ブレイン・ストーミング最前線 (2004年3月号)

ハンガリーの成功体験-市場経済と民主主義への移行

シュディ・ゾルタン
元駐日ハンガリー大使館特命全権大使

ハンガリーの現状につながる歴史的背景

ハンガリーの現状を理解していただくために、少し歴史についてお話したいと思います。

今のハンガリーに最も影響を与えた出来事といえば、1956年のいわゆるハンガリー動乱、ハンガリー人にとっては革命、独立戦争で、わずか数日間の出来事でしたが、その後のハンガリーの発展、また世界に与えた影響も大きかったと思います。ソ連の戦車に制圧され、しばらくは抑圧の時代が続きましたが、1958年頃から共産党指導部もハンガリー国民との妥協を狙うようになり、いろいろな意味での改革が始まりました。その中でも一番大きかったのは、1968年のハンガリー経済運営改革です。この時から国営企業のマネージャーたちは経営について、自主的に判断できるようになり、利益が出ればマネージャーたちの収入も増えるということになりました。

もう1つ重要だったのは、農業改革が始まったことです。ハンガリーの農協はソ連のコルホーズとは違って、少なくとも形式的には組合員1人1人が土地をもっていたのですが、それまでは共同で使っていました。それが改革で1人1ヘクタール半程度の土地を自由に使っていいことになりました。できた作物は自由に売ることができたので、その結果作物の生産が伸び、食料輸出国になりました。店の前に行列ができていた、ほかの東欧諸国とはずいぶん違っていたと思います。

改革の進み方は必ずしも順調ではなかったのですが、1982年には東欧諸国の中ではいち早くIMF(国際通貨基金)に加盟しました。70年代の前半には外資導入の基本条件を設立して、日系企業の初めての投資は、1978年頃中央ヨーロッパ国際銀行がオフショア銀行として活動を始め、2、3年後に国内銀行として業務を始めたときで、邦銀二行のほかに独伊仏の銀行が出資しました。日本の製造業の会社がハンガリーに進出したのは1984年でした。

ハンガリーの改革は国際的にも大きな影響を与え、_小平も中国で積極的に改革を始める前に専門家のグループをハンガリーに送ってきていました。そこから農業から改革を始めなければならないという教訓を学んだのだと思います。ゴルバチョフもまだ若い頃、ハンガリーに1カ月ぐらい改革を勉強しに来たことがあります。

80年代の変化を振り返ってみますと、ハンガリーの改革なしに、ゴルバチョフの改革はなかっただろうし、ゴルバチョフの改革がなければ、ハンガリーでも完全な体制変換はなかっただろうといえます。

ハンガリーの改革運動を理解するために、もう1つ重要なポイントがあります。戦後まもなく行われた1945年の選挙、これはかなり自由な選挙だったのですが、共産党は17%の得票率でした。ハンガリーでは本当の意味での共産主義者はわずかだったのです。そして1956年の革命の失敗後、ヤルタ体制の中でなんとかやっていかなければならないという意識が強くなりました。その結果、共産党、正式名社会主義労働者党には多くの、本当は共産主義ではない人たちがはいりました。そういう意味で、国の指導者も含めて、共産党員が本当に共産主義だったとはとてもいえなかったのです。ハンガリーの伝統的な社民党も共産党と合併しましたし、そういう人たちが改革の支持者になって、段階的に共産党の中でも非常に強い改革派をつくっていきました。

ほかの東欧諸国でこれほど改革派が強い共産党は1つもありませんでした。どんどん改革を進めるうちに、反体制派の活動範囲も広がっていき、1987年頃からオープンに活動を開始して、共産党は1989年1月多党制民主主義を認め、56年の動乱も、正しいものだったという位置づけに変えられました。

89年の5月にはオーストリア国境の鉄条網もはずされました。鉄条網がはずされたあとは、ハンガリーから大勢の東ドイツの人が西側に逃げるようになり、当時まだ共産党系の政府だったのですが、逃げることを認めたのです。その結果、ドイツで大きなデモがおこり、それがベルリンの壁の崩壊につながりました。そういう意味でハンガリーは89、90年の東欧の改革に大きな貢献をしたと思います。

この89、90年の出来事はハンガリーにとっては革命(revolution)ではなく、進化(evolution)の結果でした。革命はそのあとに必ず不安定な時期がありますが、進化の場合はしっかりとした発展ですから、不安定な時期はありません。この時期に海外投資が集中したことも、そのためだったと思います。もう1つの理由は、ハンガリーでは早くから改革が始まったので、国営企業のマネージャーたちの考え方がだいぶ切り替わっていた点もあげられます。法律は切り替えられても、人の考え方はなかなか変わりませんから。ハンガリーでは68年から西側の経済理論も教えられていましたので、市場経済への移行がスムーズに進んだと思います。

