著者からひとこと

最低賃金改革

最低賃金改革

最低賃金改革

    編著:大竹 文雄、川口 大司、鶴 光太郎

編著者による紹介文(本書「はしがき」より)

最低賃金に関する包括的な分析を行い、日本の最低賃金およびその政策のあり方を問う

本書の問題意識・目的

2012年末に発足した第2期安倍政権は、デフレ脱却を経済政策の最重要目標に掲げ、大胆な金融、財政政策を矢継ぎ早に実施した。そうした中で、2013年2月には、安倍総理は経済界との意見交換の場で労働者の賃金引き上げを要請した。デフレ脱却、円高是正により日本経済が成長の軌道に乗るためには、やはり、こうした動きが働く人の所得の増大につながる必要があるからだ。実際、いくつかの企業では要請など踏まえて、賃金を引き上げる動きもでてきている。

デフレ脱却は金融政策だけでは困難であることはいうまでもない。物価と賃金の相互関係を考慮すると、デフレ脱却に向けて「金融政策」と「賃金上昇」が車の「両輪」になる必要がある。しかしながら、賃金上昇を企業に強制するのは副作用も大きく、あくまでも企業の収益増、生産性上昇が賃金上昇の前提となるべきである。

こうした中で、政府が主体的に賃金引き上げを行う手段として注目されているのが、最低賃金である。第2期安倍政権の「成長戦略」でも「持続的な経済成長に向けた最低賃金の引上げのための環境整備」という視点から、「全ての所得層での賃金上昇と企業収益向上の好循環を実現できるよう、今後の経済運営を見据え、最低賃金の引き上げに努める。その際、中小企業・小規模事業者の生産性向上等のための支援を拡充する」と言及されている。

日本において最低賃金が労働・賃金政策として特に脚光を浴びるようになったのは、格差問題が社会・政治問題化した2006~2007年頃からである。第1期安倍政権の2007年には官邸に政労使公益からなる「成長力底上げ戦略推進円卓会議」が立ちあげられ、最低賃金の引き上げと中小企業の生産性向上支援が実施されるようになった。また、2007年には最低賃金法改正が成立し、最低賃金の決定の際に生活保護に係る施策との整合性に配慮することとなった。

こうした流れは、2009 年に民主党政権になり加速した。翌年、2010年6月に策定された政府の「新成長戦略」では、民主党のマニフェストに沿って、「最低賃金について、できる限り早期に全国最低800円を確保し、景気状況に配慮しつつ、全国平均1000円を目指す」ことが決められ、2020年までに達成すべき最低賃金の水準として「全国最低800円、全国平均1000円」という目標が設定された。その結果、最低賃金は、都市部を中心に大きく引き上げられるようになり、2ケタの伸びを示すようになった。

このように最低賃金政策は近年大きな変化を経験したが、それ以前においては分析対象としての最低賃金への関心も限定的であり、海外の研究成果についての紹介、日本における最低賃金に関わる経済分析の蓄積、最低賃金を巡る政策論議はいずれも十分とはいえない状況であった。そのため、政策決定に当たって、エビデンスに基づいた綿密な議論が必ずしも行われてこなかったのも事実である。 本書は、こうした状況を打破するため、内外の最低賃金に関する理論的、実証的な研究を包括的に紹介し、こうした研究の到達点がどこにあるのか明らかにしている。その上で、近年の政策変化の影響を分析することが可能な、いくつかの異なる大規模なミクロ・パネルデータを使って、最低賃金に関する包括的な分析を行い、日本の最低賃金およびその政策のあり方について正面から政策提言を行うことを目的としている。

本書の構成と内容

第1章(鶴論文)では、海外や日本において行われてきた最低賃金に関する理論的、実証的な研究を包括的に紹介し、こうした研究の到達点の鳥瞰図を示している。政策的なインプリケーションとしては、(1) 最低賃金変動の影響を受けやすい労働者へ絞った分析は、ほぼ雇用へ負の効果を見出していることから、最低賃金を引き上げる際にも、なるべく緩やかな引き上げに止め、特定のグループが過度な負担を負うことがないようにすること、(2) 雇用のみならず、所得分布、労働時間、収益、価格、人的資本への影響を分析し、総合的な評価を行うこと、(3) 日本においてもエビデンスに基づいて最低賃金に関わる政策判断を行うような専門組織を検討すること、などを挙げている。

第2章(川口・森論文)は、厚労省「賃金構造基本調査」、総務省「労働力調査」などの個票データを用いて、2006~2010年までの県別パネルデータを構築し、2007年の最低賃金法改正以降の最低賃金引き上げの労働者への影響を分析した。特に、最低賃金の影響を最も強く受ける10代男女労働者に焦点をあて、(1) 賃金については、最低賃金の10%の上昇が下位分位の賃金率を2.8~3.9%引き上げること、(2) 雇用については、最低賃金の10%の上昇は10代男女の就業率を5.25%ポイント減少させる効果があること、を示した。10代男女の平均就業率は17%であることと比較すると、これは約30%の雇用の減少効果であり、若年労働者に対する雇用減少効果は大きいといえる。

一方、最低賃金上昇は、労働者のみならず、企業への影響も忘れてはならない。第3章(奥平・滝澤・大竹・鶴論文)は最低賃金の引き上げと企業の負担との関係をみるために、大規模な事業所ベース(経済産業省「工業統計調査」)の個票データを用いて、各事業所の労働に関する限界生産物価値を推定し、その限界生産物価値と賃金率の乖離である「ギャップ(=労働の限界生産物価値-賃金率)」が最低賃金の変動によって、どのような影響を受けるかを検証した。分析の結果、(1) 最低賃金が上昇した場合、企業は雇用量の削減か負のギャップの拡大という形で対応し、(2) 負のギャップの拡大はその後、4年程度は持続していることが分かった。最低賃金の増額によって企業内部の資源配分の効率性が阻害されている点で企業の負担は増加しているといえる。

