農地改革の真相-忘れられた戦後経済復興の最大の功労者、和田博雄

山下 一仁 上席研究員

高校の歴史教科書は農地改革を占領軍GHQの指示によるものだとしている。また、今では多くの農業関係者さえそう信じている。しかし、財閥解体等他の改革と違い、日本政府から自主的な改革案が出されたのは農地改革のみであった。

和田博雄の登場

小作料が収穫物の半分を占める地主制のもとにある小作人の地位向上、自作農創設は戦前の農林官僚の悲願だった。それを実現したのが和田博雄(1903-1967)である。和田は戦後経済復興の政治舞台に彗星のように現れた。同じような運命を辿ったのは、後に和田の終生のライバルとなる池田勇人である。池田の場合は戦前大病を患い大蔵省から一時離れていたために、同僚の戦死やパージによって大蔵次官となった幸運児であった。

和田は池田のような傍流ではなかった。戦前の農政の大御所石黒忠篤自らが農林省を退官した後の農政を託した人物であった。しかし、戦前内閣調査局、企画院に出向したため、和田の人生は暗転する。デッチ挙げられた治安維持法違反である企画院事件の主謀者として、部下の勝間田精一(後の社会党委員長)、稲葉秀三(後に国民経済研究協会設立、サンケイ新聞社社長)らとともに3年間投獄され、その間生死の境をもさまよっている。

やっと釈放されたのが終戦の前年、無罪判決が下りたのが終戦の年の9月である。"満天の春星われに放たれぬ"とは釈放時に詠んだ句である。無罪判決を受けた者が翌月には中央官庁の局長となり、その7カ月後には大臣となり戦後最大の経済改革を実行し、さらにその一年後には空前絶後の権限を持ったスーパー経済官庁(経済安定本部)の長官になり戦後の経済復興を導くことになるとはだれが予想しただろうか。

第一次農地改革

無罪判決後、和田は保守政治家としては珍しい筋金入りの自作農主義者松村謙三農相の下農政局長となり、第一次農地改革に着手する。1945年10月幣原内閣の農林大臣となった松村謙三が就任直後の記者会見で「農地制度の基本は自作農をたくさん作ることだ」と発言したことが農地改革の発端である。GHQの指示はない。というよりこの時点でGHQは農地改革にあまり関心がなかった。農林省担当者による農地改革案の説明に対しGHQは"no objection"とのみ答えている。

農林省の対応は速かった。担当課である農政課の法律原案ができたのは松村の大臣就任のわずか4日後、国会への法案上程はその1カ月後、終戦からわずか4カ月後という異例のスピードであった。戦前からの農林省あげての周到な準備があったのである。当時の担当者によれば、その時々の政治情勢や大臣の意向に応じて何十通りもの案を農林省は持っていたという。その内容は

(1) 不在地主の所有地の全ておよび在村地主の5ha(大臣の案は1.5ha、農林省当局の説得により3ha、5回も行われた閣議での松本国務相の執拗な反対により5ha、このとき松村農相は涙したといわれる)の保有限度を超える農地を地主と小作人の直接交渉によって小作人に買い取らせる。地主が土地を解放する際地主と小作人との間で協議させ、まとまらない時は知事が'裁定'により農地の所有権を移す。

(2) 小作料の金納化(柳田國男以来の農林省の主張である(0135「柳田國男の農政改革構想から見る現代日本農業」参照))。

(3) 地主は小作人から自由に農地を取り上げていたが、今後は農地委員会の承認が必要。

というものであった。

裁定によって事実上強制的に地主から農地を譲渡させようとしたものである。議会は戦前に続きこれを葬り去ろうとするが、12月GHQによる農地改革に関する覚書が出たため、わずか13日で国会を通過した。これがGHQによる農地改革についての最初の意思表示であった。

しかし、この時点でもGHQは改革の必要性については認識したが具体的な案は持っていなかった。その後、地主の保有限度を5haとしたことは不徹底である、裁定では不十分であり国家が直接買収すべきであるという理由で、第一次農地改革はGHQから反対され、実施に移されることなく、第二次農地改革が実施されることとなるのである。

和田局長は第一次農地改革についての意義を(1)農業構造の民主化(2)農業生産力の増大と並んで(3)農業の経済力拡大、資本蓄積によって海外市場を失った工業に対する国内市場の拡大、経済の再建を挙げている。当時、農業従事者は全就業者の5割を占めていたため、日本経済復興のためには農業の復興が必要であった。和田は農林省の局長でありながら、日本経済全体のことを考えていたのである。

