青木昌彦先生追悼コラム

青木さんのおかげ

山下 一仁
上席研究員

私は、農林水産省の役人時代、2003年から3年間上席研究員として経済産業研究所にお世話になった。

経済産業研究所に出向するには、不本意ないきさつがあった。きっかけは、経済産業研究所の所長だった青木さんから、農林水産省の幹部に、同省の職員を研究者として派遣してもらえないかという要請があったことだった。

この幹部は、青木さんの要請を農林水産省の人事担当に取り次いだ。これは、農林水産省にとって、渡りに船だった。当時私は、同省の国際部にいたが、国際部が作成した「コメしか重要ではない」という趣旨のWTO交渉対処方針に対して、コメ以外にも重要な品目はあるではないかと発言して、上司の怒りを買っていた。直接この上司を批判したのではなかったが、自分が了承した文書にケチをつけられたと感じたようだ。農林水産省は比較的自由にものが言える役所であり、これまでも直言はしてきたが、それを根に持たれるということはなかった。しかし、これまで省内の優秀な人たちと仕事をしてきた私にとって、この人物が異なる意見を許容できないほどのプライドの持ち主だったことは、想定もしていなかったことだった。

2000年に私は『WTOと農政改革』という本を書き、これはエコノミスト賞の次点になっていた。農林水産省は、経済産業研究所に出向させるだけの素地を持っていると判断した私を、躊躇なく"飛ばした"。青木さんからの要請を取り次いだ農林水産省の幹部は、「山下、行くのは止めろ」と助言してくれたが、人事に逆らって良いことはないと観念して、経済産業研究所にお世話になることとした。省内にあいさつ回りをした際、私に「なぜ出向させられるのか?」と質問をした先輩が、「確かに君しかあそこに行ける者はいないな」と自分で解答して、納得していた。

しかし、青木さんの経済産業研究所に来たとき、はたして他の研究者に伍してやっていけるのか不安となった。掲示板には、新聞や雑誌に掲載された所員の論文やインタビュー記事が所狭しと張りだされていた。95年頃ともに中国のWTO加入交渉を担当した経済産業省の津上氏も研究所に出向しており、売れっ子の中国専門家として活躍していた。青木さんの薫陶を受けたのだろう。「経済産業研究所は『霞が関の梁山泊』になるのだ」という高揚した発言を何人かの所員から聞いた。とんでもない所に来てしまったと思った。

できる限り自分の名前は出さないように努めてきた黒子としての役人人生とは全く逆で、自分をメディアに売り出さなければならないという対応を迫られることとなったのだ。他の所員と違って、メディアにつながりのない私は、啼かず飛ばずで終わるのだろうと思っていた。

ところが、出向して2カ月後、BBLでの私の発表を聞いていたエコノミスト誌の記者から、WTOドーハ・ラウンドのカンクン閣僚会議が失敗したいきさつを書いてもらえないかという依頼があった。簡単な事実関係だけの小論を書いて、念のため農林水産省の幹部に見せたところ、農林水産省の役人である私が物事を書くことは許されないという信じられない反応が返ってきた。あまりのバカバカしい対応にあきれた私は、以降農林水産省には一切相談しないで、執筆や発言を行うようになった。これが、私が自由に、多くの場合農林水産省の意見に真っ向から対立するような主張を行うようになったきっかけである。WTOドーハ・ラウンド交渉で日本は農産物に対する100%の上限関税の設定を受け入れるべきだと主張して、農林水産省の幹部から「頼むから大人しくしてくれ」と言われたこともあった。そうこうしているうちに、私が経済産業研究所のなかで最もメディアに露出度が高い研究者の1人となっていった。

研究者としては、青木さんから一冊の本を書くように言われた。青木さんから、細かい指示はなかった。出向した際、私の主張は説明してあったので、そのラインで執筆するように、任せていただいた。これが、『国民と消費者重視の農政改革』である。専門書であるが、かなりの人に読まれたようである。通産省の幹部だった人から、あれは名著だとお褒めの言葉をいただいた。また、最近も、ある大学教授から、院生のとき勉強させてもらいましたと言われた。

経済産業研究所では、農林水産省の先輩である速水佑次郎氏と同席する機会を得た。同氏は、農林水産省の行政担当者となろうとして入省したものの、農業総合研究所(「総研」と呼ばれた)に回され、当初は不本意ながら、研究者としての生活を送っているうちに、世界的に著名な開発経済学者となった人物である。途中から研究者となった私とは比較すべくもないが、研究者となった経緯については、いくばくかの因縁を感じた。

3年経ってから、呼び戻す人もいて、私は農林水産省に帰ることとなった。しかし、いったん自由にものが言えるようになった私にとって、農林水産省は居心地の良いところではなかった。ある会合では、同席した幹部から、「おれたちは評論家ではないからな」という揶揄するような発言も頂戴した。結局2年も経たずに、農林水産省を辞めた。

しかし、再就職先の部署で、農林水産省の後輩たちが行っている政策を異論も言えずに実施している同期の人たちと比べ、自由に発言することができる私は、なんと恵まれているのだろうと、ときどき感謝することがある。その研究者としての道を作ってくれた人は、皮肉にも、青木さんという世界的に著名な経済学者と、能力も度量もはるかに劣る農林水産省の上司だった。

速水佑次郎氏が農業総合研究所時代に、総研に行くこととなったいきさつなどを書いた「総研の子」と題するエッセイがある。私も、青木・経済産業研究所の子なのだろう。経済産業研究所時代から発信している農政改革についての私の主張が、次第に世間に取り上げられるようになってきた。21世紀農政にとっても、青木さんは恩人である。

青木さん、お世話になりました。

2015年7月23日掲載

2015年7月23日掲載

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