第4章(森川論文)も最低賃金の企業への影響を分析している。企業パネルデータ(経済産業省「企業活動基本調査」)を用いた推計によれば、(1) 最低賃金が実質的に高いほど企業の利益率が低くなる関係があり、この影響は平均賃金水準が低い企業ほど顕著である、(2) 産業別に分析すると、サービス業において最低賃金が企業収益に及ぼす影響が大きい、との結果を得ている。また、地域別の最低賃金水準の違いを人口の多い大都市ほど生産性も賃金も高いという「集積の経済性」と地域別の物価水準から検証し、(1) 近年、物価水準の地域差を補正した実質最低賃金の格差は縮小しているが、(2) 人口密度の低い地域では最低賃金が相対的に割高となっていることを示した。これは高めの最低賃金が経済活動の密度が低い地域の活力に負の影響を持つ可能性を示唆しているといえよう。

第5章(森論文)は、これまでの章の分析とは異なり、経済実験を行い、最低賃金と労働者の努力水準(やる気)の関係を明らかにした。まず、第1に、もし失業がなく全ての労働者が働いている場合は、最低賃金は(同じ賃金に対する)努力水準を下げる。これは、最低賃金が存在すると、基準となる賃金が高くなり、同じ努力をさせるにはより高い賃金が必要となるためと考えられる。第2に、労働者が企業に雇用を断られ失業する可能性がある場合は、最低賃金は努力水準を変えない、もしくは上げる効果がある。失業がある場合は、最低賃金があったとしても失業という最も悪い状況は変わらないため、基準が高くなる効果がなくなるか、加えて、最低賃金により失業率が上昇することが、努力水準に正の影響を与えているためと考えられる。

以上は、主に最低賃金の労働者や企業への影響に着目した分析であったが、最低賃金を巡る政策の決定プロセス、あり方に関する分析も重要である。

第6章(玉田・森論文)は、最低賃金制度の歴史の概観、中央最低賃金審議会が示す最低賃金の目安額、各都道府県の地方最低賃金審議会が決定する引き上げ額の決定要因についての分析を行った。分析の結果、引き上げ額は、地域別の消費支出額、賃金上昇率などは影響を受けないが、目安額におおむね従っていることが明らかになった。地域別最低賃金は地方最低賃金審議会が決定しているが、地方最低賃金審議会は目安額を参考としつつも、これまでより地方の状況を反映した引き上げ額を決定すべきであろう。また、生活保護基準は地域毎の消費実態を必ずしも反映しておらず、2013年度予算案で生活保護基準の引き下げも妥当と評価できる。

最後に第7章(大竹論文)は、最低賃金制度が貧困対策として有効か否かを、教科書的な労働市場のモデルと最近の実証分析をもとに議論している。特に、日本では、90年代終わり頃から、最低賃金が日本の労働市場に影響を与え始めたとされている。しかも、その効果は、雇用にマイナスの影響を与えているというものが多い。最低賃金の引き上げは、短期的には財政支出を伴わない政策であるため、貧困対策として政治的に好まれるが、最低賃金水準で働いている労働者の多くは、500万円以上の世帯所得がある世帯における世帯主以外の労働者である。このように、最低賃金は貧困対策としてはあまり有効でない政策であり、深刻化する子供の貧困に対応するためには、子供にターゲットを絞った、給付付き税額控除や保育・食料・住居などの現物給付の充実が効果的と結論付けている。

まとめ

以上をまとめると、最近の各種大規模ミクロデータを使った分析においても、(1) 最低賃金の影響を受けやすい労働者(10代若年)に限れば、最低賃金上昇の雇用への負の効果は明確である、(2) 最低賃金の企業収益への負の効果も明確である、(3) 最低賃金引き上げは比較的裕福な世帯主以外の労働者にも恩恵があるという意味で貧困対策としては漏れがある、ということが分かった。

本書の各章については、2012年の9月に経済産業研究所におけるワークショップにおいて行われた報告に基づくものであり、そこに出席していた多様な立場の研究者からも、上記の基本的な事実、認識について異論はなかったと理解している。しかしながら、最低賃金政策を批判するのであれば、その代替策として低賃金労働者の賃金を高め、生活を保障する政策を早急に検討せねばならない。給付付き税額控除は大きな利点を持つが、その導入のためには財源などいくつかの課題があるのも事実である。日本の税制は80年代後半からフラット化したが、高額所得者への累進課税を強化し、その税収で対貧困対策を行うことも選択肢の1つだ。一方、他の対貧困政策に対する国民の抵抗が大きいのであれば、やはり最低賃金の引き上げに戻ることもありうる。いくつかの対貧困政策と比較し、その効果と政治的実現可能性をセットで考えることが重要であろう。

最後になったが、本書を生む母体となった(独)経済産業研究所の「労働市場制度改革」プロジェクトは発足から7年目を迎えた。これまでと変わらぬ理解とサポートをいただいてきた中島厚志理事長、藤田昌久所長を始めとするマネジメント、スタッフの方々にお礼と感謝の言葉を申し上げたい。また、本シリーズも4冊目を迎えることができたのはひとえに編集の齋藤博氏の変わらぬ熱意とご尽力によることが大きい。改めてお礼を申し上げる。

2013年6月

編者を代表して 鶴 光太郎

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