経済的にはOECD(経済開発協力機構)への加盟が大きかったです。それから欧州評議会、NATO、EUにも1992年から準加盟となり、ヨーロッパとの間で農業を除いて自由貿易ができるようになりました。

ここで1つ強調したいのは、90年以後ハンガリー政府はいくつか交代しましたが、基本的な外交路線は同じだったということです。それはヨーロッパ、大西洋諸国の組織に加盟すること、隣国との関係を改善すること、隣国に住んでいるハンガリー系住民に対するサポートを強化することです。補足すると、ハンガリーは第1次大戦後領土を3分の2失った結果、近隣諸国にハンガリー系少数民族がいるのです。その400万近い人々との関係はとても重要です。

EU加盟を急いだ理由

2004年5月1日付けでハンガリーは正式加盟することが決まりましたが、なぜEU加盟が重要だったかということについてお話します。

まず、準加盟だとEUの重要な決定に関われません。たとえば今EUでは薬品の特許の期間を6年から10年にするということが話し合われているのですが、ハンガリーでは薬品に対して国から補助がでているので、今より4年も余計に薬の値段が高いままなのは困るわけです。また薬品は国の主要産業の1つということもあり、なんとか期間を短くできないか、働きかけているところです。そういう決定に影響を及ぼすことができるのは、EU加盟の重要なポイントです。

またいろいろな資金の利用できる範囲が拡がります。加盟後は企業の経費も減ります。わかりやすい例は国境での検査がなくなることです。今は検査のため数時間待つことがありますが、たとえばドイツの東部に荷物を運ぶ時、スロバキア、チェコ、ドイツと3回国境を越えなければいけないので、その費用はかなりなものになります。

またEU加盟によって直接投資の増加を期待しています。慎重な会社は準加盟だとまだリスクがあるということで、投資が実現しなかったこともあるからです。

安定した政治、経済、社会

ハンガリーの現状の特徴としては、非常に安定していることが挙げられます。89年以来内閣、国会が任期いっぱいまでつとめているのは、ほかの東欧諸国では1つもないと思います。また政策も、その内閣の政党によって多少強調点が違っても、主なところは一貫していると思うのです。ハンガリーでは政党は最低5%の得票率がないと国会議員をだすことができませんので、この14年間極右、極左政党はほとんど国会議員をだせませんでした。それも政治の安定の重要な要素だと思います。

経済の安定については、95年に危機的な問題がおき、政府がとても厳しい緊縮政策を導入して、96年以降は3~5%という高成長率を保っています。これはヨーロッパのなかでは1、2位を争うものです。一番高い時で98年の5.3%、今年はおそらく2.9%程度だと思います。

生産性も重要な問題です。東欧の中ではハンガリーの生産性は一番高い部類で、EU平均の7割近いところにあります。

また安定の重要なポイントの1つは、ハンガリーはほとんどの企業が完全に民営化されているということです。銀行、保険、通信、エネルギー関係だけではなく、水道、下水道にいたるまで民営化されています。今の政府は国鉄や郵便の民営化も狙っていますが、投資家にとって一定の利益が得られないと、それは難しいようです。郵便については2、3年後に一部民営化が予定されており、国鉄に関してはまだ何も決まっていません。国が経済に変に口出ししないほうが安定するようです。

ハンガリーのインフレは段階的に下がっています。95、96年頃は31%ぐらいのインフレ率でしたが、どんどん下がってきて、今4.7%ぐらいです。

安定のもう1つの重要な要素は社会的安定です。緊縮政策が導入されてから1年程で実質賃金が16、17%近く減ったのにもかかわらず、この14年間大きなストライキはおこりませんでした。労使関係がとてもいいのです。

ユーロ加盟については、2008年1月1日を予定しています。ユーロ加盟はEU正式加盟後にしか申請できません。ハンガリーは2004年5月に加盟してから申請し、その後2年間の待機期間があるので、早くても2006年ということになります。しかし、ユーロに加盟すると一部の経済運営を放棄しなければならないことや、インフレ率を下げたり、財政赤字を減らしたり、ということを考えて、政府は2006年では早いと判断したようです。

