RIETI政策対談

第7回「真の教育、研究水準の向上につながる大学改革とは」

RIETI政策対談では、政策担当者とRIETIフェローが、日本が取り組むべき重要政策についての現状の検証や今後の課題に対し、深く掘り下げた議論を展開していきます。

国立大学が法人化されてから4年が経過し、日本の大学改革議論が盛んに行われている。RIETIでも政策シンポジウム「経済社会の将来展望を踏まえた大学のあり方」を2008年5月30日に開催し、国立大学のガバナンスの問題点や予算配分の考え方、また、国際競争時代に求められる今後の大学像について、さまざまな議論が行われた。第7回政策対談では、シンポジウムにも参加していただいた、藤城 眞 (財務省 主税局 税制第三課長/前財務省主計局主計官 (文部科学担当))と玉井克哉 (ファカルティフェロー/東京大学先端科学技術研究センター教授)の両氏に、シンポジウムでの議論を踏まえ、どういった大学改革が我が国の高等教育および研究水準の向上につながるのかについて、さらに議論を深めていただいた。

(このインタビューは2008年6月30日に行ったものです)

対談のポイント

  1. 高等教育予算について
    • 日本の財政状況が厳しい中では、予算を大幅に増やすということは容易ではない。高等教育予算についても、研究の評価等を踏まえるとともに、社会の流れや時代の要請にマッチしなくなってきた分野から、ニーズが増加している分野に資金を移していくといった、効率的・効果的な資源配分を考えることが必要。
    • ヨーロッパ並に高等教育に公費を投ずるべきという論者は、OECDで最低水準にある我が国の国民負担(租税+社会保障負担)を引き上げるべきか、大学教育の受益者負担のあり方をどうするか(税を通じて、受益者でない人にも負担を求めるべきか)などについて、よく議論しなければならないのではないか。
  2. 大学の機能別分化について
    • 教育・研究水準のためには、内外の競争的環境をもっと確保し、国民的議論を行い、厳格な評価を行うという前提で、各々の大学が自ら目指すコンセプトを明確化し、中期目標を具体化する必要がある。研究と教育をある程度二分化していく必要がある。
  3. 評価について
    • 研究力も弱く、教育目標も明確でないところに漠然とお金を配分することは困難である。国費を投入する以上、こういう理由があるという説明責任が必要。研究や教育の重要性を評価し、適切な優先順位を設け全体の配分を考えていくべき。
    • 評価に基づいて資源配分するとなると、辻褄をあわせるのがうまいところが高い評価を得るという危険性がある。この点では、複数の専門家による分野別の評価が必要である。
  4. 大学のガバナンスについて
    • 教授たちの選挙で学長が決まり、その人が経営のトップになるという仕組みでは、トップが従業員を気にするといったバイアスがかかるおそれのある組織になる。理事長と学長を分離するという選択もある。

運営費交付金について

玉井克哉ファカルティフェロー玉井克哉 (ファカルティフェロー/東京大学先端科学技術研究センター教授):
まず、運営費交付金は、国立大学に合わせて1兆2000億ぐらい投入されていますが、大学の現場にいると、もっと資金がほしいという声が強いわけです。一見足りていそうなところでも、これ以上必要ないとはなかなか言わないという習性があります。もちろん、実際に資金に困っているところもあります。そのような立場から見れば、財政当局は、めったやたらに財布の紐を締めることばかり考えている、けしからんという声も強いわけです。そこで、そのあたりを踏まえて、まずは、全体の大枠、概略的なことから現在の財政情勢についてお伺いしたいと思います。

藤城眞財務省主税局税制第三課長藤城 眞 (財務省 主税局 税制第三課長/前財務省主計局主計官 (文部科学担当)):
財務省は、とかく予算を切ることを主眼にしていると思われていますが、金を切っても施策が駄目になってしまっては意味がありません。教育をよくすることは、誰が見ても疑いのない目標です。ただし、教育に投じられる資金が、適切に、効率的・効果的に使われているのか、このことを問うことが大切です。

玉井:
はい。

藤城:
日本の財政状況が非常に厳しいことは言うまでもありません。今、教育に限らず、さまざまな分野で、予算を増やしてほしいという声があるわけです。教育に関して時々感じるのですが、よい施策であればお金がついてくるのが当然だといった感じで話される方もいます。しかし、予算制約のなかで、いくらよい施策であっても、申し訳ないが今はできないというものもあります。そもそも提案自体が適切かどうか、その吟味から始めなければならないものもいろいろとあります。こうしたなかで、一体、どういう予算を認め、どういう予算を減らして、他の予算にその資源を回すのかという議論も必要なのです。

玉井:
国立大学の運営費交付金のみならず、科学技術予算全体、あるいは高等教育予算全体について、増やしてほしいという声が強いわけで、そこには当然のところもあります。

具体例でいえば、かつてビジネススクールは日本には少なかったわけですが、これからは必要ではないか、金融工学というものを大学で研究する必要があるのではないか、といったことです。世の中が変化し、新しい分野が出てくると、新しい教育も研究も行わなければならないということです。

藤城:
いまの日本には、おそらく社会や企業のニーズに応じるという意味で、いろいろ不足している人材があると思います。

玉井:
はい。

藤城:
シンポジウムでも話しましたが、たとえば、プロジェクトの進行管理をするマネジャーや、ベンチャーキャピタルで投資先を見極めるベンチャーキャピタリスト、あるいは、iPS細胞をはじめ科学技術の分野でも知的財産権のロイヤーがアメリカに比べて明らかに少ないということがあります。そういう専門家をもっと輩出しなければなりません。さらに、本当の意味で経営ができる人材を、もっと大学や大学院で、しっかり教育することが大事です。そういう教育機関が、まだまだ日本には少ないので、そのために資源を投じていくのは、ある意味当然な話です。

しかし、一方で、社会の流れや時代の要請に必ずしもマッチしなくなってきた分野もあるはずです。そうした分野を減らし、新たな分野に資金を移すというように、資源配分も考えなければなりません。つまり、スクラップアンドビルドです。自ら望んでスクラップを求める要求はなかなかこないものです。そこで、嫌なことでしょうが、「ここは重要性が落ちていませんか」、「優先順位をつけてください」ということをお願いすることになります。ところが、大学の世界というのは、非常に優先順位付けに慣れていない組織のようにも思えます。それぞれの学問が、お互いを尊重することで、おそらく学問の自治や自由が認められてきたからかもしれません。しかし財政の論理からすれば、相対的に重要度の低い分野と高い分野、あるいは研究力の高い部署と低い部署、そういうものをみて、資源を回していくことをやっていかなければならないと思います。

