IT@RIETI

no.43: コンテンツ産業に競争政策をきちんと位置づけよう

境 真良
経済産業省商務情報政策局文化情報関連産業課長補佐

コンテンツ産業政策における価格決定メカニズムへの態度

コンテンツと創作の産業政策という観点から見るとき、一番重要なことは、コンテンツの価値創造と消費とを経済的に結びつけることだ。それも、より効率的に結びつけるのを何よりも善とする立場をとらねばならない。創造者は消費者のために創造しなくてはならないし、消費者は創造者に対して報酬を与えなくてはならない。デジタルであれ、アナログであれ、この関係を真っ向から否定することは、少なくとも私には暴論に聞こえる。

著作権とは、何よりもこの結びつきを創造者と消費者の関係として規定したものに他ならない。だから消費行為の前に創造者に許諾を求めるという著作権の考え方自体は、それほど間違ってはいないだろうと思う。

議論のポイントは、量的に膨大になるBtoCの界面においてその報酬額=価格を決める方法はいかにあるべきかということだ。なぜ方法が問題になるのか?それは「妥当な価格」など外生的に決まるものではないという考え方に基づくからだ。市場経済において、「妥当な価格」とは、「妥当な過程で決定された価格」に他ならない。

レコードの輸入権と再販制の相関を考える

消費者利益の観点からの根強い反対意見を聞いてなお、私は、現在政府で議論されている「レコードの輸入権」について肯定的な考えを持っている。それは、コンテンツの情報財としての性質に着目するとき、経済的に豊かでない国においてもコンテンツと創作の産業システムを構築するには、各国市場毎に価格水準を決めるしかないと考えるからだ。世界単一市場における一物一価という理想を鵜呑みにして経済的先進国の価格水準で出荷するとしたら、そこは海賊版が山と溢れるだろう。その帳尻あわせを取締要求として当該国の政府に出したところで、実効性はあがるまい。

私は、日本において「レコードの輸入権」が大きな問題として議論された最大の理由は、それが自由貿易の原則に反する(経済産業省の官僚は多くこの立場をとる)からではなく、日本のレコードの価格が高いこと自体、いや、より詳しく言えば、それが「妥当な価格」でないという認識にあるのではないかと思っている。もしそうだとすれば、その背景にはやはり再販制度がある。それが日本のレコードの価格を「妥当な価格」ではないものにしてしまっている。

「レコードの輸入権」があぶり出すのは、コンテンツ産業においても価格決定メカニズムとして自由競争主義が妥当するという考え方が広く存在することである。そうであればなおのこと、再販制度自身が問題にされるべきだ。一連の議論の中には輸入盤は市場での価格調整メカニズムだという認識が示されることがあるが、再販制度によって価格の市場調整が効かないから、輸入品や中古盤といった非再販商品で調整するのだという意見は、私には江戸の敵を長崎で討つような話に聞こえる。

流通支配の正当性の前提はすでに崩れている

しかし、問題はレコードだけではなく、再販制度にとどまらない。流通部門の価格政策が強く効くことは、コンテンツ産業に一般的な傾向である。実はコンテンツ産業には流通部門に強い自然独占性がある。その結果として、消費者からは価格の押しつけという不満の声を呼ぶだけでなく、創造者からも生産部門への分配を独善的に決定しているという怨嗟の声を惹起する。特に後者は経済産業省がコンテンツ産業政策上の問題として強く認識してきたところである。

ここでいう流通部門には、書店や映画館という小売部門だけでなく、放送局や映画配給会社、レコード会社や出版社などをも含む。その多くは業界団体間の特別な関係を構築したり、特定の流通サービス会社を共用することで、慣習的に価格競争が起きにくい状態を生み出している。著作権法上、著作隣接権が付与され、あるコンテンツを流通させた流通事業者に対して、そのコンテンツがその他の流通に流れることを止める権利が法的に与えられている例も少なくない。

流通部門のこうしたあり方が問題にされず、いや、問題にされるどころか積極的に認められてきた理由は、コンテンツ流通が特殊インフラ事業者にしか認められなかった技術的社会的事情の下で、社会がその情報プッシュ力に期待せざるを得なかったという点にある。しかし、デジタル革命とインターネット革命というIT二重革命によって、その理論的前提はすでに崩れたように見える。

