書評:八代尚宏編著『市場重視の教育改革』

市場機能の論争

完全に市場に任せても良い派

八代尚宏編著『市場重視の教育改革』

(1999年、日本経済新聞社)

小池裕子

ポイント

  1. 教育サービス市場において、供給側の論理による「歪んだ競争」をもたらしている制度・慣行を改善し、需要者・供給者間の多様な選択を生かした「健全な競争」の状態を回復することが必要である。
  2. 教育サービスの質を判断する能力を持ち、費用を自ら負担し、市場価値の向上を求めて高等教育機関に通う「社会人学生」の増加は、消費者主権の向上につながり、教育サービス市場の効率化に貢献する。
  3. 出身家庭の所得の多寡に左右されず、誰もが高等教育を受ける機会を有する社会を実現するためには、親ではなく学生本人が融資を受けて進学できる教育ローン制度の充実や、学校単位の機関補助ではなく個人単位の教育費補助を中心とした公的な財政支援が重要となる。

内容要約

経済学の立場から見た教育改革とは

戦後、国民の間に幅広く普及した学校教育は、企業内教育の充実と相まって、良質の豊かな労働力を供給し、日本の経済発展に寄与してきた。しかし、低年齢化する受験競争や形骸化する大学教育など日本の教育のあり方についての批判は根強い。また、国民の間で教育が大きな社会問題であるとの認識はあっても、何がそうした問題を引き起こす基本的な要因であるかについてのコンセンサスは存在しない。そのため、現行の教育制度をどのように改革するかについての方向も定まらないというのが現状である。

教育の専門家の間では、有名大学を目指した受験体制が他人を押しのける過剰な競争意識を育てていることが教育問題の根本的な要因であるという見方がある。この立場によれば、過剰な競争を防ぐために政府によるいっそうの介入を求める考え方を支持することとなる。

しかし、個人や家族がその生活向上のために努力し、競争することは、市場経済では当然のことである。よって、経済学者の間では、(需要者間の)競争自体が悪いのではなく(供給者間の)競争が規制によって歪められた形で行われていることが問題とされる。その弊害として、教育サービスの内容が画一的になる、社会のニーズに対応した新たな教育サービスが市場競争を通じて生み出される可能性が乏しくなる、等があげられる。この立場によれば、教育サービスの市場で「歪んだ競争」をもたらしている制度・慣行を改善し、需要者と供給者間の多様な選択を生かすべく市場における「健全な競争」の状態を回復することが真の教育改革となる。

教育サービスにおける消費者主権の向上

日本の教育問題への対応は、まず教育も「市場サービス」の1つであるという認識から始めなければならない。もちろん、医療・福祉と同様に奉仕の精神が教育者にとって重要な資格である。しかし、教育サービスがたとえ善意によるものであっても「供給側の論理」だけに支配されると、消費者による選択の自由が欠如し、生産者間の健全な競争メカニズムが機能不全に陥るため、消費者が満足するような教育サービスの効率的な供給は望めない。では、市場メカニズムが働くための基本である消費者主権が制約されているのはなぜだろうか。それには以下の理由が考えられる。

(1) 供給側である学校の持つ情報量が需要側の学生の持つ情報量より圧倒的に多いという情報の非対称性の問題が、学生による選択余地を乏しくしているため。

(2) 国公立大学はもとより私立大学にも教育の機会均等の観点から多額の公的資金が投入されていることから、教育サービス供給者の行動に対して公的な介入が必要とされているため。

しかしながら、日本の教育をめぐる環境は現在、大きく変化しつつある。いまや大学は、少子化を背景に生存競争に晒されており、消費者である学生のニーズへの対応と「効率的な経営」が大きな課題となっている。他方、社会人による高等教育サービスに対する需要も高まっている。教育サービスの質を判断する能力を持ち、費用を自ら負担し、市場価値の向上を求めて高等教育機関に通う「社会人学生」の増加は、消費者主権の向上につながり、教育サービス市場の効率化に貢献する。このように教育サービスは、従来の政府主導の供給の状況から、消費者が十分な情報と選択肢をもちつつ行動するという「普通のサービス」の状況へと近づいている。それならば、過去の規制を緩和・撤廃し、供給者間の競争を強めることが、教育改革の基本的な方向の1つとなろう。