玉井:
今後、総枠を大きく増やすことは、難しいということですね。

藤城:
総枠を増やすことについては、一部の先生方から、とにかく教育予算をGDPの5%まで拡大してほしいという類の主張が出ていました。しかし、重々申し上げていますが、児童生徒1人当たりで見ると、日本は他の主要先進国と較べて遜色ない規模の教育予算をかけているのです。日本のマクロの教育予算のGDP比が3.5%で低いといわれますが、それは少子化のなかで、総人口に占める子供の割合が他の諸国よりも少ないからです。実際、わが国の子供の割合は、OECDの平均値の0.7倍です。このため、マクロのGDP比も、5%の0.7倍である3.5%になっているというのが事実なのです。

1人当たり教育予算は、どこの国もドングリの背比べでそれほど違いがないのですが、そうしたなかで、仮に日本の教育予算のGDP比を3.5%から5%に引き上げると、1人当たりの教育予算は他の国々の1.4倍になります。しかし、日本だけが他の国々の1.4倍まで突出しなければならない理由は何なのでしょう? このことを論理的に説明してくれた人は、1人もいません。また、教育予算は、8割が人件費です。子供が大きく減り続ける中で、教育組織を4割増しにするのでしょうか。そもそも「予算を増やして何に使うのですか?」と聞いても、具体的な増額内容も、積算もはっきりしないのが実態です。

結局、予算を増やしたいという思いや、教育は重要だといった精神論ばかりが前面に出てきますが、これで増額を認めていたら、日本の財政は爆発してしまいます。結局、この議論で欠けているのは、予算を増やすには財源が必要になるというシンプルな事実です。よく気楽に、「よそから予算を持ってくればいい」と言われますが、そうであれば、「何を削るのか」、「歳出のなかの優先順位をどう考えるのか」という議論になります。「道路を削ればいい」と言う方がいますが、それであれば、国民的な理解を得ることが必要です。ただ、そもそも教育予算のGDP比を5%にするには、7兆円!を超えるお金が必要です。でも、7兆円の予算を捻出するには、公共事業をゼロにしても足りません。

玉井:
なるほど。
7兆円増やすためには、公共事業費をほぼ全額カットしなければならないということですね。

藤城:
そのようなことは現実的にはあり得ない話です。しかも教育よりも道路のほうが大事だと思う国民も中にはいるでしょう。それでは増税で賄おうとなると、7兆円というのは消費税の3%に相当する金額です。国民はイエスと言ってくれるでしょうか?

大事なことは、教育には、すでに国・地方を通じて19兆円ものお金が投入されているということです。その19兆円が有効に使われているのかといえば、私はまだ教育の世界のなかで工夫すべき点、努力すべき点があると思っています。

また、高等教育予算についてどうなのかというと、こちらも公費と私費(学費など)を合わせた学生1人あたりの教育支出を見る限り、決して他の国と遜色はありません。そのような中、大学関係者のなかに、次のようなことを言う方がいます。すなわち、第1に、「教育支出をアメリカ並みに高くしてもらいたい」ということ、第2に、「そのうち、公費の割合を高めてもらいたい」ということです。

高等教育にとって大事なことは、まずは、公費であれ私費であれ、わが国の学生1人あたりの教育支出を、主要諸外国とくらべて遜色ない水準まで確保することです。これは、米国が高い一方、欧州はやや低く、日本は欧州よりやや高い水準になっています。アメリカが高い理由は、学費などの私費負担が非常に高いことによるのです。これは、おそらくグローバル化のなかで、MBAなどに代表されますが、大学なり大学院に行くことで、学生の生涯所得を高める効果が大きいことなどによると思われます。つまり、教育を受けることのリターンが高いので、年間数百万という学費を支払ってもペイするというわけです。しかし、日本で同じことが可能な状況かというと、よく考える必要があります。

次に、高等教育投資に占める公費負担が低いと言われるのですが、これはそれぞれの国の国民負担率や受益者負担のあり方をどう考えるかにかかっています。たとえば、国民負担の状況を見る限り、日本や米国は、欧州諸国と異なり、OECD諸国のなかで国民負担率が最低水準の国です。つまり、国のあり方が基本的に私的部門に任せる構造にあり、米国と同様、高等教育について公費負担の割合が相対的に低くなっているわけです。義務教育である初等中等教育であれば、基本的には公費負担ですが、高等教育は義務教育ではありませんので、国ですべて丸抱えにするかどうかは、哲学の分かれるところです。ヨーロッパのように国民負担率が高い国では、教育の私費負担は低いですが、その代わりに家計は多くの税金を納めており、それを大学につぎ込んでいます。しかし、日本やアメリカのように国民負担率が低い国では、家計は負担する税金が少ないですから、高等教育に対しても、ある程度の公費はつぎ込むが、あとは家計の私費負担でお願いしますということになるわけです。したがって、高等教育の公費負担を増やすなら、まず国民負担のあり方を議論しなければならず、「増税して政府の規模を大きくするのか?」という問いに対して、先程の大学関係者は答えなければならなりません。

また、受益者負担の問題も考える必要があります。研究活動にはある程度、外部性が存在しますが、教育のリターンはどこに帰着するのでしょう。これは、まずは学生本人に帰着するところが大です。よい大学教育を受けて収入の多い職業に就く、そのような関係を考えれば、公費負担(税金)を引き上げて、大学生の学費負担を、税を通じて、たとえば大学生の子どもがいない(あるいは高卒のお子さんしかいない)ご家庭にまで求めるのか? これは、国民の理解を得られるのかといった判断が必要です。軽々に、欧州などで公費負担が高いから日本も高めよというような議論は成り立たないのです。

繰り返しになりますが、これらの主張ではベネフィットばかりが強調され、誰がそのお金を払うのかという負担に触れている発言は、見たことがありません。「カネは財務省で集めてください」と気楽なこともよく言われますが、そのような単純な議論ではないのです。

大学の機能別分化について

玉井:
全体の状況が厳しいことは分かりました。全体の総枠が変わらないままでの資金配分の問題というのは、見方はいろいろあると思いますが、私は一種の合理化のプロセスではなかろうかと思っています。たとえば、これまで公共事業費というものの中に、道路へのやむにやまれぬニーズに応えるという意味合いのものもあれば、社会保障的な意味合いのものもあり、いろいろなものが混ざっていたと思うのですが、社会保障は別立てでそれだけを考えようという方向になっていると思います。

国立大学の機能にも、いろいろなものが混ざっています。それが反省されないままに配分してきたということであるとすれば、機能的に少し整理したほうがいいのではないか。そういう考え方があるでしょう。これに関して誰もが言うことは、教育と研究、それから産学連携などを含めた社会貢献、大学にはこの3つの機能があるということです。そこで、無駄を省くということになれば、やはり機能別に見直し、それぞれの機能に対して、現状として、どの程度の費用を投入しているのかというような見方になるでしょうか。

藤城:
大学の機能別分化という話ですが、これは、いまの大学教育をよりよいものにしていくための、国立大学のあり方に関係するテーマです。シンポジウムでも言いましたが、いくつかの課題があると思います。

