書評:大竹文雄著『日本の不平等-格差社会の幻想と未来』

格差問題の論争

格差は問題ではない派

大竹文雄著『日本の不平等-格差社会の幻想と未来』

(2005年、日本経済新聞社)

小池裕子

ポイント

  1. 1980年代半ば以降に観察されている所得格差の拡大の多くは、人口の高齢化や世帯構造の変化によってもたらされたもの。
  2. 所得格差を論ずる際は計測期間の違いに注意することが重要。たとえ一時点の所得格差が小さくても、敗者復活ができずに生涯の所得格差が大きくなるのであれば、その社会は本当に平等であるとはいえない。
  3. 生涯所得の代理変数である消費における格差は、一時点の所得格差以上に拡大する現象が40歳代以降でみられている。

内容要約

所得格差は拡大したのか

日本は平等社会から格差社会に移行したのだろうか。成果主義の普及や企業間の賃金格差の拡大、IT化の進展によるデジタルデバイドなどによって、多くの人は所得格差が拡大したと感じている。事実、アメリカやイギリスでは、グローバル化や技術革新などの要因により、1980年代以降、急激に賃金格差が拡大した。しかし、本書の分析によれば、これらの要因は日本の所得格差の動きをうまく説明できていない。にもかかわらず、1980年代半ば以降、統計上は日本でも経済全体の所得格差が拡大している。ということは、経済を構成するグループのシェアの変化が全体の格差拡大の主たる要因ではないか。

人口の高齢化と世帯構造の変化

年齢別にみて最も所得格差の大きな集団は、高齢者層である。高齢者の所得は、それまでの健康状態、若年期の人的資本形成の機会、会社との雇用関係、人的なつながり、運・不運といった個人ごとに異なる要素を強く反映するため、若年世代と比較すれば、高齢世代内の所得のバラつきは大きくなる。このような彼らの人口全体に占める比率の高まりが、経済全体の所得格差をもたらす大きな要因となっている。逆に言えば、かつて日本社会が平等に見えたのは、所得格差が比較的小さかった若年世代が多かったことによる。

また、人口の高齢化と並んで、世帯構造の変化も世帯間の格差を大きくしている。1980年代には4人世帯が標準世帯であったが、1990年代には2人世帯が最も多くなり、その次に単身世帯が続いている。個人レベルでは豊かになっていても世帯人数が減少しているために低所得世帯が増加したように見える場合がある。

つまり、1980年代以降の所得格差の拡大の多くは、人口の高齢化や世帯構造の変化といった見せかけによるものである。

一時点の所得格差なのか生涯所得格差なのか

所得格差を論ずる際は、計測期間の違いに注意することも重要である。たとえ現在時点の所得格差が小さくても生涯の所得格差が大きいのであれば、その社会は本当に平等な社会であるとはいえない。逆に、現在時点の所得格差が大きくても所得階層間の移動率が高い場合には、生涯の所得格差は小さくなる可能性がある。

Flinn教授によれば、一時点の賃金格差はアメリカの方がイタリアよりもはるかに大きいものの、生涯賃金の格差は両国でほぼ同じになるという。これは、転職が比較的容易なアメリカの労働者は、たとえ現在の賃金水準が低くとも転職によって将来よりよい条件の仕事に就ける可能性があるために生涯賃金で見た格差は縮小するからである。

このように転職コストの低い社会であれば、労働者は企業による解雇や大幅な賃金カットに直面した場合、一時は失業するかもしれないが、暫くすれば、またもとの賃金水準の仕事に容易に就くことができる。一方、解雇のリスクは小さくとも、賃金の高い仕事に就けるか否かが新規学卒時の最初の就職で決まってしまい、転職によってより有利な賃金の職に移ることが困難な社会もある。たとえば、日本の場合は、就職の機会は新卒時点にかなり限られているため、好景気の時に就職した世代は生涯賃金が他の世代に比べて高い傾向がある。ある「世代」が就職した時点での採用動向は賃金に対して永続的な影響を与えるため、好況時に就職した世代は、不況時に就職した世代よりも生涯賃金が高くなる

消費格差で測る生涯所得格差

人口高齢化が進展すると、現在時点の所得格差は必ずしも生活水準の格差を示さなくなる。多額の資産を保有した勤労所得のない高齢者とその他の人々を同列に論じることはできないからである。むしろ、生涯所得の格差を重視すべきであるが、その計測は難しい。よって、著者はライフサイクル仮説や恒常所得仮説をもとに、消費の分布を計測することで生涯所得の分布を代理させている。そこから得られた結果は、次の通りである。

(1) 同一世代内の消費格差は、40歳以降の年齢コーホートで急速に高まり、その後は年齢と共になだらかに上昇するが、近年では、新しい世代ほどライフサイクルの当初から消費格差が大きい。

(2) 1980年代を通して、経済全体の消費格差の上昇のうち約半分が人口高齢化によってもたらされている。

(1) からは、生涯所得の格差拡大の可能性が示唆されており、(2) からは、人口高齢化社会における社会保障政策は、世代内の分配問題も世代間の分配問題と同様に重要であることが示唆されている。

コメント

日本の所得格差は広がっているのか――本書を読むと、マスコミを賑わせているこの問いに答えることはそれほど簡単ではないことがよくわかる。なぜなら所得の定義や計測期間によって得られる結論が異なるからである。本書の特徴は、実証主義の精神の下で膨大なデータを丹念に分析し、そこから言えること、言えないことを弁別していく著者の真摯な姿勢にある。しかし、社会で格差感が高まる中、「『格差』の正体を見極めよう」という著者の冷静なメッセージは、時には「格差の現状を肯定するのか」という批判を浴び、都合のいい部分だけが切り取られて政治的に利用されそうにもなった。しかし、著者は決して格差の固定化を肯定しているわけでも御用学者なわけでもない。詳細については、ぜひ本書を手にとって読んでみてほしい。学生・社会人を問わず異なる立場、異なる世代、異なる価値観の人々にとっても、実証研究の面白さ、豊かさを感じさせてくれる優れた書籍である。このような良書に評者が敢えて注文をつけるとするならば、本書では、不平等という用語と格差という用語が交互に使用されているが、それぞれについての著者なりの定義と両者の位置づけをぜひ伺いたかった、という点であろうか。

なお、書店で本書のページをめくってみて少し難しいと感じた方々には「経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには」(中公新書、2005年)をお薦めしたい。エピローグに記されている著者の問い"機会の不平等や階層が固定的な社会を前提として所得の平等主義を進めるべきなのか、機会均等を目指して所得の不平等そのものをそれほど気にしない社会を目指すべきなのか(p.220)"は、今、社会全体で冷静に議論すべきことの核心をついている。