イノベーション 医療軸に

林 良造
RIETIコンサルティングフェロー

イノベーションを通じた経済成長を実現するのにカギを握っているのは、医療改革である。改革が実現されれば良い医療サービスが受けられるようになるだけでなく、医療産業発展の波及効果が経済全体に及ぶ。改革の議論は専門家に委ねず、経済財政諮問会議などの場を活用すべきだ。

最新技術使えず産業は立ち遅れ

少子高齢化を迎える中で、医療分野に対し、良い医療を求めたいとの国民のニーズが一段と高まっているだけでなく、日本のもつ高い潜在的能力を生かしながら経済成長のエンジンになることが期待されている。しかし現状は日本で十分高度な医療水準が実現されているとは言いがたく、産業も市場も競争的になっていない。それはなぜなのか、どのような改革が必要とされているのかについて考えてみたい。

この分野は、医師をはじめとする人材の面の優位性だけでなく、素材産業、半導体産業、電子産業など技術力の高い産業を擁し、日本が得意とする改良改善・すりあわせなどが適合する面も少なくない。そうしたポテンシャルを生かしながら、イノベーションをテコにした企業間競争を通じ先進的市場になる期待が持てる分野といえる。

しかし多くの領域で、最新の技術や機器、医薬の使用が可能になっていないのも事実である。たとえば、抗がん剤では、日本での承認や健康保険への適用が遅れた結果、患者が外国で治療を受けざるを得なかったケースが政治的な問題にもなったことは記憶に新しい。また、ペースメーカーでは一世代前の機種しか提供可能になっておらず、最新の薬剤溶出型機器などの承認も遅れている。

最先端の治療系機器開発でも出遅れ、米国の産業規模が約7兆円に達しているのに対し、日本は約2兆円にとどまり、企業を見渡しても20位前後に東芝やテルモなど4社がようやく顔を出す程度となっている。

医療機器に関して米国と比較すると、医療分野の抱えるさまざまな問題が見えてくる。まず開発の初期段階において、エンジニアと医者の共同作業が極めて少ない。臨床研究においても、医師が自らのイニシアチブで行うものに厳しく制限される結果、未承認の機器を使う場合における法的責任の所在があいまいになり、また、企業のイニシアチブが不可欠である先進的機器の改良や事業化が滞るケースも多い。

リスクと「代償」アンバランスに

さらに、治験に時間とコストがかかり、審査基準の透明性の欠如などもあり承認が遅い。保険制度の運用面でも、改良品も点数は同じに扱われるなど改良インセンティブを奪っている例もある。その上、リコールの範囲の不安定さ、民事・刑事の法的責任や社会的責任の不安定性などから、技術力を持つ企業は参入が慎重になっている。

一方、病院の経営管理は立ち遅れ、利益水準が低いため先進的な機器をタイミングよく導入できない。疾病別定額支払い方式の導入など是正への動きが見られるが、基本的には病床の利用が収益に直結するため、早く退院できる機器・手法を積極的に導入するインセンティブは弱く、開発にも悪影響を与えている。

クリアすべき最初の課題は承認制度であろう。日本の承認制度は、規制当局に対して大きな裁量権を付与する一方、その結果について刑事責任すら追求する制度として出発した。また、審査マニュアルの整備が遅れていることにも見られるように、今までの知見の体系化・外部との共有化が進んでおらず、さらに、承認に伴う便益とリスクを科学的・合理的に考量して決定していくという規制科学(Regulatory Science)の考え方も十分に定着していない。

このため、規制当局がリスクを回避するあまり承認が遅れてきた。結局、外国企業や患者グループから高まる圧力が承認につながる格好が続いてきたが、規制当局のスピードは遅く、刑事責任の取り扱いなど基本的問題の国民的合意が突き詰められていない結果、その限界も見えてきている。たとえば審査員の数、キャリアパスを含めたリクルート体制、専門性の評価などの面で中途半端な状態にとどまっており、また、審査員の判断を刑事訴追から免責にする制度などが採用されていない結果その効果は限られたものとなっている。