教育・研究水準の向上のためには、内外の競争的環境をもっと確保しなければいけないし、議論の透明性・普遍性を確保しながら国民的議論を行うことが重要です。そして、厳格な相対評価を行うべきです。ある程度、研究力の高いところと低いところ、教育力の優れているところとそうでないところを適切に評価していけば、どこにお金をつぎ込むかも見えてくるはずです。

そのうえで、まずは、それぞれの国立大学法人が、自ら目指すコンセプトを踏まえ、中期目標をより具体的なものとする必要があります。また、大学の実態把握の点で、現在の財務諸表はまだまだどんぶり勘定なので、それを見直さなくてはなりません。そして、大学自治の根幹かもしれませんが、経営と教学の関係については、選挙で選ばれる学長が経営を行い、財務、労務まで担うことが、本当の意味で効率的なのかということも議論が必要です。

教育機能と研究機能の配分関係に関しては、外部性は、相対的に教育より研究にあると考えられます。外部性のあるものは、何がしか公的なお金を入れない限り、それがいつも自発的に行われるとは限らないでしょう。このため、研究については、ある程度国の支援が必要だと思います。一方、教育に関しては、そのリターンが個人に帰着することを踏まえて、まずは学費をベースにしたうえで、どの程度、国としてサポートするかということを議論すべきだと思います。そして研究と教育をある程度二分化していくなかで、完全に分離できるかどうかは分かりませんが、基本的には研究を主眼にしていくアプローチと、教育を主眼にしていくアプローチの2つを考えていくことになるでしょう。そうすれば、大学そのものも、この学部はある程度研究主体で、一方、こちらの学部は研究力が必ずしも高いとはいえないので、むしろ地域に根ざした人材育成に集中し、どのような教育を施していくべきかを考える、そして卒業生が地域で産業を起こすことなどを通じて、地域の活性化などを担って行くことが、大きな目標になる場合もあるでしょう。第二期を通じて、第三期に向けて、今話したようなことを明確にしていくというビジョンが必要なのではないでしょうか。

なお、大学関係者が大学の重要性を認識しているのは当然ですが、国民全体にそういうコンセンサスが本当にあるのでしょうか。大学の社会貢献にも関わる問題ですが、この点について、私はまだまだ努力が求められていると思います。実際、大学が社会にとって有益なことをしていると、国民が本当に理解していれば、これをもっと支援しようという議論がでてくるはずです。しかし、かなり前から取り組んでいるはずの産学連携が、いまだに大きな課題として残っているように、そこに何か課題が存在しているように感じます。

玉井:
そうすると、いまやもう第二期の準備をしなければいけない時期にあるわけですが、この第二期が次の大きな改革に向けての準備期間で、そのあいだに6年間かけていろいろなものを煮詰めていくという期間にしなければならないとお考えですか。

藤城:
そうです。二期が終了した段階で、先ほど話したようなことが完璧にクリアされているなら、それに越したことはありません。ただし、やはりある程度のペースというものも必要と思います。最近もある大学の学長と話をしたのですが、「この4年でかなり改革をやってきました」という話でしたが、おそらく4年という時間は、それなりに短い時間なのでしょう。しかし、一期で6年間、二期で12年間。12年間かけて改革していくというのでは、悠長でしょう。民間企業なら、12年間かけて問題を改善していては、潰れてしまいます。それなりにドラスティックなこともしなければなりませんが、そういうプレッシャーは大学にかかっているのでしょうか。

運営費交付金の1%削減がプレッシャーになっているのかもしれませんが、若干の疑問も感じています。「1%削減がいかに大変か」、「削減の結果、末端の研究資金が大きく削られている」などと関係者はしきりに訴えますが、なぜ、マイナス1%で末端がそれほど削られなければならないのか。「効率化」のメカニズムを各大学によく分析していただきたいと思います。その上で、第二期においては、いままでの一律削減ではなく、教育や研究のメリットを具体的に評価しながら、それに合わせてお金を配っていくことを始めなければなりません。具体的に研究に関しては、その相対的な位置づけを分野別に判断し、研究力の高いところにお金を集中して、研究力の低いところでは、お金は徐々に削減していくということです。

教育に関しては、必ずしも教育の水準は明らかではないかもしれませんが、大学ごとに、具体的に、こういう人材をこのように育成していきたいという目標を明確にして、それにどの程度合致した教育ができたかを事後評価しながらお金を配るなどということも考えられます。

評価について

玉井:
そのなかで、やはり見方はかなり細かくなければいけないでしょう。いまの例でいえば、ビジネススクールや金融工学の教育を受けた人というのは、おそらく将来、年収が高くなる人たちであり、つまり個人の利益に帰属するところが大きいわけですから、そういった人からは授業料を高めに取り、高い授業料で教育投資を行っていくということです。逆に研究面では必要だが必ずしも多くの人が集まってくるわけでもない分野、たとえばインド発祥の仏教がどのように日本に伝来したかといった分野について言えば、研究も必要だし、研究の後継者になるような学生を毎年何人かは取らなければならないでしょう。そのときに1人で何百万円も学費を払いなさいということになると、なかなかそれは難しい。しかもインド仏教を研究した人が、その教育負担を将来、返せるかというと、それもなかなか困難なことでしょう。つまりビジネスとは違い、そこはメリハリをつける必要があるといえます。その当たりまで細かく評価していく必要があるということでしょうか。

藤城:
そうですね。この部分は要検討ですが、インドの仏教をオールジャパンでどこまで研究しなければならないのかということもあります。たとえば、日本で国費を投じて、そのような学生を毎年何百人も育成する必要はないかもしれません。では、何人なら最適なのか。そのような研究から何か新しいものが出てくるかもしれませんから、研究として必要でしょうが、やはりそれほど学生を取れないかもしれないとも思います。

玉井:
限界はありそうですね。

藤城:
なお、人文科学は、ときには理科系、自然科学に比べると競争環境が低いケースがあるようです。そういうなかで、自分が好きだから研究するという世界がどこまで許されるのか...。ややこしいのは、お金の心配がない環境は、安定はしていますが、プレッシャーが少ない環境とも言えます。そこもよく考えなければならないかもしれません。

玉井:
なるほど。私も、正直いって自分のやっていることが仕事なのか趣味なのかわからない部分があります。ただ、自分にとっては趣味みたいなものでも、社会から見て役に立つ、その意味で説明のつく研究をしているつもりではあります。

藤城:
それと違う、鍵括弧つきの「趣味」というのは微妙ですね。

玉井:
そうですね。いわば純粋の趣味、単に好きだから趣味で研究をする、説明はできないという人は、少々待遇が低くてもしかないだろうということになるのでしょうか。

藤城:
公費との関係での議論ですね。あえて申せば、たとえば文学に、どこまで公共的な意味があるのかということは、容易なテーマではありません。文学の研究自体は、文章表現や読解力養成などの教育面にとどまらず、その背景にある思想や社会環境などを読み解くという研究面もあるでしょうし、文学に表れる人間の深層的な心情も含めて、文化や人間としての豊かさを維持し、高めるためによいことなのでしょう。それは、個々人の教養教育として重要ですが、公益性や外部経済的な意味で、どこまで公費でまかなうべきなのかと言えば、微妙なような気がします。