流通事業者の努力が正当に評価されるためにこそ競争環境が必要だ

理論的前提が崩れた以上、先験的な流通保護は見直されなければならない。ここで冒頭の「妥当な過程」を援用するなら、映像、音楽、静止画といったコンテンツ種別毎に、常に適当な代替的流通手段が存在しえなければならない。言い換えれば、常に同じ商品に対して複数の入手経路を需要者は保証されるべきで、どの入手経路が選ばれるのは消費者選択か創造者選択によってのみであるべきだ。かつて映画産業がテレビ産業に対して行った五社協定のような行為は厳しく戒められなくてはならない。例えばテレビ局が放送番組を購入する際に、ネット配信権を授権することを購入条件にするといったような過度な独占流通契約のあり方に対しては、独占禁止法が直接介入すべきであろう。

ただし、誤解を生むといけないので言い添えておくが、私は流通事業者の努力や貢献を否定するつもりはない。書店やレコード店にも売り方の巧拙があるが、とりわけ、放送局やレコード会社、出版社は、制作会社と共同制作のような関係にたつことがあり、単に流通部門と呼ぶこと自体を私は躊躇する。コンテンツは、流通段階で変質させられることも多く、この場合、この段階における単純な生産・流通モデルは妥当しない。

この点で、編集制作に対する配慮が現行の著作権法では十分ではないかもしれないという危惧を持っている。例えば、外注番組をまとめて放送するテレビ放送は、編集された全体を一つのコンテンツとして捉えて編集したテレビ局にその権利を認めるという方が、それぞれの番組に著作隣接権としての放送権を認めるよりも筋がよいと思う。もちろん、それぞれの番組の流通はそのテレビ局のコントロールするところではなく、別の放送局がそれを放送することを止めることはできないのだが。

こう考えると、十分競争的な環境を作ることによって、流通事業者も、その努力、価値創造の結果に応じてその利益を得るというモデルが作れそうである。そして、「レコード輸入権」の議論が示唆したところに従えば、これこそ流通事業者が社会的に妥当な経済活動をしていると見なされる条件であるように思う。

政府にはまだまだできることがある

こうした環境をネット社会は自然に生み出すだろうか?例えば米国で音楽はiTunesでも他の環境でも売られている。日本でも、ブロードバンド配信チャンネルは複数のチャネルを通じて販売されている。私はネット社会はもう少しうまくやるだろうと思っている。だからこそ、産業政策的視点から見て、このネット環境とオールドメディアを融合させることが重要なのだ。

そのために、政府はいろいろなことができる。テレビに関しては、情報家電の一部としてすでに進められているが、デジタルテレビの国際標準と整合性ある、IP流通網を使ったCATVがこの動きを促進する。音楽については、すでにアップルにやられてしまったから、もう手を出す必要はない?出版ならオープンなパブリッシュ・オン・デマンドシステムで、映画ならデジタルプロジェクタ上映の推進もこれと同様の効果を持つ。規制緩和の水になれた今の官僚には、独占禁止法でビジネスに介入するような無粋な手よりも、より環境を競争的にしていく新規事業の支援という間接的な手法の方がなじむかもしれない。

知的財産についても、ヴァーチャルネット法律娘真紀奈17歳さんも言及している通り、既存著作権法に上乗せ型で「コンテンツ流通促進法」を制定し、取締強化という政府の機能を利用開放とバーターするという考え方もある。忘れられがちなのだが、産業法の多くは産業界や部分社会と政府の間のある種の契約と捉えることもできる。将来に向けた契約交渉における切り札を政府はまだまだ持っている。政府には、まだまだできることがある。

だから、政府は、「権利」という言葉の呪縛にとらわれず、早く先に進むべきだ。コンテンツ産業政策の中ではメジャー流通の競争化など、序の口の自明事にすぎない。オープンソースやクリエイティブ・コモンズと繋がる協業的生産への対応、クリエィティブ・モジュールにも関係する非貨幣的インセンティブの産業メカニズムへの包摂など、もっともっと難しい問題がある。政府にはまだまだすべきことがあるのだから。

(IT@RIETIでは今後も定期的に、コンテンツ政策に係る話題を取り上げることにしています。ご期待ください。)

2004年2月4日

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2004年2月4日掲載

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