予想される変化

教育には将来の金銭的な収益を生み出す投資としての側面と、親が自分の効用を高めるために子供という媒介を通じて間接的に行う消費としての側面がある。特に教育費は親が負担するものという考えの強い日本では後者の意味合いが強い。しかし、高等教育の性格は、経済社会の変化の中で徐々にではあるが、次のような形で変化していくと予想される。

(1) 雇用の流動化を背景に、従来、企業が担当してきた職業訓練や技能形成の仕組みは次第に維持されなくなり、個々人が企業以外のところで能力を身につける必要性が高まる。このことから教育産業に対しても専門的・実際的な知識や技能を教育するサービスが求められるようになり、教育は今より投資としての色彩を強めることになる。

(2) こうした変化の中で、教育費を負担する主体が親から本人に移行するため、高等教育を受ける本人を融資対象とする教育ローン制度の充実が必要となってくる。

教育への公的関与のあり方

これらの流れを受けて、教育をめぐる望ましい政策のあり方も次第に以下のように変わっていくだろう。

例えば、大学経営についての情報公開・評価体制の整備や学校間の単位互換・転入制度の促進によって学校と学生の間の情報の非対称性の問題を緩和することで、政府関与の度合いを低下させることが考えられる。これによって、個々の大学は自主性を生かした経営が可能になり、需要者(学生)の選択肢も広がる。一方、供給者間の競争が激しくなれば、大学の経営破綻も生じるが、その際には学生の不利益が生じないような措置をあらかじめ用意しておくことが望ましい。

また、従来は規制と一体となってきた公的な財政支援のあり方についても、学校単位の機関補助から、個々の学生に対して能力・所得状況に応じて直接支援する個人補助に移行することなどが考えられる。大学教育への需要は、教育投資収益に影響する個人の能力と費用を決める親の財力とで決まるが、現在の機関補助方式は、援助を必要としない高所得者層にも広く及ぶため、所得再分配の手段としては非効率的である。むしろ、現行の奨学金のように個人の学業成績(メリトクラシー)と親の学費負担能力(プルトクラシー)の複数の選考基準による個人補助の方がより効果的であり、アメリカのように学費は補助金を含まない水準に設定し、代わりに学生個人に家族の所得水準に応じて奨学金を大幅に拡大することも考えられる。さらに、教育ローンの元本の政府保証や金利分のみの融資方式との組み合わせもある。ローンの場合には、学費だけでなく生活費の一部も含めれば、親の所得水準が低くて進学できなかった人でも一定期間の就業後に大学に進学することが可能となる。

コメント

高等教育を受ける機会は、かねてより、出身家庭の所得状況、兄弟の数、出生順位や性別など、純粋なメリトクラシー(本人の学業成績など)以外の要因によって規定される側面が強いと指摘されてきた。では、これらの状況を改善し、高等教育の機会均等を実現するためには、どうすればよいのだろうか。本書の内容は、この問題について考える上で多くの手がかりを示してくれる。とりわけ、本書で紹介されているアメリカ型のシステム(学生本人が融資を受けて進学できる教育ローン制度の充実や、学校単位の機関補助ではなく個人単位の教育費補助を中心とした公的な財政支援のあり方)は、出身家庭の状況等によって本人の高等教育機会が左右されることのない社会を築くために参考となる。また、従来の教育改革を扱った本にはやや主観的な論調のものが多く見受けられるだけに、豊富な客観的データに基づいて経済学の視点から教育改革について論じている本書は、極めて貴重な存在といえよう。

一方、本書には、市場メカニズム、とりわけ消費者の合理性をやや礼賛しすぎているきらいもある。高等教育には、学生の労働市場における価値の向上には直結しなくても(学生側の需要は低くても)、文化・科学の発展のために必要な分野もある。その意味で、学生獲得のための競争にはなじまないが長期的には社会にとって重要と思われる分野が淘汰されることのないよう、政府が市場をうまく補完していくことが、本書の提唱する「市場重視の教育改革」を成功に導く鍵となるのではないだろうか。