玉井:
難しいですね。

藤城:
そのような分野は、経費的には人件費が中心で、それほどコストはかかりません。ただ、例えば、ドイツ文学を卒業して職業人としてどうするのかを考えれば、そこで得たスキルは何なのか、あるいは、研究における波及性とは何なのか、少し考えてしまうところです。このことは、うまく申し上げるのが難しいところではありますが。

玉井:
ただ、ドイツを理解するということは、日本国として必要なので、そのために必要な研究もあります。また、必要な人材というのもいると思います。

藤城:
そうですね。いわゆる地域研究と、その一要素の文学とは、また少し違ったものであるということでしょう。

玉井:
そうですね。そのことは、非常に大事なことだと思います。つまり、たとえ一般には虚学といわれるような分野であっても、自らが好きだから行うというのではなくて、こういう理由があるから国費を投入する必要があるのだと、説明責任がいるということになるのでしょう。

多くの大学人の考え方としては、そのような考え方は、かなり違った発想だと思います。研究者というのは、好きなことをやればいい、研究動機を説明する必要はないというような考えを持っていると思います。しかし、自身は、このためにこういう研究をしているのだ、これまでしてきたのだということを説明する必要が出てきた。そして、説明するという以上は、一生をかけて死ぬまでに説明するということはありえない。それは、毎年なのか、中期計画6年なのかは別にして、自分自身の人件費を含めて、国費を投入していただく以上、何かその理由が必要になる、それを説明する必要があるということですね。

藤城:
そうですね。もちろん、自身が好きだから研究するということを否定しているわけではありません。それは構わないが、そのために公費投入が必要という話になれば、説明が必要ということです。例えば、国としても、お金を投じるからには、何がしかの理由が必要です。ただし、確率論のような問題があり、全く意味のないように見えるものでも、実は後で大化けするものもあるかもしれません。その部分は、説明しきらないのかもしれませんが、ぎりぎり100点ではなくても、このことを研究していれば、このような成果があるということを、ある程度説明してもらいたいのです。

玉井:
その話でいえば、具体的になりますが、たとえば次の中期計画6年間のあいだに、この人はどういうことをやっているのか、あるいは、この学科は全体としてどういうことをやっているのか、その中で、人件費を含めてこれだけ国費が投入されているけれども、こういうことだからそれに見合うだけのものがあるのだということを説明してかかれ、ということになるのでしょうか。

藤城:
個々人とまで言いませんが、やはり学部なり、学科なりが、どういうことを目指しているのかは、少なくとも説明してもらう必要があると思います。そもそも研究力も弱く、教育目標もしっかりしていない、そういうところに漫然とお金を突っ込むことは限界です。それを黙認するのであれば、第一期と変わりません。評価もせずに、運営費交付金を薄切り1%で削減し、あとは大学内で配分するだけになります。しかし、それで全員共倒れというのであれば、やはり、中での相対的な重要性を評価しなければならなくなります。適切な優先順位を設け、それが低いところは別の生き方を考えてもらい、浮いた予算を、今度は優先順位の高いところに回していくことをやらなければならないと思います。

玉井:
個々人で評価してもいいと思いますが。

藤城:
大学内ではそうでしょう。

玉井:
ただ、たまに、この人はすごいとその分野では誰もが認めるのだが、素人に説明するのはちょっと無理だというような、そのようなすごい人がいるかもしれません。クルト・ゲーデルという人は、誰もが天才と認めるフォン・ノイマンが「オレよりすごい」といったから皆が認めたという話もあります。

藤城:
そういう人は、むしろ貴重かもしれませんね(笑)。すごい理由が、crowny(身内)なものではなく、玄人に明確なものであればよいですが...ただ、数は限られているでしょう。

玉井:
そうですね。せいぜい1割か2割、一学科のほぼ全員が「説明がつかないけれどすごい」ということは、おそらくないでしょう。したがって、説明がつかない人は最大2割くらいはいてもいいのだが、8割くらいは説明がつかなければならない、そうでなければ全体の規模を減らしてください、ということになりそうですね。

大学のガバナンスの問題点

藤城:
大学の学長さんは、こうした問題はある程度分かっています。研究の最前線でなく、後進の育成で頑張るということでもよいと思いますが、研究・教育の人員の再構成が必要かもしれません。その理由は、お金の使いかたの話もありますが、やはり、そうでないと、国全体としての教育力、研究力を高めることになかなかならないのではないでしょうか。

大学関係者の中には、高等教育予算を倍にしてほしいと言っている方もいますが、「それでは、現状の大学内のメカニズムは、効果的なものですか?」と尋ねざるを得ません。そう言うと「いや、今やろうとしている」といった答えが返ってきたりしますが、いつまでにやるのでしょうか。これは、厳しく聞こえるかもしれませんが、他の世界でも求められていることです。企業であれば、スクラップアンドビルドは当たり前です。しかし、これまで、大学の場合は、これを求めにくい構造だったのかもしれません。

玉井:
いまの話は、個々の大学のガバナンスのあり方にも反映されると思います。さまざまなところで指摘されるのは、教授たちが投票して、得票数の多い人が学長になり、その人が理事長として経営のトップにもなるという仕組みで本当に大学はやっていけるのか、ということです。どれほどの名医であっても、自分の身体を切って病巣を摘出するということはできないでしょう。そういう場合は必ず他人に頼むということになります。したがって、外部の人が経営者として入る、それに対して学問的に説明責任を果たす人というのはまた別にいる、その代表が学長だといえます。たとえば私立大学の場合、理事長職と学長職は分かれているところが多いでしょう。ところが、国立大学では学長即ち理事長ということになっている。

学長と理事長を分離する体制がすべての国立大学に一律に必要かどうかは別にして、少なくとも、理事長即学長という仕組みをすべてに当てはめるべきではない。体制の自由度というようなものも必要なのではないか、そういう議論もあると思います。

藤城:
全く同感です。よく企業と大学は違うと言われますが、組織論的に見れば、企業と大学は、基本的なあり方で、それほど変わらないところも多いと思います。従業員の投票で社長を決める会社がこの世にないように、当然、社長は株主なり、その組織のステークホルダーに対する責任を経営者として負っているわけです。国立大学であれば、寄託者は国(納税者)かもしれませんので(私立大学であれば、大学の創設者、あるいは寄贈した人かもしれませんが)、彼らを向いて仕事をする必要があります。ところが、従業員が選んだ社長となれば、はたして株主を見て仕事をするかどうか。もちろん、株主しか見ていないのも弊害があるかもしれませんから、これは相対的な問題ですが、少なくとも現状は、トップが従業員を気にするようなバイアスがかかる恐れのある組織になっていると思います。立派な経営を行っている学長もいらっしゃいますが、システムとして、常にそのようであるのかどうか。外部評議員も入れていますが、では、どの程度、彼らの意見は反映されているのか。

