ブレイン・ストーミング最前線 (2004年5月号)

日本の産学連携と大学改革の進展

磯谷 桂介(※) 文部科学省研究開発局地震・防災研究課長

はじめに

現在、「産学連携」が脚光を浴び、政府の提言や報告書などで取り上げられていますが、「産学連携」と「大学改革」が同じ土俵で論じられているように思います。例えば、3年前から内閣府を中心に産学官連携サミットが開かれていますが、そこでも「産学官連携を進めるためには大学改革が必要である」とか「国立大学を非公務員化すると産学官連携もうまくいくのではないか」というような議論がずっとされてきました。

1990年代半ば以降の日本の「産学連携」の進展が、政府による国立大学の改革(ここでは「大学改革」と言いますが)の推進力となり、2001年以降、政策において「産学連携」と「大学改革」が合流したと考えています。本日の話題提供の中では、「産学連携」については連携の当事者としての企業と大学、それに影響を及ぼす政府や仲介組織、「大学改革」については「政府」による主に「国立大学」の「制度」や「規制」の改革と捉えています。

産学連携とは何か

日本で使われる「産学連携」という用語は使う人によって意味合いが異なってくる、非常に曖昧でシンボリックな用語です。例えば、産学官連携サミットではスローガン的な用語として使われますし、地方公共団体と中央政府でも意味内容が少し違います。日本では1960年代は主に研究面を対象として「産学協同」という用語が使われ、90年代になり、政府の報告書などで「産学連携」という用語が使われるようになりました。私は産学連携を「産業界と学会という異なるドメインに所属する組織または人材が、ドメインを越えて、知識や技術に関して、ある一定の期間に意図的に協力する、インターラクティブなプロセス、またはこれを促進する仕組み」と定義しています。

知識社会における産学連携

知識社会(「知」が経済的な競争力の源泉とみなされ、生涯にわたり学習する知的な労働者が支える社会。ここでは、あえて「学習社会」と合わせています。)の到来により、世界的な傾向として、各ドメインの「産学連携」への参加・関与の動機が高まってきています。

まず産業構造・企業経営の変化として、(1)産業における「知」の価値向上(例「知識集約型産業」)と(2)経営における「アライアンス型」の普及、即ち「知」の創造と活用を「産学連携」という1つのツールによって達成していく可能性が出てきたことにより、「産学連携」に対するモチベーションが高まったのではないでしょうか。

さらに、学のドメインでは、学術研究、高等教育が大きく変化してきています。研究スタイルとしての「産学連携」を積極的に受け入れる理論やモデルが提唱されていますし、教育面では多くの学生の就職先であり、また知的な労働者を抱える産業界の大学教育への期待に応えて、大学が技術革新に対応できる人材の育成に取り組んでいます。即ち、大学(知を創造し、知的な人材を養成する組織)は組織として「社会貢献」を以前より重視するとともに、教育・研究のプロセスからアウトプットまでの全ての局面での社会(特に産業界あるいは職業)との接点が強くなります。

また、政府の政策においても、中央政府は知識社会での国際競争力確保のための「ナショナルイノベーションシステムの構築」、産学連携による「科学・技術駆動型のイノベーション」の推進、「知的財産権」保護強化・活用促進に力を入れ、地方政府はテクノリージョン、インダストリアルクラスターなどを打ち出しています。

1990年代前半までの日本の産学連携と大学改革

ここで、歴史を振り返っておきましょう。

戦前は、政府主導の「大学」整備が行われました。戦後、占領軍の統治下、高等教育が一元化され、ほとんどの高等教育機関が「大学」になりました。1980年代の臨時教育審議会(臨教審)以降、大学審議会が設置され、大学の問題が専門的に議論され、その結果を踏まえて文部省が大学改革を進めていくというスタイルができ、少しずつ改革が実行されていきました。

大学の学術研究は文部省の管轄でした。大学以外の科学技術行政の調整や一部実施は、1959年にできた科学技術庁が行っていましたが、実質的には関連の事業団を通じて大学の扱うような研究にも食い込んでいました。1974年以降は、文部省内部でも大学行政と学術行政が別の局へ分かれました。

