最低賃金、上昇の影響は?

鶴 光太郎
プログラムディレクター・ファカルティフェロー

2007年以降、ワーキングプア対策、生活保護との逆転解消のため、最低賃金引き上げが進んできた。特に民主党政権では全国平均時給1000円が目標になった。一方、先の衆議院選挙では、日本維新の会のように市場メカニズムを重視した最低賃金制度への改革を求める党も現れた。政権交代後の最低賃金政策のあり方を考えるために、近年の研究を紹介し、政策的含意を考えてみたい。

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最低賃金の影響について理論、実証両面において現時点で最も包括的な文献研究(サーベイ)は米カリフォルニア大学アーバイン校のディヴィッド・ニューマーク教授と米連邦準備理事会(FRB)のウィリアム・ワッシャー氏の08年の著作、「最低賃金」である。

最低賃金政策の是非で最も問題になるのは雇用への影響だ。一般に完全競争的労働市場では、賃金が上がれば雇用は減る。一方、企業が労働市場で価格支配力を持つ買い手市場では、賃金水準、雇用量とも競争市場より低く設定されており、賃金を上げてもコストの増加を上回る売り上げの伸びが期待できる余地があるため、企業は雇用を増やす可能性がある。賃金上昇による労働者の意欲向上や訓練機会増により生産性が向上し、雇用が減らないケースも理論的に考えられる。

ニューマーク教授らは、米国を中心とした膨大な実証研究を調べた上で、最低賃金は未熟練の雇用を減少させ、最低賃金の変化に直接影響を受ける人々に限ればそのマイナス効果はより明確だと指摘。雇用への正の効果を示す論文は両手で数えられる程度であり、数の面では負の影響を示す研究が圧倒的で、最も納得できる実証に限ればその傾向はより鮮明だと強調した。

このサーベイ以降も米国では新たな手法やデータを使って活発な研究が続けられている。米国では連邦レベル以外に州レベルでも最低賃金が設定されているが、州により異なる要因の影響を排除するため、より狭い地域である郡(county)を単位に分析した研究も出始めた。FRBエコノミスト、ジェフリー・トンプソン氏の09年の論文は、10代の雇用を対象に郡レベルの影響を分析した。全体でみれば影響は小さく明確ではないが、最低賃金の影響が強い郡では雇用への負の効果はかなり大きいことを指摘した。

一方、米マサチューセッツ州立大学のアランドラジット・デューブ助教、米ノースカロライナ大学のウイリアム・レスター助教、カリフォルニア大学バークレイ校のマイケル・ライシュ教授の10年の論文は、州の境界に隣接する郡を比較すると負の雇用効果はないことを示した。このように最低賃金の雇用への影響は依然論争が続いている。

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しかし、単に雇用への負の効果の有無のみを巡って論争を続けることは不毛であろう。なぜなら、完全競争を仮定したとしても最低賃金の上昇でさまざまなレベルで代替効果が起き、「勝者」と「敗者」が生まれるためである。

例えば最低賃金上昇は最もスキル(技能)の低い労働者への需要を減少させる代わり、よりスキルの高い労働者の賃金は相対的に割安になるため、需要は増加すると考えられる。最低賃金労働者の割合の高い企業(主に中小企業)・産業は相対的に不利になる一方、高スキル労働者をより多く雇い、低スキル労働者も最低賃金より高い賃金で雇っている大企業・産業は相対的に有利になり、雇用を増やす可能性もある。米ファストフード産業のように低所得者の間に顧客が多い場合、賃金上昇が購買力を高め、雇用を拡大するルートも考えられる。

第2に、雇用への影響以外に所得再分配、企業の収益や価格、長期的には人的資本への影響まで考える必要がある。雇用への影響がみられない場合でも、労働者の生産性が上がらない限り、労働者の労働時間が減少するか、企業の収益が悪化する。企業がコスト増を価格に転嫁できれば、消費者が負担することになる。つまり、負担を誰かが担うわけで、決して「フリーランチ」(タダ飯)ではない。