異例の人事―局長から次官を飛び越えて大臣へ

終戦直後の食糧危機に直面する中で組閣の大命を受けた吉田茂は、この内閣は食糧内閣であり農林大臣が一番重要だとして、戦前農林省の嘱託医として石黒と親交のあった親類の武見太郎(後に日本医師会会長)を通じ、追放中の石黒忠篤と相談したうえで、シュンペーターの高弟東畑精一東大教授に農相就任を懇請した。行政経験がないこと等から固辞する東畑に、吉田、武見、石黒、和田の4人は和田を次官にするからと何度も説得・要請を重ねたにもかかわらず、断られてしまう。

東畑が断った理由は、農林省内に置かれた食料対策審議会の委員長だった東畑には米の大不作により昭和21米穀年度に100万トンもの不足を生じることが解っていたからである。
終戦直後、東京の米倉庫には3日分の米しかなかった。「和田博雄氏にも会って相談したが、どうにもならない。和田君は場合によっては次官となって問題と一緒に取り組むことまで激励してくれて、それは嬉しかったが、厚意に報ゆべくもなかった」(東畑精一『第一次吉田内閣の食料問題』)しかし、このような事情を知らない学生は権力の地位を求めない教授であるとして東畑が東大の教室に入ると拍手をもって迎えたという。

吉田は農相に人を得ないとして組閣を投げ出そうとするが、仲人役の和田を局長から次官を飛び越して大臣にすることで踏みとどまった。和田は中山伊知郎を推薦し応じなかったが、幣原喜重郎、石黒忠篤、武見太郎が吉田茂の外相官邸で膝詰談判をした。和田は石黒に「また、おれを断頭台にのせるのか」と反論したが、かれらはとうとう和田を大臣にしてしまった。43歳の大臣誕生である。与党自由党は鳩山一郎前総裁、河野一郎幹事長以下第一次農地改革の担当者である和田農相に反対し吉田内閣も消えそうになったが、三木武吉の機転でようやく吉田内閣が実現した。

和田は、昭和20年産米が大凶作(農林省は587万トンと公表)となり1千万人が餓死するという流説が飛び交うなかで未曾有の食糧危機を凌ぐとともに、与党の強い反対にも屈せずマッカーサー等GHQの信頼を得て戦前からの農林省の悲願であった自作農創設、小作農の地位向上を内容とする第二次農政改革を遂行した。なお、第一次吉田内閣で和田と並ぶ看板大臣といわれたのが石橋湛山蔵相であった。

第二次農政改革

農地改革は252万戸の地主から全農地の35%、小作地の75%に相当する177万haを強制的に買収し、財産税物納農地と合わせて194万haの農地を420万戸の農家に売却したものであった。農地買収は正当な価格、十分な補償で行わなければならないとGHQは主張し、インフレによる物価スライド条項の導入にこだわった。しかし、和田農相は徹夜の交渉によりこれを撤回させた。戦後の悪性インフレによって貨幣価値がいちじるしく減価したにもかかわらず、農地改革が終了する1950年まで買収価格は据え置かれたのである。この結果、買収価格(水田760円、畑450円)はゴム長靴一足(842円)にも満たない、事実上の無償買収となった。このため、農地を買収された地主階級から農地買収の違憲訴訟が相次いだ。

GHQの農地改革担当者、ラデジンスキー博士は後日社会党の実力者となっていた和田と会談した際、和田に農地証券がインフレによりただ同然になることを予想していたのかと質問した。和田は言下にイエスといい、「もし、農地証券を物価にスライドさせていたなら、政府の重い財政負担によって今日のような日本経済の成長はなかった。あの時博士が譲歩してくれたのは日本経済のその後の発展への最大の貢献だった」と答えている。

他方、和田は農地改革の犠牲者である地主階層への配慮も忘れなかった。和田は「この改革の犠牲者たる地主、特に中小地主に接する態度は慎重でなければなりません。あくまで日本再建の犠牲者として遇し、仮にも彼らが過去の罪悪によって今日の悲運を招くという如き言辞を弄すべきではありません」と語っている。

かつての農政は既得権にただただ流されてきたわけではない。戦前の農政は地主勢力と治安維持法を盾に取る官憲に対する抵抗であった。農政の悲願であった農地改革の実現には、議会の反対がなお強い中でGHQの力を借りた。しかし、財閥解体等他の改革と違い、農地改革のみ、日本政府から自主的な改革案(第一次農地改革)が出されていたのである。後にアメリカは日本の成功を他のアジア諸国に適用しようとするが、台湾を除きすべて失敗している。農林省の改革への情熱、準備がなければ「非共産主義世界で行われた農地改革のなかで最も徹底したもの」(吉田茂)は定着しなかった。これは、和田のみならず、吉田、後にこれを検証したロナルド・ドーア経済産業研究所客員研究員(『日本の農地改革』)も次のように指摘するところである。