1980年代は、通商産業省あるいは文部省を中心にさまざまな政策が打ち出され始めました。例えば、テクノポリス構想や国立大学共同研究制度により、民間からの資金で大学と企業が共同で研究し、その成果を企業に移転するという仕掛けができました。最初は箱モノ整備であったと、いう批判もありますが、産学連携を支援する人材が育ったことは確かです。90年代前半には18歳人口が減り、またいわゆるバブル経済も崩壊します。それに伴い、私立大学、各地域での産学連携の実践が広がりました。

産学連携関連施策の急速な拡大と「大学改革」への接近・合流

「産学連携と大学改革の合流」への胎動のきっかけになったのは、1995年の科学技術基本法あるいは96年の科学技術基本計画だと思います。これにより、各省庁、特に通産省が産学連携関連施策を打ち出し始め、文部省の大学政策や大学改革自体に接近するようになりました。

具体的には、95年に通産省は大学等連携推進室を設置し、98年にはTLO(Technology Licensing Office)という形で技術移転の観点でのひとつのスキームが実現します。ファンド面では地域コンソーシアムなどを打ち出しました。これらは第一期の基本計画に含まれており、計画が着実に実行されていったことを示しています。科学技術庁は大学と地域をターゲットにした事業を開始しました。文部省も「産学連携」に関連する施策を打ち出していきました。このような産学連携関連施策が進むと、教員兼業、研究契約、知的財産権の取り扱い、などの制度的問題に必ずぶつかります。そこで「大学(の制度)改革」が必須になります。

1995年以降、「開かれた大学システムへ」の流れが見られるようになり第三者評価システム等が導入されました。当時は、いわゆる「護送船団方式」(旧帝大をトップとする国立大学全体への目配り)からの脱却、「競争的環境」へ、ということが言われ、科学研究費補助金を中心とするルールに基づいた資金配分が必要であるとされました。

このように科学技術基本計画により、「科学技術」を「産学連携」というツールによって、究極には「経済の発展」につなげる、というロジックが政策関係者に共有され、関係省庁が「基本計画」という同じ土俵に参入して産学連携施策を競い、その結果、産学連携施策を拡大しました。「科学技術」の多くは、実際には「大学」が担っていますが、「産学連携」による「経済の発展」と言う観点から、大学が基本計画の実施プロセスに巻き込まれ、その過程で産学連携施策が大学改革へ接近しました。それは、01年以降の第二期科学技術基本計画でより明確になり、総合科学技術会議体制により強化され、流れが加速しました。第二期基本計画では、国際競争力があり持続的発展ができる国の実現のために、産業競争力の強化が必要とされ、産業技術力の強化のために、特に産学官連携の仕組みの改革が不可欠であることや、大学改革の必要性と方向性が提起されています。

総合科学技術会議体制の下では、あるテーマのもとに関係省庁の担当官が呼ばれ、専門委員会等で有識者の前で各自の施策を話すことになります。そこでは、アイディアの出し合いやシーソーゲームのようなことが行われるとともに、各省庁間の壁はかなり取り払われたように思います。

それでは1990年代後半から、「産学連携」と「大学改革」が接近した背景には何があったのでしょうか。一番目に日本の政治・行政状況の変化、即ち競争と透明性(情報公開)を原理とし、「変化」を前提としたトップダウン式の迅速な決定がされるようになったことがあげられます。二番目は日本の産業構造や企業経営の変化です。バブル経済崩壊後、企業は年功序列制賃金・終身雇用に支えられた教育(人材育成)・研究の「自前主義」からの脱却を余儀なくされました。さらに三番目は大学への外圧です。若年人口の減少、卒業生の就職難、国家財政の悪化などの結果、大学はサバイバル競争とアカウンタビリティが求められるようになりました。

日本の地域の変化と産学連携

地域における文化・産業振興の考え方・手法にも変化がみられます。地方公共団体は、従来の企業誘致だけではなく、自らの地域で産業を育てることの必要性から、コーディネーター型の活動を重視するようになり、また理工系公立大学の整備に取りかかりました。住民からの新しい「公共」への期待から、「産学公民」連携ということも言われるようになっています。

知識社会が示唆する今後の産学連携の発展

さて、1995年を境に、政策面で日本の産学連携が急速に進展し、ルールや契約に基づく産学連携が台頭してきました。産業界全体で見ると産業界から大学への資金提供の点などで本格的とは言えませんが、企業も徐々に産学連携に積極的な姿勢になっています。

ただし、経済活性化の観点から、研究面の産学連携への過大な期待が置かれているのではないか、あるいは「大学改革」の正当性のための「産学連携」となっているのではないか、など今後留意すべき点はあります。

