個人情報の過剰保護がもたらす不自由社会

池田 信夫
上席研究員

日本のインターネット業界で今年、もっとも話題を提供したのは、ブロードバンドでもIT不況でもなく、掲示板"2ちゃんねる"だろう。アスキーの役員を退任する際、中傷された西和彦氏(元アスキー社長)は、怒って"1ちゃんねる"という掲示板を作った。また、投稿の削除を求めて動物病院の起こした訴訟では、2ちゃんねる側が敗訴して罰金400万円の支払いを命じられた。私も2ちゃんねるでは有名人らしく、あちこちに悪口が書かれているが、あるとき投稿した人物を特定して問い詰めたら、白状した。彼はなんと住基ネット(住民基本台帳ネットワークシステム)反対運動の中心メンバーだった。そうか、「プライバシー保護」というのは、他人の悪口はいいたいが自分の身元が割れるのは困るということだったのか。

今後も拡大が予想される匿名の言論の被害

電子掲示板(BBS)自体は、新しいものではない。もともとパソコン通信はBBSから始まり、インターネットの初期の中心コンテンツもネットニュースと呼ばれる掲示板だった。ただパソコン通信は管理者がいるし、ネットニュースは原則として署名入りだ。2ちゃんねるのように管理者なしで1日数十万件も投稿が行われる掲示板というのは、おそらく世界最大だろう。しかしネットニュースと比べると、情報提供やまじめな討論が少なくて悪口のいいっぱなしが多く、全体の印象は陰湿で暗い。私の悪口を書いたエンジニアも、あるメーリングリストで私にやっつけられた憂さ晴らしをしたのだ。

2ちゃんねるは、こういうふうに職場や社会に不満を持ちながら、実名で批判する勇気のない小心者のストレス解消の場であり、自由な言論の場というより日本社会の「言論の不自由」のはけ口といったほうがよい。初期のネットニュースは、文字どおり科学者が学界のニュースを投稿する場だったが、90年代後半にパソコン通信と接続されて一般ユーザーが急増すると、情報の平均的な質が落ち、そのため価値のある情報を投稿する人が減り、さらに質が落ちる...という悪循環によって「逆淘汰」が起こり、今ではネットニュースはだれも読まなくなった。2ちゃんねるも、おそらく今年あたりがピークで、そのうちネットニュースのように忘れられるだろう。

しかし、こうした匿名の言論の被害は、これからもいろいろな形で広がると予想される。「言論には言論で対抗すればよい」というのは、互いが実名であればの話だ。西氏のケースのように、一方が匿名で安全地帯に身を置いて誹謗中傷をくり返すのに、実名で反論しても対等な論争にはならない。その気になれば、犯罪に使うことも容易だ。たとえば、2ちゃんねるで企業の悪口を大量に流して「やめてほしかったらカネをよこせ」と脅す総会屋的な商売もできるし、2ちゃんねる自体が「カネを出せば削除する」という条件でスポンサーを得ることも可能だ。

個人情報の過剰規制ではなく、その被害を救済する考え方への転換が必要

こういう問題が起こると、すぐそれを規制する法律を作りたがるのが日本の官庁の習性だが、これは情報技術の世界では有害無益な過剰規制になることが多い。次の国会に提出される予定の個人情報保護法案では、個人情報を第三者に提供するのに「本人の同意」が必要だとされているが、これを厳密に適用すると、インターネットの検索エンジンは閉鎖しなければならないだろう。住民基本台帳法でも「住民票コードが記録されたデータベースを構築してはならない」(第30条の43)という規定によって、企業が顧客を住民票コードで同定すると都道府県知事の行政処分を受けるが、これは表現の自由を定めた憲法に違反する疑いが強い。個人情報の過剰保護は、かえって個人を束縛する不自由な社会を作り出すのである。

私についての情報は、私のものではない。検索エンジンで私の名前を検索すると、2000件以上の情報が出てくるが、これを私がコントロールすることはできない。金融機関が信用情報を調べるのは当然だし、病歴を隠して保険に加入するのは保険金詐欺だ。民主主義の社会では、自分についての情報を偽る権利などというものは認められてはならないのである。まして、だれでも閲覧できる住民基本台帳に絶対的な「プライバシー保護」を要求する住基ネット反対運動は、表現の自由を理解できない日本社会の未成熟の象徴だ。

かといって「報道」の看板を振りかざせば、何をやってもいいというわけではない。個人情報保護法案に対して、多くのメディアは「ジャーナリストを適用除外にせよ」と主張しているが、官庁には100%のプライバシー保護を求めておきながら、自分たちがプライバシーを侵害するのは免罪しろという特権意識にはあきれる。マスメディアによる人権侵害の規模は、2ちゃんねるの比ではない。ジャーナリストを自称すれば説明責任がないということになると、報道被害を救済する道は絶たれてしまう。

問題は個人情報が漏れることではなく、それを悪用して差別されたり、誤ってブラックリストに載ったりすることなのである。したがって必要なのは、情報の流通を規制することではなく、被害を救済するとともに賠償責任を追及して、個人情報の悪用を防ぐことだ。これには特別な法律は必要なく、むしろ機動的でコストの低い紛争処理システムが不可欠だ。現在の日本の裁判では、コストも時間もかかりすぎるので、当事者間で和解を行う民間のADR(代替的紛争処理機関)を整備する必要がある。政府は個人情報の過剰規制をやめ、情報の流通は自由にして、その被害を防ぐという考え方に転換すべきである。

2002年9月10日

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2002年9月10日掲載