したがって、理事長と学長が、それぞれの責任範囲を明確にするという意味でも、両者を分離するのは1つの考え方です。それが仮に難しければ、学長が、従業員のみならず、株主たる国民を見て運営を行うというバランスを担保する仕組みが必要です。特に、そのことは、トップが大学自体のあり方を変える改革を求められる場合に、重要となるでしょう。

玉井:
少し微妙な話になります。結局、いま現に椅子に座っている人が絶対立ち上がらなくていいということで、なおかつ全体のその椅子の数も決まっているということであれば、いくら新しい分野が出てきても、新しい人は座れないということになります。したがって、経営面で体制を変えるということになれば、リストラも含めた改革が、それぞれの大学に必要かもしれません。

藤城:
そうかもしれません。本当の意味で日本の大学を世界レベルにしたい、あるいは、よい貢献をしたいと思えば、新しい分野を入れていくのは当然です。しかし、そこがイス取りゲームで阻まれているのであれば、どのように目的を達成するのでしょうか。それが常に予算の拡大傾向のなかでしか実現できないなどということは、許されないでしょう。

玉井:
たとえば、モデル的にいうと、ある大学のある学科に、毎年人件費を含めて1億円ずつ投入されており、教員は5人いるとします。そこに1億円を投入しているということは、藤城さんの立場でいえば、1億円国債が増えているということになりますね。そこで厳格に評価してみると、どうも1億円には値しない、5000万円くらいでよいとなったとき、どうするのでしょうか。皆さん方でリストラをして、2人、3人抜けていただき、研究費は大幅にカットするとするのでしょうか。あるいは全員どうしても必要な人材だというなら、給料を半分にしたらどうかとするのでしょうか。あるいは、そのあたりは大学なり学科なりで決めくださいということになるのでしょうか。

藤城:
そうですね。経過措置のあり方の問題でしょうか。興味深いのは、非公務員でありながら、いまでも給料は人事院勧告準拠という大学があるのです。労使折衝で自由に決めて構わないのですから、結果的に、給料にメリハリをつけてもいいと思うのです。それが法人化のメリットではないでしょうか。全てが人事院勧告であれば公務員のままと変わりません。国大法人移行後の第一期は、そのような運営もあったのかもしれませんが、第二期になれば、必要な判断をしてもらいたいものです。いままでどおりの中で少しずつ変えていくということでは、長期低落傾向にもなりかねません。繰り返しますが、本当に大学をよいものにしたいのであれば、これに取り組むべきであり、それができないので金を増やせと言われても、受け容れがたいという話になります。

玉井:
いきなり給料半分ということになれば、実際にはかなり酷でしょうね。もちろん場合によっては非常に本が売れていて別に困らないという人もいるでしょうが。

藤城:
給料を半分というような極端な話をすると、皆抵抗しますが、退職不補充や現給で昇給停止、他大学の学科との併任とか、工夫はあると思うのです。民間では、さまざまな工夫をして、厳しい状況を抜け出そうとしています。大学もそれぐらいの覚悟が求められています。「それでは、30年かけてやります」などと言うわけにはいきません。「大学を世界トップ水準にしたい」という話の一方で、リストラは30年かけてと言うのでしょうか。本当にやりたいと思ったらやる、やる権限がないのなら、権限を付与する制度改革を行うと、次はそういう話になるでしょう。

玉井:
標語的に言えば、5年で世界トップ水準にしたい、しかしリストラは30年かかってやりたい、だから5年間で予算を倍にしてほしい、そういう話は通用しないということでしょうね。

藤城:
そのとおりです。

玉井:
何となく大学の中で見ていると、現に世界トップ水準を目指すと言っているところは、あまり改革をしなくてもよく、教育が主になるような地方の大学だけ何か改革をすればいいというような雰囲気もあります。しかし、それは考え方として、まったく違うだろうということでしょうか?

藤城:
トップ水準のところも課題はありますが、地方大学は、やはりいま悩んでいると思います。自分たちのレゾン・デートルは、何なのか。地方発の面白い研究をしている先生や学科もあると思います。その人たちの芽をつぶすことは、あってはならない。しかし、それであれば、そういう研究以外の周辺部分も含めて、現状のままでいいのかと言われると、むしろ各大学は秀でたところに特化したり、他の拠点に集約したりする(分校化などを含む)のでもよいのかもしれません。

また、教育面を中心に、地域で必要な人材について、地域の人たちともう少し考えたほうがいいと思います。その地域を今後、どこへ引っ張っていくかと考えたときに、必要な人材をつくらなければなりません。先のとおり、社会科学でも、日本で不足している人材が沢山いるのですから、それを専門に育成する学科を立ち上げてもいいと思います。この分野なら何々大学に行けば可能だ、その大学出身者はそういうスキルを持っている、だからあらためて会社で研修させなくても即戦力として使えるという評判を得るだけでも全く違ってくるのではないでしょうか。

そのような人たちが地元企業に行くことで、地元企業の力も上がります。このため、何を目指して教育を行うのか、ターゲットを明確化する必要があります。ターゲットを決めるのに、民主主義で、あれもいい、これもいいでは、何か無難なものにまとまってしまい、今までと大して変わらない可能性もあります。ある程度、何をやるのかをクリアにして、そのための基礎的な教養として、リベラル・アーツがあってもいいのだと思います。たとえば、この前、ある大学の学長さんにお話を聞いたのですが、教養教育は放送大学を活用しているということです。大教室で聞くなら、放送大学で聞けということなのでしょう。

玉井:
なるほど。

藤城:
それで、ある程度の知識の幅や、ものの考え方の多様性、方法論を学ぶことができれば、あとは先生と対話しながら学び、最後はスキルになります。こういう教育であれば、いまの全ての大学教員を大学が囲う必要はないのかもしれません。つまり、放送大学の講義を、オンデマンドで引けるようなシステムにしてしまえば、自分でカリキュラムを組むこともできるわけです。そのような教育手法と大学を組み合わせるような工夫も一案です。そうすれば、人件費は大して必要とはならないので、こうした部分の予算をグッと減らし、それで他の必要な教育・研究分野に還元することが考えられます。

国立大学法人化の問題点

玉井:
少し話の中身を変えたいと思います。研究と教育と社会貢献というふうに大学の機能を分けるとして、研究というのは、日本国にとって必要な研究であれば、収支が揃うはずである。他方、教育というのは、その成果が誰に帰属するかも考えた上で、公費をどれだけ投入するかを考えなければならないというのが、先ほどのお話でした。ところがいま国立大学法人は80近くに分かれており、かつては全て国立学校特別会計だったため教官という身分は全く共通のものであったのが、いまやそれぞれ別の会社の社員のようになっています。

そういうなかで、研究のあり方を考えた場合、たとえば、大学全体でリストラが必要となれば、研究しかしていない教員はいてもらっても困る、あるいはそういう教員にも研究だけでなく、教育もやってほしいとなるかもしれません。