「農地改革の勲功をどう割り当てるとしても、相当の分け前は、日本の官僚のなかの用心深いがしかし進歩的な意見をもっていた人々にあたえられなければならない。(中略)…さらに、世論の支持なしに、また、数多くの農林省職員、農村の農地委員会の委員、職員を動かした改革の情熱ともいうべき精神なしには、この法律の運用がかくも徹底的ではありえなかった」

農林省職員労働組合は農林省玄関前に「農民解放ニ挺身セムトスル職員諸君ニ訴フ」という激文を貼っている。これは貴族院で「悪地主征伐のためにこれから義勇軍となって飛び出していけ、その有志を募るのであるというような意味にとられないことはない」として保守系の議員からクレームをつけられている。ミスター農地改革、和田農相の下農林省は一丸、火の玉となって農地改革に取り組んだ。農林省は燃えたのである。

マッカーサーは農地改革を重要視したが、マッカーサーのものとして実施することを好まなかった。あくまで日本政府、和田農相の発案として国会に関連法案を提出し、実行するよう求めた。和田はGHQの後ろ盾を要求するが、GHQは応じなかった。このため、和田は農地改革に反対する与党自由党との折衝に大変な苦労をすることになる。次のようなやりとりが残されている。

(GHQ)ミスター和田、この改革案は、あらゆる国で制定されたもののうちで最もリベラルなものの1つだ。
(和田)自由党は、おそらく最も強く攻撃するだろう。
(GHQ)自由党が法案に反対するだろうことは、この法案がリベラルであることの証明である。

経済安定本部

経済安定本部、通称'安本'はマッカーサーの指示によりできた経済政策全般にわたる企画立案、各省庁の総合調整、監査等各省庁に優越する強大な権限を持つスーパー官庁であった。和田は農林大臣時代、有沢広巳東大教授の経済安定本部長官への担ぎ出しこそ失敗したが、有沢を吉田首相に紹介し、傾斜生産方式構想を吉田に取り上げさせている。

第二次吉田内閣の組閣に際し有沢経済安定本部長官を断念した後、吉田首相は経済安定本部総裁審議室に(1)経済安定本部入り後直ちに強力な施策を実施できる人物(2)各省の事情に精通し、かつ各省の人材を抜擢して経済安定本部を強化しうる人物(3)三党首の推薦の得られる人物(4)有沢、東畑等学者グループの全面的支持を得られる人物を推薦するよう要請したところ、総裁審議室は一致して和田前農相を推挙した。

吉田首相は再三にわたり和田に経済安定本部長官就任を要請、和田も最終的にはこれを受け入れた。ところが、農地改革実施者である和田に与党自由党は激しく反対したため、和田経済安定本部長官実現を図ろうとする吉田首相は石黒忠篤に和田への自由党入りを勧めさせることによって事態を打開しようとした。しかし、このような吉田の行動に石黒は激怒し、直ちに「唯一敬愛の貴台より俗悪無比の連中の条件を和田に勧誘すべく尊書を拝するにおいては、最早万事おしまいに候。斯様にして成立候安本(経済安定本部)は何の価値かこれ有るべき」という激烈な返書を吉田に送り返すとともに、和田に「この度のこと、真に残念至極にて吉田氏の企てを新興日本が正しく発足する最も意義のある経綸として高く評価し、(中略)…あえて貴君に解き勧めたる老生としてはこの終末についてなんとも申し訳の言葉もこれなく、ただただ老生の至らざりしことをお詫びいたすほかこれなく候。惜しい男吉田茂奴、惜しいことに惜しいところで惜しいことをしおった」と書き送っている。

しかし、このような扱いを受けても吉田茂の石黒忠篤に対する友情は変わらなかったようである。あっさり石黒に断られてしまうが、1951年石黒の追放が解除され、翌年参議院議員に当選するなり、吉田は文部大臣または農林大臣となるよう要請している。吉田は回顧録で農民のための農林省を代表するのは石黒忠篤と和田博雄だと述べている。石黒も総選挙に際しては自由党総裁吉田の応援演説を高知で行った帰りに社会党の有力議員和田の応援演説のために岡山に立ち寄っている。ただし、このとき和田が「俗悪無比の連中の条件」を飲んで自由党に入党していたら、和田のその後の運命は変わっていたにちがいない。和田こそ、池田勇人、佐藤栄作の前に吉田がその非凡な能力に惚れ込んだ吉田学校の第一期生であったからである。永野重雄、片山哲、太田薫、勝間田精一、ライシャワー等和田総理の夢を見た人は少なくない。

