書評:蔵 研也著『リバタリアン宣言』

市場機能の論争

完全に市場に任せても良い派

蔵 研也著『リバタリアン宣言』

(2007年、朝日新書)

渡辺陽一

ポイント

  1. 国が行う政策は非効率的で、選択の自由を制限するものである。それゆえに、どんなことでも国が責任をもって行うべきだという「クニガキチント」の思考から脱却する必要がある。
  2. リバタリアンは、個々人の自由を認めるとともに、さまざまな価値が並存している状況を認める。
  3. EUのような地域連合などの枠組みが発展することで、国家は形骸化し、地球規模でのリバタリアン的世界を実現することができ。

内容要約

現代日本とリバタリアン

現代日本は、リバタリアン的社会へとシフトしつつある。著者は、先の小泉政権の理念であった「小さな政府」を目指す考え方こそ、リバタリアンの思想なのだという。「小さな政府」論は、国家よりも民間のほうがより効率的なサービスを実施することが出来るという考えや、国家の規制や再分配が経済活動と人々の自己実現を妨げているという見方に基づくのである。ハイエクの『隷従への道』で示されているように、過度な国家への依存は、物質的な自由の制約から、やがては精神的自由の束縛へ結びつくものであるという。そうであるから、日本人は国が何でもきちんと行うべきだという「クニガキチント」の呪縛から脱却する必要であるという。こうしたリバタリアンの思想は、今日の自由権を制限し、社会権をみとめるリベラリズムとは異なり、自由権のみを肯定する古典的リベラリズム に依拠している。リバタリアンの主張の背景には、今日の政府が肥大化しすぎ非効率であることへの批判や、政府が実施する政策の適切さに対する疑念がある。

リバタリアン的政策の検討

政府からの自由を唱えるリバタリアンは、現実の政策をどのように考えているのであろうか。たとえば、医療制度の場合、国家ではなく民間が医師の資格を認可すればよいという。民間機関が医者の認定・格付けを行い、人々はそれを参考に医療サービスを選択するのである。これにより、人々に選択してもらうために医療機関や医者個人は、医術を向上するインセンティブを持つようになるという。一方、格付け機関の信頼性はそれぞれが競争しあうことで担保されるとする。また、医療制度以外にも教育制度や公的年金などのこれまで国家が中心となって行うのが当然とされてきた政策においても、市場原理の導入によって、人々の選択の自由を取り入れていくべきだという。

リバタリアンの倫理と格差社会

こうしたリバタリアンの考え方は、ある特定の価値観や思想を押し付けようとするものではない。むしろ、さまざまな価値が政府に押し付けられることなく並存すること、を望むのだという。それゆえに、再分配を肯定するという価値観の押し付けに他ならない政府による強制的な資源配分を否定するのである。そして、再分配政策として政府が行っている社会保障サービス・福祉事業は、人々の慈善活動にゆだねられるべきだという。一方で、こうしたリバタリア的な考えでは、人々の間の所得格差を広げるものになる、という批判もあろう。こうした批判に対しては、筆者は次のように反論する。日本のような成熟化した社会においては、年収300万円程度で一応の文化的生活を送ることが可能であり、どのような生き方をするのかは人々の自由である。むしろ、所得の平等化といった単線的思考に固執すべきではないという。その上で格差の問題に対しては、国家による強制的な再分配ではなく、既得権益の打破といった自由競争のリバタリアン的社会を実現することこそが有効な対策であると主張する。

リバタリアン社会の実現にむけて

産業革命以前は、自らの集団や部族、子孫の繁栄のために領域を守ることが重要な意味をもっていた。そのことは、排他的な民族主義を生み出し、領域国家間の戦争を引き起こしたのであった。一方、産業革命によって領域を守ることよりも、知識の集積が重要な意味を持つようになってきたという。それゆえ、国産スタンダートのような民族主義を前提とした排他主義的は有用ではないとする。さらに、人工授精や遺伝子操作技術による多様な人類の可能性やPT の問題を考えるならば、ホッブズやロックのいう社会契約説にまでさかのぼり、国家と個人の契約関係を再考する必要性があるという。

こうした状況において、リバタリアンな社会はどのように実現されるのであろうか。第1には何でも国が行う「大きな政府」(福祉国家)から、国防、警察、裁判など治安維持の役割のみを政府が担う夜警国家を目指すべきだとする。そのうえで、 EUのような協定が世界中に普及することで、個人は協定で結ばれた領域内で、国籍という社会契約を自由に変えることが出来るようになるという。さらに領域ごとの人々が混じりあい領域内の各国が国境を共有することによって、絶対的・強制的な権力を排除した筆者の考えるリバタリアン社会が実現されるのである。

コメント

本書は、リバタリアンの思想と目指している社会像を明らかにしたものである。筆者は、政府への依存構造をあらため、自由を拡大するために市場を重視していくべきである、という姿勢を強く打ち出している。単なる思想の紹介にとどまるのではなく、教育、医療政策等について具体的な政策が提示されている点や、リバタリアンな世界に行き着くための包括的アプローチを検討している点は、興味深い。

一方で、新書という限られたスペースによる制約からか、十分な説明がなされていない点も見受けられる。とりわけ、取引費用や情報の非対称性という問題をも市場によって解決可能である、という主張は、疑問を感じざるを得なかった。筆者は、政府の行う規制を撤廃することは、競争によって効率性を高めるとともに、社会のさまざまな領域における個人の選択の自由を拡大するという。しかし、選択の自由の拡大は、自ら情報収集をし、判断し、選択をしなくてはならいない領域の拡大でもある。このことは、取引費用という点からみるならば、減少ではなく増大を意味するのではないだろうか。また、売り手と買い手の間にある情報の非対称性という問題も依然として存在するように思う。

これらの問題は、筆者の言うように格付け機関が信頼性を担保することで、ある程度は是正することが可能であろう。しかしながら、商品、サービスの信頼性を担保する格付け機関そのものがどの程度信頼できるのか、という新たな問題も発生することになる。これを解消するためには、格付け機関を格付けするための別の格付け機関が必要になってしまう。だが、その格付け機関の信頼性も問題になるために、格付けに対する格付けというスパイラル情況に陥る可能性をはらんでいる。

自由と社会全体の関係を考えた場合には、リバタリアンの社会はより難しいものとなる。たとえば、社会秩序と自由が対立する場合には、どのような解決が図られるのであろうか。必ずしも個人の自由を最大限に尊重することと、社会秩序とが一致するわけではない。そうした場合に、どの程度までの自由が社会秩序との関係において認められるのか、という規範的問題が生じることになる。秩序維持の機能においては、筆者が指摘するように、民間の警備会社という市場サービスによって、政府の役割は代替が可能である。しかし、その提となる規範的問題については市場メカニズムによっては解決しえない。そこで、市場ではなく政治にその規範的問題の決定をゆだねたとする。しかし、民主主義に基づく政治的な決定が、リバタリアニズムの思想に基づいて決定されるという保証はないのである。つまり、リバタリアン的な自由よりも社会秩序が優先される決定が下されるかもしれないのである。このことは、個人の自由を最大限に尊重するというリバタリアンの主張と民主主義の政治決定をどのように考えるのか、調和させるのかという別の問題を発生させる。

個人の自由と社会の利益が齟齬をきたす場合に、それをどのように解決するのか、という点においてリバタリアニズムは、ジレンマを抱えているように思われる。そして、こうした問題の解決策が見出されなければ、リバタリアンの社会を実現することは困難であろう。