そうしたことが仮にどんどん起こるとしますと、たとえばアインシュタインのような人がドイツ語を教えるというような、無駄なことが起こりかねないのではないでしょうか。あるいは、日本全体として必要な研究だということで配分された資源を、無関係な分野を含めた大学全体で使ってしまうということが起こりかねないのではないでしょうか。

国立大学法人化のマイナス面といえば、そういうことがあるだろうと思います。日本全体にとって必要な研究は大学の事情と関係なく行ってもらいたいというのが納税者全体の意思だとすると、いままでは、他のことと渾然一体となされてきた、それがうまく機能しないとなると、研究と教育を組織的にもある程度分けたほうがいいのではないか、という考えがありうると思います。その辺はいかがでしょうか。

藤城:
それで結構だと思います。2、3年前の中教審の報告にも書いてありますが、大学の機能の明確化、分化だと思います。今回の財審資料では、非常にシンプルではありますが、大学における研究と教育のプロポーションに応じて、ある程度研究をやる大学だとか、教養教育を中心とする大学だとか、総合大学のような枠組みの中で教育と研究が混在しているような大学だとか、いくつかのパターンを提示しています。それに応じてお金の投入の仕方も変わってくると思います。

先ほども言いましたが、教育を中心にやるのであれば、一部、国費は投入されるかもしれないが、もう少し学費を中心にすべきだし、研究を中心にやるのであれば研究に関しては、お金が投入されるだろうが、競争性を考えて競争的資金で獲得してもらうということがあると思います。研究大学院大学、あるいは独法の研究機関のようなところは、研究を中心に置いているわけだろうから、競争的資金や国による直接的な資金配分が中心になります。

微妙なのは、総合大学の位置づけでしょう。なぜ大学は単科大学ではなくて総合でなくてはならないのかについて、はっきり言えば、超有名大学であっても、決して学際的な研究が行われているわけではないという問題をどう考えるかです。学部が違えば、教員同士でほとんど話もしたことがないというようなことがあります。おそらくそれがユニバーシティであるためには、もっと学際的なことをやらなければいけないと思うのです。現実に行われていないのであれば、単科大学の集まりと同じです。そこに、もしかしたら何か日本の学問の可能性が、まだあるのかもしれません。そうであれば、積極的にその可能性を示す方向でやってもらいたいものです。

総合大学で、フルセットで、しかも教育と研究をある程度、両方やっていくということは、それほど簡単ではないのではないか。したがって、総合大学に与えられた課題には、結構大きなものがあります。いまは、帝大系は、他の大学に比べても恵まれていてというような話だけが聞こえますが、それは現状にとどまるのであれば、そういう議論ということです。世界トップ水準にある学部を抱えている総合大学もあるのですが、そこにとどまるのか、さらに総合性のようなことを考え、もっと欲張って、必ず違う学部、学科の人ともっと交流をするとか、何か工夫ができないでしょうか。

それから教養教育大学については、学費を中心に据えていくことになると思います。教育を中心にやる限りにおいては、全てを丸抱えで国が面倒を見る必要性は乏しくなっています。ある程度、学費も上げざるを得ないでしょう。基本は学費をベースにして、ある程度、国としての必要性を考えて国費を投入していくということです。さらに、地域に必要とされる人材をつくるため、地域との関わりが非常に強い学部、学科をつくるのであれば、むしろ地方費を入れるというやり方もあります。

それから教員養成系は、ラフに言えば地方公務員を養成しているわけです。私学を経て教員になる人と、国立大学を経て教員になる人とで、明らかに国立大学のほうが学費的な面でも優遇されていますが、その理由は何なのか、大変微妙なことだと思います。もう少し学費ベースで、むしろ県立大学として教員を養成してもらうということも考えられるのではないでしょうか。

こうして、いくつかの大学のパターンに分かれてくるのが、機能の分化です。そこをうやむやにして、取りあえずお金を増やしてというのでは、問題意識もはっきりしないし、説明責任も問われません。本当の意味でよい教育や研究をやってもらうため、そういうことをむしろ考えていただきたいと思うのです。

玉井:
いまのその教育のお話で言えば、たとえば、ある地方が教育立県を目指すという目標をたて、すぐれた条件で優秀な若者を全国から集め、自県の県立高校の教員にすることにしたとします。そのための政策はいろいろあるわけなので、地方交付税交付金などから出せる範囲で選択してもらうということになるのでしょうか。

藤城:
一般財源のなかでプライオリティが教育ということになれば、そのようにしてもらってもいいのではないでしょうか。

玉井:
国立大学の教育学部を維持するのに使ってもいいし、奨学金なり何なりをつくるということでいいのではないかということでしょうか。

藤城:
それが有効な施策だというのであれば、各地域の責任で判断されることだと思います。

玉井:
総合大学の話で言えば、1つは研究を行っているということが総合大学のレゾン・デートルだと思うのですが、研究をしているというのであれば、国の研究所も独法の研究所もあるわけで、そういったものとどこが違うのかということになります。そのときに、学生がいるというのは、それは教育そのものが目的なのか、あるいは研究者の後継者を、たとえば400人の中から10人取るために教育をほどこしているのかということになり、そのことにも説明責任が必要ということになりますか。

藤城:
大学の戦略を明確にするなかで考えることかもしれません。「研究をやるときに、若い人がいるということは非常に大事なことだ」ということを、ある外国のノーベル賞学者から直接聞いたことがあります。そういう意味で、研究独法だけというのも、研究の位置づけからして、必ずしも十分ではないこともよく分かります。まさに若い人たちが斬新な発想で、先生が当然だと思っていたことを、そうではないのではないかと考え、そしてそういう若い人たちとディスカッションをする中で、自分自身の考えもまた変わっていくというようなことがあっていいと思います。つまり、そういう研究であれば、教育と、ある程度オーバーラップしてもいいと思いますが、それはかなりコアな学生たちでしょうね。学生全員がそのようなかたちで、参加していけるかどうかはわかりませんが。

なお、学部からのしがらみや研究の馴れ合いを断ち切るためには、研究大学院大学はよかったと思います。つまり、学部からずっと同じ研究室で、子弟の関係にあり、この先生はこう思っているから、学生はもう分かっているだろうからということで、ディスカッションがなかったりというようなことが、学部と異なる研究大学院大学に行くことで、もう一回、1からやると聞いたことがあります。それで新たに発見されるものが出てくるかもしれません。研究大学院大学もあっていいし、総合大学のある程度基幹大学のなかでそういうような人を育てていくということもあってもいいかもしれません。

玉井:
それから、教育と研究とを、機能的に分けるということになれば、ある教員が終身雇用で定年までそこの大学にいるとすると、機能的に少しずれが生じてくるのではないでしょうか。

