TPPと日本早期交渉で現実的な解を

小寺 彰
ファカルティフェロー

環太平洋経済連携協定(TPP)への日本の参加について、議論がかまびすしい。しかし、マスコミや関係者、政治家らの言説の中には、誤解が散見される。よく言われるのは「一律に基準を決める多国間の経済連携協定(EPA)は高水準の内容になるが、融通をつけやすい2国間EPAは高水準にならない」とか、「TPPは農産品分野も自由化対象に含むのでハードルが高い」というものだ。

これらの言説が誤っていることは、次の3つを指摘すればすぐにわかる。日本と東南アジア諸国連合(ASEAN)の多国間EPA(AJCEP)が、従来わが国の結んだ2国間EPAと同水準の自由化にとどまっていること。今まで日本が結んできた2国間EPAのすべての自由化分野に農産品が含まれること。さらにオーストラリアとの2国間EPA交渉が、農産品分野の自由化をめぐって暗礁に乗り上げていることである。

また、TPPを自由化の文脈のみから捉える議論がほとんどだが、果たしてTPPは貿易自由化に尽きるのか。我々は、TPPをどのように理解すればよいのだろうか。

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EPAや自由貿易協定(FTA)とは、物品貿易に関する「自由貿易地域」またはサービス貿易に関する「経済統合」の設定が含まれる協定をいう。それに加えてEPAには投資の自由化、知的財産権保護など種々の内容を含む。

日本を含む多くの国は世界貿易機関(WTO)に加盟し、他国の物品・サービスなどを無差別に扱う義務を負っている。ただし、自由貿易地域・経済統合を設定すれば、設定国同士に限った有利な取り扱いができる。もちろん、安易に自由貿易地域・経済統合が設定されればWTO体制の基本である無差別原則が骨抜きになるため、自由貿易地域・経済統合の設定には厳しい要件が課される。

自由貿易地域の設定についてもっとも重要な要件は、設定国問で「実質上すべての貿易」について関税を撤廃しなければいけないことである(経済統合についても同様の要件が課される)。「実質上すべて」とは、設定国問の貿易全体の90%以上かつ主要な貿易分野のすべてを網羅するものと一般的には理解されている。わが国が今まで結んできた2国間EPAもすべてこの条件を満たすと考えられており、その点ではTPPや、来年から交渉開始が期待されている日本と欧州連合(EU)のEPAも同じだ。

一方で、TPPは従来わが国が結んできたEPAとは違って「関税の原則全面撤廃」を通じた地域統合という高い目標を掲げた構想に環太平洋の有志諸国が集まっている。日本のTPP参加は、このような政策目標を日本も共有できるかどうかが問われる。

ただし、ここで若干の留保も必要だ。WTO協定上「実質上すべての貿易」に関する関税撤廃が要求されるのは10年先で、即時ではない。「実質上すべての貿易」について関税撤廃ができれば、その他の物品については10年以上先でも可とされる。何を即時撤廃し、また何について10年猶予するかは交渉事である。

2005年に発効した米・オーストラリアFTAでは、砂糖と乳製品は関税撤廃対象品目から除外され、牛肉については18年間の猶予期間が設けられた。米豪間では米国は農産品保護派なのだ。そして米国はTPP交渉においても米豪間ではこの枠組みを維持するよう申し出たと伝えられている。現実と建前が違うことをこのエピソードは物語る。「関税全面撤廃」の建前の下で日本政府がどのくらい現実的な解を引き出せるか。そのためには日本の早期の交渉入りは不可欠だ。

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従来の日本のEPA締結には大きな前提があった。それは国内的に予算を要する対策を打たなくても対応可能な自由化にとどめるというものだ。1995年に日本がWTOへ加盟する際、コメ市場の部分自由化で国内農業に「ウルグアイ・ラウンド対策費」6兆円がばらまかれたが、EPA締結ではこういうことはしないというのだ。従来のEPAは、この前提で自由化が可能な範囲にとどまり、それが不可能なオーストラリアとは交渉が行き詰まっている。