ここで、今後の日本の産学連携と大学改革の方向性を示したいと思います。(1)経済活性化のための産学連携、(2)企業の技術提携戦略のための産学連携、(3)知的財産の創造、活用、蓄積・継承のための産学連携、(4)社会的存在としての「大学」における教育・研究の発展のための産学連携、(5)知識社会の基盤・文化を形成するための産学連携、このような流れがお互いに関連しながら、進んでいくだろうと考えています。また、この動きに「大学(改革)」は影響されていくでしょう。

当面は、前述の(1)の観点からの「産学連携→『知』の創造と活用に貢献→イノベーションの実現→経済成長」の命題に基づく各ドメインでの動きが続くでしょう。適用に当たっての分野別・研究特性に応じた実行・ファンディングにも留意が必要です。知識社会の中で知が価値、財産になるということであれば、(2)の観点、つまり知的財産・知識財産を生み出す個人や組織の創造的活動とその「知的財産」の活用を進めるために、産学連携は今後一層重要性を増すでしょう。ただし、大学における学術的知財と産業的知財は重なる部分と、そうでない部分があります。今後も試行錯誤は続くと思われますが、大学はしっかりと情報発信をしていくことが必要だと思います。

大学経営の視点から大学の自律性を確保し、教育・研究を発展させるための「産学連携」という考え方については、産学連携ポリシー(知的財産ポリシー・利益相反ポリシーを含む)の確立、産学連携組織の整備、関連人材育成・確保も必要です。大学自身が「産学連携」においてどのようにポジショニングするかにより大学の社会での位置づけも外からよく見えるようになり、自ずと大学の多様化、種別化が進行する可能性があります。

また、日本の伝統的コミュニティは既に衰退・崩壊していると言われて久しいですが、地域コミュニティの形成は重要です。知識社会を支える「プラットフォーム」作りに大学も参加するということは、(中立的、先導的な存在としての)大学の役割・メリット(そして、知識社会の暴走を抑制する役割も)を発揮できるのではないかと考えます。

「産学連携多元モデル」の構築をめざして

知識社会で大学に期待される役割は、人材育成・学術研究を通じた長期的観点からの社会貢献と、日常的な産学連携への参加による短・中期的な観点からの社会貢献があります。そのバランスが大切であり、「大学」の特性への配慮が求められるところです。

あくまで、産学連携の本質は「異質・多様性」を許容する「場」におけるインターラクティブ・プロセスですから、先に述べた五つの方向性((1)広義の知的財産の創造、活用、継承・蓄積への貢献、(2)企業の技術連携戦略への貢献、(3)経済活性化への貢献、(4)優れた教育・研究を支える「大学経営」の確立への貢献、(5)文化的基盤形成への貢献)を包含した「産学連携多元モデル」が今後めざすべきモデルです。経済的観点と文化的観点が両立するようなイメージであり、経済活性化だけを通して知識社会における国家社会の発展を目指すというのではなく、各アクターがどこに重点を置くかを意識しながら進めていくことが必要です。

現在の日本は、「課題の共有」・「課題の個別検討」の段階を過ぎて、「試行錯誤、点検」から「新しいモデル形成」の段階(もはやスローガン的施策は適さない。)にあります。 また、政府主導の「大学改革」が個々の大学組織管理レベルでどのように反映されているか、また本当の意味での「大学主導の大学改革」のトリガーになるのか、という点が今後、研究課題として残されています。

まとめ

「明治維新(黒船:国際化へ)」、「戦後(連合軍:民主主義と経済大国へ)」に続く、「21世紀(IT革命・グローバリゼーションへ)」から知識社会に到る過程にどう日本社会、日本の大学が対応するかが重要です。上からの改革としての「大学法人化」ではありますが、大学が自ら組織や方針をデザインでき、自己改革できるチャンスでもあります。現実はそんなに優しいものではない、というご意見もあるかもしれませんが、その可能性はあります。日本の「セレンディピティ」を発揮し、日本の強みを活かした「産学連携多元モデル」の展開が可能であると思います。

(※)4月1日から東北大学総長主席補佐

※本稿は3月16日に開催されたセミナーの内容に一部加筆したものです。
掲載されている内容の引用・転載を禁じます。(文責・RIETI編集部)

2004年7月9日掲載

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