私自身のことを考えても、研究能力が高い時期とそうではない時期というのは当然あると思います。研究能力が落ちたあとでも教育者としてはやっていけるかもしれない、むしろ練度が増すだけ教育者としてのスキルは上がるかもしれない、しかし第一線で死ぬまで世界一の研究者としてやっていくというのは、本当にアインシュタインのような人だけでしょう。とすると、世界最先端の研究をやる組織だということであれば、逆に人材の流動性というものがあるのが当然でしょう。ところがかれこれ30年ぐらい所属している人がたくさんいるというのは、そもそもそれだけで説明責任を果たせないのではないかという考えもあると思うのですが、如何でしょうか。

藤城:
財審の資料にも、はっきり教育と研究の接続において、柔軟な組織、学生と教官の円滑な大学間移動が大事だということを書きました。その心は、たとえば一旦自分は教育を中心にやろうと思って入ったけれど、やっているうちに研究をしたくなってきた学生もいるだろうし、あるいは研究でやって来たけれども、やっぱり後進の教育を中心におきたいという先生もいると思います。ポイント・オブ・ノー・リターンはないわけで、方向転換しようと思ったときに変えられる、自分の生き方なり自分の目指す方向をチョイスできるように、できる限り自由であるべきだと考えたのです。

教育系が中心の大学だとか、研究が中心の大学だといって、いったん入ったものの、そうではないところに行きたい学生たちには、いつでも転学できるような構造が大事だと思います。もちろん、大学に入ってから東大へ移りたくなったから、必ず行かせてくれというわけにはいかないわけで、試験などを受けて転学するということだとは思いますが(笑)。教員側でも、同じです。

評価の問題点

玉井:
次に、評価の問題をさせてください。いままでのお話だと、とにかく何か評価をして、それに基づいて資源配分を考えるということは、必然のように思います。しかし、他方で大学の中で見ると、もう何年も前からずいぶんいろいろな評価ということをやっており、かなり明確なのは、評価に基づいて資源配分されるということになった途端に、大学人は目の色を変えて対策を打つ、ということです。その対策というのは、中国で「上有政策、下有対策」といわれるそれで、とにかく辻褄を合わせる、ということです。そのため、その評価をさせようという側の意図にかなった評価がされるとは、必ずしも限らない。場合によっては、単なる見てくれ、辻褄を合わせるのがうまいところが高い評価を得て、本当に大事なところに資源が回らないということもあり得ることだと思います。そのあたりはどのように考えられているのでしょうか。

藤城:
この点は、分野別の評価が絶対に必要だと思います。いま手間がかかっていると言いますが、評価が高い人はべつに、あるがままを記述すればおしまいですが、何か説明に窮する人は、言葉を重ねて分量で見せようとしているのでしょうか。しかし、それは、あまり意味がない。あるがままに見ていくしかないのだと思います。また、分野をまたがった比較は難しいですが、分野のなかでは、全国的に見て、ある程度複数の専門家が見ながら、評価をつけていくことを行わなければならないでしょう。そうせずに、評価をやめるとなると、何をやっているかが分からなくなります。すると、皆に取りあえず金を撒いておくか、取りあえずどこにも金を入れないということしかないわけです。しかし、物理にせよ化学にせよ、やはり分野のなかでは、こちらのほうが研究水準は高いとか、そうでもないとか、ある程度常識的な判断があれば、そのなかで相対評価をしていくしかありません。

分野横断的な評価については、総合科学技術会議でS、A、B、Cをつけているが、往々にして全てSとAばかりになってしまいがちです。これでは査定の判断基準として参考にならないので、去年申し上げて、件数ベースでのバランスはよくなってきました。しかし、金額的には、まだSとAが多いのです。これを見ても容易ではないのですが、できないと言われてしまえば、あとは最初からシェアを固定して、配分するしかなくなります。シェアを大胆に変えろと言うのであれば、どの分野に金を注力するかを決めなくてはなりません。そのためにも評価が必要なのです。文科省がさじ加減で決める話でも、財務省が何か言う話でもないことです。満点でなくても、ある程度のもので傾向をつけ、少しずつやっていくことだと思います。

玉井:
その言い方をすれば、評価の結果によっては全部が現状維持という結果になるだろうとの期待を持つのがいけないので、そのために悪いものでもよく見せようとすることになるわけですが、そんなことをしても無駄だという評価でないと、意味がないということですか。

藤城:
意味がないと思います。

玉井:
たしかに、現状を維持するためにものすごい手間隙かけて評価をやるということになっているから、評価疲れという言葉が出てくるのではないかと思います。

藤城:
そうですね。だから中には、それならもう教育に特化して評価を上げていくとか、そういうことを考え始めてもいいわけです。また、自然科学も専門化しすぎているから、多様な分野を基礎科学的に教え、どこの分野でもやっていける人材をつくることを売りにするのも一案でしょう。最先端ではなくても、たとえば、そのような人材をつくる学科にしていくなど、次のステップに進むことを積極的に考えてほしいです。兎に角、現状維持だけを考えていると、厚さで勝負ということにもなりかねません。それではよくある学生のレポートと変わりません。

玉井:
いい加減な評価で皆が疲れ、しかも結果が現状維持になるというのは、最悪ですね。

藤城:
そうなると今の一律削減と同じになるから、本当の意味で皆さんはオールジャパンの研究水準を上げたいと思っているのですか? 自分の大学を、向上心をもって高めたいと思っているのですか? という質問に戻ってしまうわけです。では、こうした目標はどのようにクリアできるのでしょう。みなさん自由にやって、その中からポコンと急にノーベル賞が出てくるのであれば、「よかったですね、出るか出ないかはサイコロ振るようなものだから」と、それでいいなら、それだけの話です。

玉井:
財務省、あるいは文部科学省も含めて、霞ヶ関の方々は学問のことを知らないから駄目だということを大学人はよく言うわけですが、それなら自分でいいやり方を考えて、代案として何か出したらどうか、ということですか。

藤城:
代案を出していただきたいです。それから霞ヶ関は、学問の深いところや大学のしきたりには疎いかもしれませんが、大学の成果なり教育をよくするための人間行動、学部間で意見の違う人たちをどのようにして調整するかというテクニックなどは、むしろよくわかっているかもしれません。往々にして、議論がレッテル張りに堕してしまって、「役人だから」とか、「知らないくせに」とか言われますが、何の解決にもなりません。大学のことは大学人が一番わかっているのであれば、その学問の奥義に基づいて、どういうメカニズムが大学に必要なのかを提案してくれればいいわけです。

とにかくお金を増やしてくれ、根拠は不明確だが予算も倍だというのであれば、われわれは言葉もありません。改革に手をつけず、いまあるものを倍にしろと言っているだけに聞こえます。私は聞きたいのです。予算を倍にして、具体的に何をしたいのですか? 大学の教員数を増やすのか? 給料や研究費を増やすのか? それで高等教育がよくなるのですか? 給料を増やしたり、人数を増やしてよくなるのであれば、それほど簡単なことはない。しかし、生物学的に考えても、いまの倍にすればよくなるなどということは、単純には分からないことでしょう。