さらに、医療と医療機器の違いが医療機器の承認の遅れに拍車をかけている。医療機器の場合、材料が多様でサイクルが平均18カ月と短く、改良が重ねられるため、改良についての承認プロセスの合理化が極めて大きな意味を持つ。日本の制度は医薬を中心に設計されて、審査員数も薬剤が中心で、医療機器を判断できる審査員が絶対的に少ない上、改良の場合にも新たなものと同様の治験を要求するなど非合理的なコストがかかる。

保険制度運用面でも、利用可能となった医薬はできるだけ早く保険適用される仕組みでない上、改定時期も遅れがちで、市場による規律が働かない結果、価格はコストとの効用を勘案した合理的なものでない。従って、売買価格を割高に設定された医薬はシェアを拡大し利益を最大化しようと、非合理に見える商慣行のもと過大な販売コストをかけ、逆に価格が割安に設定されると市場への参画のインセンティブ自体を失わせている。突然の減額など非連続的な変更も多く、開発戦略を立てにくくなっている。

より根本的な問題は、リスクと経済的代償があまりにアンバランスになっていることだ。よく指摘される産科や小児科の医師不足だけでなく、開業医と勤務医の間で所得格差が拡大、勤務医の減少からその負担はいっそう増している。その上、医療過誤として刑事責任を追及される例が出て、そうした環境で働こうという医師がさらに減少、執務環境がいっそう劣悪になる「医療現場の崩壊」も進行しつつある。

医師をはじめとする各種の資格の間で「壁」があり、柔軟に対応できない分野が多いことも、医療人材の偏在に拍車をかけている。過剰な資格要件は、自動体外式除細動器のケースのように人命の救助をかえって難しくしたり、米国などと比べ病院の医師以外の人員が極めて少ない状況を作り出し、勤務医の勤務条件を必要以上に悪化させ、臨床研究をするには医師が忙しすぎるという結果につながっている。

情報公開テコに制度改革を急げ

イノベーションを通じた経済成長により少子高齢化や巨額な財政赤字を克服しようとする安倍内閣にとり、急速に拡大しつつあるこの医療分野で、技術の開発・事業化が世界に先駆けて進み、また世界の各国企業が投資をしたくなるような環境をつくれるかどうかは、きわめて重要である。

この分野では、生命を扱うという特殊性や情報の非対称性の大きさ、公費の投入などから、どの国においても参入・価格設定などで政府の影響力が強かった。現在、グローバル化と技術革新に対応し、医師、患者、企業とも最新の技術にアクセスできる環境を求めて、国境を越えることが現実になりつつあり、政府の関与のあり方も大きな変換期を迎えている。

すなわち、医療制度改革は、単に医療費総額や医師数、病床数を算術的に抑制するのではなく、各種資源の適材適所への配置がなされ、質の高い医療サービスの効率的な提供を実現するインセンティブを内蔵した制度へと変換していくことが求められている。たとえば混合診療の一層の活用などを通じて、患者の選択を軸に、価格機能を最大限に活用し、医療機関に適正なインセンティブを与える必要があろう。また、その効果に応じて機器や薬剤が評価されるようなシステムに近づけていくべきである。

医療過誤や薬剤・機器の欠陥などが極力回避される制度づくりは重要だが、それが過剰な警戒をもたらし、医療サービスや機器の提供が過少になれば、救われたはずの人も救われないことにもなる。特に不幸にも被害を受けた人に対して、社会が何らかの方法で補償することは当然だが、刑事責任の追及は十分慎重に行う必要があろう。

医療分野の問題は、これまで制度設計に携わってきた専門家の議論だけに委ねるのではなく、全体像について経済財政諮問会議で集中討議を行うなどより広い観点から検討されるべきである。米国などに比べ、政策決定に不可欠で、患者の選択のためにも必要な基礎的情報が不足している面もある。まず、より多くの情報が公開されるよう制度改革をいっそう加速することが焦眉の急であろう。

2007年3月9日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2007年3月19日掲載

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