和田安本と戦後の経済復興

吉田内閣の和田経済安定本部長官は幻に終わったが、和田は続く片山内閣の経済安定本部長官として傾斜生産方式の実現に尽力した。和田経済安定本部長官だったからこそ、政権党の違う吉田内閣の傾斜生産方式を継続したといえるだろう。和田はかねてより都留重人、大来佐武郎と交わしていた構想に基づき第一回の経済白書を刊行している。数多くの経済白書のなかでも最も評価の高い都留白書である。和田はまた最初の経済計画の作成を稲葉秀三に行わせている。多くの経済計画の中で所得倍増計画と並んで重要であると金森久雄氏が評価する幻の『経済復興計画』である。和田の下には、安本三羽ガラスといわれた都留重人、山本高行(後に通産次官)、稲葉秀三のほか(後に新日鉄誕生の立役者となる)永野重雄、(倉敷紡績の)大原総一郎、勝間田清一、大来佐武郎、平田敬一郎、大平正芳、橋本竜伍、下村治、佐々木義武、東畑四郎、坂田英一、後藤誉之助、大川一司らの人材が参集し、片山内閣は和田内閣とも安本内閣とも呼ばれるようになる。経済安定本部の絶頂期である。経済安定本部総裁審議室が各省の事情に精通しかつ各省の人材を抜擢して経済安定本部を強化しうる人物として和田を推したとおりになったのである。

戦後農政は経済復興を図るため、食料品価格を抑制しつつ食料を国民に公平かつ安定的に供給するという消費者行政からスタートした。農政は経済政策の一環であり、農業のみの論理を展開するのではなく経済全体の動きの中で政策は立案された。農政が農業の中にひきこもることはありえなかった。経済復興を図るためには労働費を抑制しなければならない、労働費を抑制するためにはその大宗を占める食料費すなわち農産物価格を抑制しなければならなかったのである。しかし、農産物価格を抑制してしまえば、食料生産が減少してしまい、食料増産ができなくなる。このディレンマを解消するような奇跡的な政策が農地改革と傾斜生産方式だった。小作人に農地の所有権を与えるとともに傾斜生産方式による化学肥料特に硫安の増産により、米価の抑制にもかかわらず、食料生産は増加した。米価の抑制、農地改革、傾斜生産方式、これら全てを実施したのが和田だったのである。

和田経済安定本部長官の功績はこれにとどまらない。「過度経済力集中排除法」は経済の民主化に名を借りて、日本の企業を細切れにしようとしたものであった。和田がGHQに対し「経済の民主化なら賛成する。しかし、日本経済の弱体化なら反対する。もし強行するなら経済安定本部長官を辞任する」と詰め寄った結果、「過度経済力集中排除法」は緩和された。しかし、経済安定本部の権限が予算編成権にまで及ぼうとしたため、大蔵省事務次官である池田勇人との抗争が生じ、これが結果的に社会党右派と左派の激しい対立を引き起こし、片山内閣は総辞職した。

片山内閣総辞職後、政権は社会党と連立を組んだ民主党の芦田内閣にたらいまわしされてしまう。その後芦田内閣は昭和電工事件により総辞職する。昭和電工事件とは、傾斜生産方式による化学肥料増産のための復活金融金庫による融資を化学肥料会社である昭和電工が不正に受けたものであった。芦田内閣の不祥事により片山内閣の評価も低下してしまった。片山内閣の評価の低さと後に社会党に入党し講和条約をめぐり左派のリーダーとなってしまったことから今日忘れられた存在となってしまったようであるが、和田がいなければ戦後の復興はどうだったであろうか。

和田による傾斜生産方式や経済復興計画なくして池田の所得倍増計画もなかったのではないだろうか。『経済計画』という行政手法は和田達のアイデアである(保守政治家である吉田茂はこれを嫌った。経済復興計画が芦田内閣の次の吉田内閣で承認されず、幻に終わったのはそのためである。稲葉らは経済計画であって計画経済ではないのにとつぶやいたという)。しかも、池田の所得倍増計画を立案したのは和田経済安定本部にいた下村治だった。和田は後に社会党の有力政治家になるが、経済安定本部長官以降行政に携わることはなかった。行政機関の長として活躍したのは農林大臣、経済安定本部長官在籍中のそれぞれ8カ月、あわせて1年4カ月にすぎない。そのわずかの期間に戦後日本の経済復興政策が実行されたのであった。

