動きだした米抜きTPP――日本がアジアの通商交渉リードへ

山下 一仁 上席研究員

米の反グローバリズム

昨年の米大統領選ほど、貿易が問題にされたことはない。民主党の候補者を選ぶ予備選では、当初は泡沫候補だったサンダース上院議員が、TPPからの撤退など反グローバル化を唱えて多くの人の支持を得た。

本選挙で共和党のトランプ氏は、自由貿易と移民によって米国の雇用が失われたと主張した。共和党の候補が反自由貿易を唱えるのは、1936年以来だ。労働組合の支援を受ける民主党の金城湯池だった鉄鋼業など重厚長大型の産業が多いオハイオ、ペンシルベニア各州のラストベルトと呼ばれる疲弊した地域でトランプ氏は勝利した。

トランプ氏はTPPからの脱退を表明した。自由貿易を唱える共和党主流派の中でも不満は大きかった。上院のマコネル院内総務は、たばこ規制がISDS条項(投資家が投資先の国を国際仲裁裁判所に訴えられるという規定)の対象から外されたことを批判。TPP承認を担当する上院財政委員会のハッチ委員長は、医薬品業界の新薬データ保護期間が米国で規定する12年ではなく8年となったことを不満とし、それぞれTPPの再交渉を求めていた。自由貿易反対のトランプ氏と、TPPでは米国の通商上の利益が不十分だとする共和党主流派が、TPP反対という点で一致した。

現行のTPPは、日本と米国が参加しない限り発効しないとされているので、トランプ氏が大統領である限り発効は困難だろう。TPP以外でも、大統領選でトランプ氏は(1)日本がネブラスカ州の牛肉に38%の関税をかけるなら、日本車にも38%の関税をかける(2)為替相場を操作して米国へ輸出を増やしている中国には45%の関税をかける(3)北米自由貿易協定(NAFTA)については、フォード・モーターなどがメキシコに工場を移転して安い自動車を米国に輸出するようになった─などと牽制した。

トランプ氏の主張は常軌を逸しているが、選んだのは米国民である。これまでは、政治から忘れられていた、経済成長の恩恵を受けてこなかった多数の人たちの不満が、トランプ氏を大統領に押し上げた。大統領就任後も、これまでなら政権を揺るがすようなスキャンダルを繰り返し起こしているのに、これらの人たちのトランプ支持は揺るがない。

40年前の思考と現在のギャップ

トランプ政権の通商交渉に関する考え方は、80年代の日米貿易摩擦時と同じである。大きな貿易黒字を持っている国は不公正な貿易を行っているに違いないとか、米国車が日本で売れないのは問題であるといった主張である。トランプ氏は、彼が青年だった70年代から80年代にはやった古い時代の思考にとらわれている。

これには、日本政府としては反論材料をたくさん持っているはずだ。貿易収支の黒字、赤字はマクロ経済的なバランスから生じるものであって、貿易の障壁とは関係ない。また、2国間で貿易収支を均衡すべきだと言うのなら、日本に対して大きな貿易黒字を持っているサウジアラビアなどの産油国は不公正な貿易を日本に対して行っていることになる。米国車が売れない理由が知りたければ、東京に来て、「あなたは米国車を買いますか」と聞くだけでよい。

より本質的には、世界の貿易や経済が大きく変わっていることを不動産業者のトランプ氏が理解していないことである。かつては、部品から最終製品まで一国内で生産され輸出されていた。しかし、今では世界経済はグローバルなサプライチェーンでつながれている。東日本大震災で東北の塗料工場の生産ができなくなると、米デトロイトの自動車工場の生産がストップした。今や国際貿易の6 〜7割は部品である。トランプ政権がミシガン州の自動車労働者の雇用を守ろうとしてメキシコの工場で造られる自動車の関税を上げると、メキシコに部品を輸出している米国企業の雇用が失われることになる。今や純粋な米国製品や中国製品などどこにもない。このためFTA交渉では、域内の産業が関与したどの範囲の製品に低関税を適用するのかという原産地規則が重要なイシュー(課題)となるのである。