しかし、WTOの多角的貿易交渉が混迷の一途をたどり、世界の貿易自由化やルール設定がEPAによって担われるようになった今日、日本だけが現状にとどまることはできない。現状維持は、企業がグローバルに展開する生産流通ネットワークから日本が脱落することにつながる。そして日本企業の生産拠点の国外流出を加速し、投資適地としての日本の魅力を失わせることを意味する。

経済のグローバル化がここまで進んだ以上、グローバル生産拠点としての魅力を他国と競わなければ、アジア太平洋の経済成長を日本に取り込めず、日本は没落する。何の対策も打たずに結ぶ「EPA第1世代」から、農業の活性化策(ウルグアイ・ラウンド対策費には農業の活性化の要素はなかった)を打ってEPAを結び日本経済の再生を図る「EPA第2世代」への脱皮に向けて、TPPを格好の機会と捉えなければならない。

また、TPPには単なる経済的重要性を超えた政治的重要性があることにも思いを致すべきだろう。TPPには、米国、チリ、オーストラリア、ニュージーランド、ベトナム、シンガポール、マレーシアなどがすでに交渉に加わり、さらにタイなどのASEAN諸国が関心をもっているといわれる。わが国とも関係が深い、環太平洋の多くの重要国が交渉に加わっている。

アジア太平洋経済協力会議(APEC)は元来、日本とオーストラリアが主導して現在のような形に発展させ、環太平洋のまとまりをつくってきた。しかし、APECは非拘束性を前提にしており、そのまとまりは依然として弱いものにとどまっている。TPPはこれに法的拘束力を与え、環太平洋のまとまりを次のステップに導くものといえる。

11月に横浜で開いたAPEC首脳会議の宣言の中で、今回初めてTPPについて明示的に言及した意味は大きい。日本がTPPに入らなければ「環太平洋の新秩序づくり」から脱落することを意味する。それが将来の日本にとって良き選択であるわけはない。

TPP交渉において気をつけなければいけないのは、まさにこの点だ。現在までのところ、TPPというと自由化ばかりが喧伝される。しかし環太平洋の多国間EPAであるTPPには環太平洋の秩序づくり、ルール設定の役割が期待されている。

2国間EPAは「契約的」に両国間の自由化と経済協力を促進することにとどまるものが多いが、多国間EPAの場合は、参加国が多くなればなるほど、ルール設定が重要になる。WTOをリードする新たな知的財産権の取り決めや、WTOにはない競争法や環境問題、さらには労働問題の取り決めなどの国際ルールづくりがすぐに頭に浮かぶ。

ルール設定で主導権を握った国に有利なルールがつくられるのは自明である。残念ながら、従来、2国間EPAが主体だったわが国はルール設定に関する取り組みが弱い。TPP交渉に加わらないと、そもそも秩序づくりに参加できず、出来上がったルールを強制されるだけだ。TPP交渉の「情報収集」(本年11月9日の政府基本方針)だけでは意味がない。

さらに、交渉に参加しても最終的にTPPに参加するかどうかは別問題だということも押さえておく必要がある。「情報収集」だと正直にいう必要はなく、「交渉参加」まで進むべきだった。わが国政府は国際交渉の本質をもっと知っておくべきだ。その意味でも、農業対策の議論と並行して、交渉参加を早期に判断しなければならない。

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最後にASEAN+3(日中韓)、ASEAN+6(日中韓に加えてインド、ニュージーランド、オーストラリア)のEPA構想との関係に触れておこう。APECの首脳宣言には、これらの構想もTPPとともに書き込まれた。しかし、ASEAN+3も+6もまだまだ構想の段階であり、すでに交渉の始まっているTPPとはレベルが決定的に違う。まずTPP交渉に参加し、TPPを挺子にすることで、日本が推進してきたASEAN+6の実現を目指すべきである。

2010年12月2日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2010年12月16日掲載

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