玉井:
ええ。

藤城:
非常に非科学的ですし、逆に科学的であるならば、積算を示し、検証したうえで、その案を持ってきてほしいものです。

玉井:
給料が倍になれば教員の質は、平均的には上がるでしょう。優秀な人が新規に採れますから。しかし、いま現にいる教員の給料を倍にしたのでは駄目でしょう。

藤城:
教員の入れ替えをしなければなりません。

玉井:
それが大事なことですね。流動性が欠けているのが何よりも問題です。

藤城:
何度も言いますが、何かを削ってこちらに持ってくるという発想がないので、何でも増やせばいいというだけでは、多々益々弁ずにすぎません。予算制約なり、希少性の問題があるから、いまの水準があるのです。とにかく増やせというような議論は、あまりにも粗雑です。「積算もないし、どの予算を削るのか」と尋ねても、誰も正面から答えてくれません。まず、現在の予算のなかで、できることを尽くしているのか、何をすべきかという案が必要なのです。

玉井:
それで、大学が変革を果たし、大きく枠組みを変えてみたところ、いまの資金配分のままでも大いに効果があがったということでれば、それならもうちょっと増やせばさらに効果がありそうだ、だったら道路特定財源が浮いた分を1000億円くらい回してもいいかな、ということはあり得るでしょうか。

藤城:
他を削減してでも、資源を追加投入することの効果が見えるなら、議論の俎上にのぼるでしょう。つまり、現状を変えてアウトプット効率が良くなるとして、もう少し増やせば、ここまでできるということが説明できればということなのです。その結果、外部性が高まったり、新産業があちこちで起こってくるとなれば、もっと投資したほうがいいとなるでしょう。いまは、まさに、ベネフィットが判然としないままに、とにかくコストだけ倍にしてくれという要求になっています。そして、「なぜ?」と問えば、「人材立国だから」とか、「教育立国だから」とか、抽象論で、言葉だけ踊っています。よく意味が分かりません。結局埒があかないので、「それでは、大学を国民はどう評価しているのか」という最初の質問に戻るわけです。大学というと、みな敬意は表しますが、「それでは、大学のために消費税を1%(=2.5兆円)上げてください」と言われれば、おそらく困惑するのではないでしょうか。

玉井:
その必要はないというのが、一般納税者の感覚でしょう(笑)

藤城:
なぜなら、効果がよく見えませんから。何をしたいのかが具体的に見えないのに、お金を払ってほしいというのでは、何で自分が払わなければならないのかということになります。説明責任は、そういうところでも大事になるのだと思います。

玉井:
標語的にいうと、大学が説明責任を果たせるようにするのが次の中期計画期間の課題である、そのプロジェクトの成否に大学の将来がかかっている、ということですね。

藤城:
大学のあり方の議論、そしてこれからのプロジェクションを、しっかりやるべきでしょう。組織の経営も意識した、筋道をたてた高等教育のあり方の研究が必要ですね。

脱線しますが、高等教育研究の世界で、「大学教育で、家計は1500万円もの負担を強いられている。公費負担を増やせ」と聞いたことがあります。何のことかと思うと、学費が4~500万円で、残りの1000万円は、高卒で就職した場合の4年間の得べかりし給料でした。機会費用を仮に負担と言うにしても、学生の生涯所得と比較考量すべきです。生涯所得は大卒の方が多いのに、その話も一切ない。

また、欧米の大学改革に関連して、「日本の大学と欧米の大学とは何が違うのか」という大きなテーマを尋ねたところ、「日本には体育の時間がある」と言われてしまって・・・。

玉井:
うーむ、それだとリストラ必要説に加担したくなりますね。

藤城:
経営学の先生に大学経営を論じてもらってもよいのですが、MBAコースに比べて、具体性はどうなのでしょうか?

玉井:
いまの国立大学法人のように、従業員である教授の代表者が経営権を持つ、リストラはまず絶対にしない、基本的なお金が市場ではなく国から来る、といった組織は、経営学の先生が研究されていないのだろうと思います。

藤城:
結局、本当にやらなくてはいけないのは、そういう研究をきちんとやることかもしれません。そのためには、教育のサプライサイドの人だけで議論をしていては、駄目ということです。これは教育界全体に言えますが、教員関係者だけで議論をしているから、世間と遊離した議論になってしまっています。小中学校であれば、教員をいかに楽にするかというような議論ばかりが提案されてきます。給料を上げよとか、人数を増やせとか。しかし何か違いませんか? 教育をシステムとして考えたときに、どこをどう改善したらよいのか? 雑務が多いから人を増やせと言うのであれば、雑務を減らせばいいではないですか。そういう議論が出ないのは、供給者側だけで議論しているからです。教育の受け手など、外の声をもっと入れるべきだと思います。

大学でも、外の声を取り入れて、自分たちがやっていることのどこに課題があるのか、どこを変えるべきか、もっと注文してもらって初めて大学はいい形になると思います。そして共感者が増えれば、大学に寄附しようという人も出てくるかもしれません。ところが、それがないままで大企業に寄付してくれと言われてもかなわんとなるわけです。出掛けていけば寄付してくれると思っている人もいるようですが、世の中そんなに甘くはありません。

玉井:
さきほど話題に出た体育などは、もっともリストラが必要な要因でしょう。東京の真ん中にある大学でも、大きなグラウンドをいくつもいくつも抱えて、利用効率は極めて悪い。春夏冬には休みがあります。授業で使う場合でも、野球などを取ると、打順が回ってくるまで観戦しているだけですから、体力の向上にはまったく役立ちません。

藤城:
単に楽しみでやるのなら、休み時間でもクラブでもいいのですから、そのようなうちは大学は変わらないということです。これから大学は、どう変わっていくのか。お金が続くとなると、じっくり議論しようとなりますが、議論だけでは何も変わりません。RIETIからも指摘していただきたいです。

第一期が終わってすぐに理想像に到達するわけにはいかないかもしれませんが、第二期のあいだには、その方向への道筋をつけてもらい、第三期には実現するということにしていただきたい。できれば、第二期のあいだに、改革を遂行してもらいたいですが...。私は、それが最終的に大学の教育・研究水準の向上のためになると思うからこそ強く申し上げているのです。

玉井:
本日はほとんどご意見をお聴きするだけになってしまいましたが、RIETIというのは、文教行政からも財政当局からも少し離れて、中立的に考えられる場ではないかと思います。私どもも、参考になるような議論を提供したと思います。どうもありがとうございました。

藤城:
こちらこそ、有り難うございました。先日のシンポジウムもそうでしたが、大学のなかにも問題意識を持ちながら、もっといろいろと新しいことにチャレンジしてみたいという声があると思います。大いに期待しています。

取材・構成/RIETIウェブ編集部 谷本桐子、RIETIリサーチアシスタント 中村悦広 2008年8月19日

2008年8月19日掲載