興味深いのは英国の例であろう。英国は最低賃金制度を1993年に廃止した後、99年に国レベルの制度を再導入した。雇用への影響も実証分析が積み重ねられてきたが、最低賃金の上昇が緩やかだったこともあり、「明確な影響はない」というのが研究者のほぼ共通認識となっている。

一方、英ウォーイック大学のミルコ・ドラカ講師、英ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジのステファン・マヒン教授、英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのジョン・ファンリーネン教授の2011年の論文は、英国で低賃金労働者を雇っている企業の収益率は他の企業に比べより減少していることを示した。英ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校のジョナサン・ワーズワース教授の09年の論文は、最低賃金労働による消費者サービス価格の上昇は一般消費者物価上昇よりも高いことを示しており、逆に企業の収益や価格への影響は明確となっている。

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日本では最低賃金の影響の実証分析はどの程度進んでいるのだろうか。大規模なデータを使い、最低賃金の影響を受けやすい労働者を対象にした国際水準の分析として一橋大学の川口大司准教授と日本学術振興会の森悠子特別研究員の09年の論文がある。彼らは02年までのデータを使い、最低賃金上昇は10代男性、既婚中年女性の雇用に負の影響を与えることを示した。

ただし、最低賃金の伸びが高まったのは07年からで、それ以降のデータを使った分析が望まれていた。筆者がリーダーを務める経済産業研究所のプロジェクトでは、川口・森両氏が10年までのデータを使い、10%の最低賃金の上昇は10代若年者の就業率(平均17%)を5ポイント程度低下させるという研究成果を報告している。最低賃金の影響を受けやすい層を絞り込んでいくと日本でも雇用への負の影響は明確であるといえよう。

日本の最低賃金政策への含意は何だろうか。第1に、最賃上昇の影響を受けやすい層への配慮である。欧州諸国のように、年齢階層に分けて異なる最低賃金を適用する(若年の最低賃金の水準をより低くする)ことも検討に値しよう。格差・貧困には給付付き税額控除などで対応する方が望ましい。日本では他の経済協力開発機構(OECD)諸国に比べ最賃の平均的な所得に対する比率が低いことを根拠に大幅な引き上げの必要性を訴える議論がある。ただ、購買力平価で評価した実質賃金でみると、OECD諸国の中では中程度であり(図参照)、慎重な議論が必要だ。

図:実質最低賃金
図:実質最低賃金

第2は、企業に対する影響への十分な認識である。上記のプロジェクトで経産研究所の森川正之副所長が最低賃金の企業収益への負の影響を報告している。第3は最低賃金政策も「エビデンス(根拠)に基づいた政策」への転換が求められていることだ。英国では新制度の導入とともに最低賃金政策の提案を行う低賃金委員会(キーワード参照)を発足させ、調査・分析機能を大幅に強化した。日本の中央最低賃金審議会(キーワード参照)でもこうした視点からの組織見直しが必要であろう。

キーワード

英国の低賃金委員会

公労使9人で構成される政府諮問機関。毎年の最低賃金額の改定において、改定額や制度改正の提案を行う。そのために、制度導入以降の雇用・所得などに対する影響の調査、分析、研究委託、低賃金業種の企業へのアンケート、ヒアリングなどを行う。独立委員3人のうち2人は労働経済学か労使関係専門の学者であり、独立的な調査・研究を担っている。

中央最低賃金審議会

厚生労働相の諮問機関であり、各地域の最低賃金の引き上げ幅に関する目安を示す。審議会は労働者側委員、使用者側委員、公益委員で構成されているが、通常は労使双方の意見が一致せず、中立的な立場の公益委員の意見が目安に反映される場合が多い。英国のかつての賃金審議会のように実質的に労使の交渉の場であり、公益委員は調整役の側面が強い。

2013年1月22日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2013年2月12日掲載

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