その後の農政

和田の農政における功績は農地改革を行っただけではない。地主制の打破に命をかけた石黒忠篤には農地改革後の農政の展望はなかった。しかし、石黒の愛弟子の和田はその後の展望を持っていた。和田は次のように述べている。「日本の農業問題は単に農地改革だけでは解決せず、今後は経営の合理化が直ちにプログラムにのぼると考えます」(農相時代)、「経営の問題は農地制度の改革を基礎としてその後の農政が解決すべき問題ですね。実はその仕事がその後の人に残っていたと思うんですよ。それが僕の時代にやれなかったということが非常に残念です」、「農業経営という立脚点に移し変えられた自作農はシュンペーターにいわしめるならば、企業家としての独立的、進歩的な面を十分持ちうると考える」(注)

労働組合に基盤を持たない和田は、社会党のプリンスであり、大きな政策集団のリーダーでありながら、社会党内の派閥抗争により消耗しつづけ、ついに委員長になれずに政界を引退する。引退を決意した際、醍醐寺で詠んだ句が"幻の花散りぬ一輪冬日の中"である。安本長官後は農政に対する発言もほとんどない。農林官僚としての自分はやることはやった、あとは後輩に委ねようとしたのだろう。和田の零細農業構造を改善するというその仕事を受け継いだのが和田の盟友東畑精一博士、和田の部下小倉武一博士による1961年農業基本法だった。

農業基本法は農業の規模拡大・生産性向上によるコスト・ダウンや需要の伸びが期待される農産物にシフトするという農業生産の選択的拡大によって農業構造を改革し、農工間の所得格差を是正することを目的とした。所得は売上額(価格×生産量)からコストを引いたものである。売上額を増やすかコストを下げれば所得は増える。米のように需要が伸びない作物でも、農業の規模を拡大していけば、コストの低下により、十分農業者の所得は確保できるはずであった。しかし、実際の農政は農家所得の向上のため米価を上げる道を選んだ。消費は減り、生産は増え、米は過剰となった。30年以上も生産調整を実施する一方で、農業資源は収益の高い米から他の作物に向かわず、食料自給率は1960年の79%から40%へ低下した。選択的拡大のためには消費の減少する米の価格は抑制し、消費の増加する麦等の価格を引き上げるべきであったが、逆の政策が採られた。自給率の低下は農業が食料消費の変化に対応できなくなった歴史を示している。600万haあった農地のうち農地改革で解放した面積を上回る230万haが消滅した。農地の転用規制、ゾーニングが厳格に運用されなかったうえ、米が余っているだけなのに農地も余っているという認識が定着したため、食料安全保障に不可欠な農地資源の減少に誰も危機感を持たなかった。今では国民がイモだけ食べてかろうじて生き長らえる程度の農地しか残っていない。(フェローに聞く「農業問題とは何か」参照)

農業を保護するかどうかが問題なのではない。あるべき農政のためにどのような政策を採るかが問題なのである。先日和田の蔵書の中に1910年に刊行された柳田國男の著書にはさまれた"農業経済の基本問題"という和田のメモ書きを見つけた。その中で和田は貧農救済のために米価を吊り上げるのではなく国債または税金により奨励金(今日でいうなら直接支払い)を交付すべきであると書いている。70年以上の時空を超えて若き日の和田があるべき農政を語りかけてきたように感じた。直接支払いによる農政改革は実現できるのだろうか。それとも冬の醍醐寺に咲いた"幻の花"に終わるのだろうか。

2004年7月20日
脚注
  • 1948年の農林省「農業政策の大綱」は「今において工業の回復と同時に農業が将来国際競争に堪えるため必要な生産力向上の基本条件を整備することを怠るならば、我が国農業の前途は救いがたい困難に陥るであろうし、またそのことの故に到底自立経済の達成は不可能である」と述べている。
参考文献
  • 大竹啓介(1981)『幻の花-和田博雄の生涯-上』、楽遊書房
  • 大竹啓介(1984)『石黒忠篤の農政思想』、農山漁村文化協会
  • 岸康彦(1996)『食と農の戦後史』、日本経済新聞社
  • 暉峻衆三編(2003)『日本の農業150年』、有斐閣
  • 東畑四郎・松浦龍雄(1980)『昭和農政談』、家の光協会
  • 中村広次(2002)『検証・戦後日本の農地政策』、全国農業会議所
  • 日本農業研究所編著(1969)『石黒忠篤伝』、岩波書店
  • 日本農業研究所編纂(1979,1980,1981)『農林水産省百年史』

2004年7月20日掲載

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