ハンガリーに投資すべき理由

EU準加盟国のなかで、なぜ日本がハンガリーを重視すべきなのかといいますと、まずハンガリーはとても信頼できる相手だからです。ハンガリーは重い債務負担があったときでも、日本をはじめ諸外国の投資家に対して、ちゃんと債務を返済しました。56年のハンガリー動乱のさなかでも日本の銀行に返済はつづけました。

2つめは、ハンガリーは東洋出身という意識があるので、とても親日的だということ。日本語教育も行われており、小学校1年から中学、高校、大学まで、数箇所で日本語が勉強できます。日系企業は工場だけで40社近く進出しており、ほかのサービス分野まで含めると百数十社になると思います。留学生もいますし、引退してからハンガリーに住んでいる人もいます。和食の店も20軒近くあります。2005年からは日本人学校もできる予定です。

投資環境は、部分的にみればブルガリアのほうが賃金が安いなどということはありますが、総合的にはハンガリーが一番だと思います。その理由を簡単に挙げますと、まず16%の法人税、これはヨーロッパではアイルランドに続いて安いということ、また様々な優遇措置もあり、条件によっては10年間100%免税もある点です。

次に、安いのに教育レベルの高い労働力があり、よく働くということです。ほとんど20年前の日本人と変わらないと思います(笑)。GMの工場を視察に行った時、ドイツ出身の社長がいうには、ハンガリー人の職員が会社の一番の財産だということでした。ドイツの労働者も評判がいいのですが、意欲の点ではハンガリーのほうが上だということです。日系企業での話では、アメリカとハンガリーに工場があるそうですが、ハンガリーのほうがアメリカより生産性が3割高いということでした。機械のメンテナンスがいいこと、それと教育レベルが高いので機械の故障にも自分たちで対応できるので機械がとまる時間が少ないということが、その理由です。また不動産が安いこと、インフラがヨーロッパの真ん中なのでいいことなどもあります。

またハンガリーは法律に透明性があります。株式市場の透明性もヨーロッパの中で非常に高く、汚職も少ないです。

研究開発機能も強いですし、ノーベル賞受賞者を13人だしています。

このように、ハンガリーには大きなビジネスチャンスがあるのです。

質疑応答

Q:

ハンガリーはチェコやポーランドに比べて、なぜ早くソ連の影響力から独立することができたのでしょうか。

A:

チェコでは68年にプラハの春、ポーランドでは56年、81年に事件がありましたが、チェコは68年以後厳しい共産主義になり、ポーランドはストライキが多く、なかなか方向性が定まりませんでした。なぜハンガリーがある程度の自由を認められたか、1つに外交関係ではソ連と協調していたので、そのかわりに経済の分野では一定の自由を認められていたのではないかと思います。83年のミサイル配備の問題まではハンガリーはソ連と同じ立場をとっていました。なぜかということは、私も100%わかってはいませんが、一種の実験だったのかもしれません。ハンガリーは小さい国ですし、ソ連軍も駐留していたのでいざとなればすぐ鎮圧できるということだったのではないでしょうか。

Q:

国営企業の民営化についてお聞きしたいのですが、今中国でも民営化が進んでいて、過去の不良債権をどうするかとか、法整備の問題とか、そういう課題をどのように乗り越えられたのでしょうか。また、通信や電力についても民営化するというお話でしたが、それは経済改革の計画プロセスにそったものなのか、EU加盟にあわせてのものなのでしょうか。

A:

民営化はEU加盟とは全く関係ありません。ハンガリーでは、国営企業は効率が悪いので、早く民営化しようという認識がありました。97年にはおもな民営化は終わりました。

ハンガリーでは、かなり厳しい破産法が91年に採択、実行されて、不良債権に関しては銀行に国がかなり資金を出しました。会社そのものは解散するか、民営化するかになりました。この破産法が1つのポイントだったと思います。

もう1つは民営化の方法で、たとえばチェコで行われたコープ方式は失敗だったと思います。ハンガリーでは市場ベースであった結果いいオーナーがでてきて、民営化が成功しています。たとえば、ハロゲンランプを日本にも輸出していたツングスラムという会社は初期に民営化されたもので、GEが買収した当初は、最初の2年間で従業員の数は半分に減りましたが、しかし現在はもとの従業員数の3、4割増になっています。合理化して生産性を高め、外資の投資も増え、研究開発費をかけて電球以外の分野にも進出しています。

本意見は個人の意見であり、筆者が所属する組織のものではありません。

※本稿は12月3日に開催されたセミナーの内容に一部加筆したものです。
掲載されている内容の引用・転載を禁じます。(文責・RIETI編集部)

2004年4月8日掲載

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