしば示してきた。とくにWTO紛争解決手続の威力は抜群で、たとえば日米で解釈が対立する事案(最近はダンピング関係の事項が多い)で、一刀両断に米国政府の解釈を退けて日本の解釈を支持する判断を出し、それを受けて米国政府が国内措置を変更して紛争解決手続の判断に従う例が相次いでいる。もちろん、日本の措置が訴えられた場合も、きわめて高い確率で協定違反の判断が出され、日本政府が従うことも今までよくあった。こういう状況を目の当たりにすると、WTOのお墨付きを得て安心した気持ちになりたいと思うのは自然の情であろう。

しかし、GATTを含むWTO協定が「国際条約」であることを忘れてはいけない。国際条約の解釈権はまず条約の当事国が持つ。つまり日本政府の措置(EPAも日本政府の措置である)のGATT整合性は、日本政府が主体的に解釈する権限を有している。そういうと、適当に解釈すれば良いということだと勘違いする向きもあるが、日本が条約当事国として解釈権を持つことが、国際条約を「適当に」解釈することを意味するわけでは毛頭ない。国際条約には国際法上の解釈規則(「条約法に関するウィーン条約」に規定されている)があり、条約当事国はそれに従って誠実に条約を解釈しなければならない。「条約法に関するウィーン条約」のなかで、条約解釈の柱となるのは31条1項である。

31条1項
「条約は、文脈によりかつその趣旨及び目的に照らして与えられる用語の通常の意味に従い、誠実に解釈するものとする。」

当事国が自らの責任で誠実に国際条約を解釈するというのが、国際法の大原則である。それに対して、正しい解釈は何によって担保されるのかという問いが間髪を入れず発せられよう。これに対する答えは、まずは解釈が国家の責任において行われるということであり、国家の責任は、国の内外に対する説明責任によって担保されるということである。

国際法秩序は個々の国家の責任ある行動に基礎を置いており、国家が信用できない存在だという前提をとれば成り立たない。なにしろ国際社会には、国内社会のように中央政府はない。もちろん国家がいつも責任ある行動をとってきたといえないことは古今東西の例が示すところであり、この点を重視すれば国際法は単なる「国際道義」でしかなくなる。事実そのような見方が支配的であった時代も長く続いた。しかし、WTOのカバーする貿易の世界では、国家が責任ある行動をとるようになったことが最近の顕著な特徴であり、このことは、先に挙げたWTO紛争解決手続に対する各国の対応に見て取れよう。WTOには制裁の仕組があるからという人もいようが、WTOの制裁の仕組は、各国の強制執行の仕組とは比較にならないほど弱いものである(にもかかわらず、米国ですらWTO紛争解決手続の判断には従うのはなぜか。学問的に興味深い問題であるが、その点は別の機会に譲る)。

さらに現代では国家がどのような国際条約解釈をとるかについて、内外で説明を求められる。国内では、たとえば議会で質問されれば答えなければならない。またWTO紛争解決手続に訴えられれば、自らの主張の正しさを理路整然と説明しなければならない。これが説明責任である。

GATT24条の解釈

国際条約解釈の一般論は、少なくともWTO紛争解決手続で公定解釈が示されるまでは、GATTの解釈にも当てはまる。各国は、自らの見識に基づき自らの責任において、「条約法に関するウィーン条約」に則ってGATTを誠実に解釈することが求められる。

解釈に当たってまず考えるのは、「文言」である。しかし、「実質上すべての貿易について」が一義的に意味するものがあるとはいえない。次に「目的」、そして「文脈」である。GATT24条4項は、(1)EPAの目的が、「構成国間の貿易を容易にすることにあり」、また、(2)EPA構成国と他のWTO「締約国との間の貿易に対する障害を引き上げない」ことを求めている。また同項は、(3)EPA構成国間の「経済の一層密接な統合を発展させて貿易の自由を増大することが望ましい」ともしている。(1)は良いとして、(2)および(3)は、自由貿易地域の設定が世界全体の貿易自由化に貢献するようなものであり、かつ構成国以外の国との間の貿易上の障害を引き上げないことを求めている。「文脈」からは、GATTが最恵国待遇を基本原則としている以上、特定国間に限った貿易自由化は例外と位置付けられるべきものであり、そんなに易々と設定できるような条件でEPAは認められないことが導けよう。さらに、「条約法に関するウィーン条約」は、「文脈」と同じ機能を果たすものとして、諸国の慣行を挙げる(31条3項)。諸外国の設定した自由貿易地域がどのような内容を持つかの調査はここで意味を持つが、考慮すべき慣行といいうるためには、「条約の解釈で当事国の合意を確立するもの」であることまで要求される。しかし、条約解釈に意味のある慣行を見いだすことはなかなか難しい。それでは交渉者の意思はどうか。交渉者の意思は、「条約法に関するウィーン条約」では「解釈の補足的な手段」(32条)と位置付けられて、31条より劣った扱いになるが、上記のように意味が「あいまい又は不明確である場合」は決定的な意味を持つ。しかし、GATTの交渉記録は公表されていないので、現時点で解釈に使う術はない。

結局、「実質上すべての貿易」の内容は不確定としかいいようがない。また「目的」、「文脈」等は、それが個々の状況に依存して変化すべきことを示している。日本政府は、各構成国の貿易量の90%について関税を撤廃すれば、この条件はクリアすると考えているようである。そして「目的」、「文脈」等の考慮は、場合によっていずれかの構成国の輸入の関税撤廃割合が90%を下回っても良いことを示しているようにも理解できる。もしわが国政府が、そのように考えているのであれば、いずれかの構成国の関税撤廃が90%を下回っていてもよいことを、貿易自由化等に照らして、きちんと説明する必要がある。そのことが、国際条約の解釈を責任をもって行うということである。

日本のあるべき態度とは

GATT24条の「実質上すべての貿易」の意味については、便利な基準の在りかを探し回るより、世界に向かって、日本が24条をどのように解釈して関税撤廃率を決めたかをきちんと説明する方が大事である。日本が首尾一貫した説明のもとに(もちろん、同じ関税撤廃率にしろという趣旨ではない)、EPAにおける関税撤廃を決めていけば、それがGATT24条の意味を明確化する「慣行」に発展していく可能性もある。EPA締結がWTO規律の強化に繋がるとすれば、まさにわが国のWTO中心主義に沿ったものであり、いうまでもなく国際貢献の1つと言えよう。

2007年5月22日

2007年5月22日掲載

この著者の記事