仮に、トランプ政権の通商政策が成功して、メキシコの雇用を奪う効果が生じたら、メキシコからより多くの移民がやって来る。国境を隔てる壁の費用をメキシコからの関税で払わせるとすれば、負担するのは高い商品を買わされることになる米国民である(関税が輸入禁止的な効果を持てば持つほど、輸入が減少するので関税収入も少なくなるというジレンマも生じる)。

トランプ政権は議会に提出した通商政策の年次報告で、米国に不利なWTOの判断が出ても拘束されないと表明した。米国がWTOに約束している関税は低く(例えば自動車で2.5%)、45%のような高い関税はほとんどない。トランプ氏が大統領選中に主張したように、米国が中国のみに一律45%という関税をかければ、WTO協定でモノの貿易を規定しているガット(関税貿易一般協定)の第1条(どの国も同じように扱うという最恵国待遇の原則)および第2条(約束した税率を上回らない)に明白に違反する。

中国が米国の措置をWTOの紛争処理手続きに提訴すれば必ず勝つ。米国は、WTOから是正勧告を受ける。今回の米国年次報告は、この勧告に拘束されない、つまり一律45%の関税は撤回しないと言っている。これ自体はWTO上、許される。違反していても是正する必要はない。国際法秩序の下では、主権国家に特定の行為を強制できる国際権力は存在しない。その代わり、WTOは訴えた国に対抗措置を打つことを認めている。中国は米国からの輸入品の関税を大幅に引き上げることが可能となる。

実は、米国の綿花事件、欧州連合(EU)のホルモン牛肉事件などのように、WTOで敗訴しても報復措置を許容する代わりに、是正措置を講じていない例はたくさんある。今回の報告はこれまでの米国の行動を是認しただけだと言える。

米中双方の高関税が維持されたままとなると、両国間の貿易が大幅に縮小する。しかし、自由な経済活動はこのような高関税を回避して目的を遂げようとする。中国企業は中継地であるA国に輸出し、そこから米国に再輸出すればよい。米企業も同様のことを行うだろう。政策が生み出すゆがみは、自由な経済活動によって是正される。

日本のようにほとんど関税を課していない国は、こうした場合の中継地として最適である。日本経由で中国産品が米国に輸出されれば、米国は迂回措置だとして日本に中国に課したのと同様の高関税を課そうとするだろう。そうなると、日本のWTO提訴により、日米間でも米中間のように高関税を課し合うことになる。

これが、次の経済連鎖を生めば、米国と世界の主要国との間の関税が高くなる。米国については、その輸入も輸出も高い関税が適用されるということである。もちろん、それ以外の2国間の貿易(例えば日本と中国の間など) はこれまで通り、WTOで約束された低い関税が適用される。世界中が低い関税で自由貿易を行っている中で、米国だけが孤立して保護貿易をすることになる。米国産品は売れないし、米の消費者は高い価格を払うことになる。“米国第一”の政策が自国を苦しめることになる。

拒否すればよい日米FTA

トランプ氏はTPPのような多くの国が参加するメガFTAではなく、2国間のFTAを推進しようとしている。その方が、米国の要求を押し付けやすいと考えているようだ。

80年代に日本が苦しい交渉を強いられたのは、冷戦下で米国の要求を聞かざるを得ない政治状況があった上、コメや牛肉など重要な農産物をガット違反の輸入制限で保護していたという弱みがあったからである。このような事情は消滅した。さらに、WTOという国際法秩序が確立し、超大国の理不尽な要求をはねつけるよりどころができた。米国が検事兼裁判官となって気に入らない国に制裁を一方的に加える通商法301条に、80年代の日本はおびえた。しかし、WTOはその紛争処理手続きを経なければ対抗措置は打てないとして、通商法301条を否定した。

日米FTA交渉を求められても、日本は拒否すればよい。日米FTAは望ましくないと、米国を諭すのである。第1に、TPPはアジア太平洋経済協力会議(APEC)地域全体の自由貿易圏(FTAAP)実現に向けた取り組みの1つとして位置付けられてきた。APEC首脳が約束してきた道から外れて、2国間のFTAを目指すことは適当ではない。第2に、2国間のFTAが重なると、多数のルールや規則が錯綜し混乱する。これをバグワティという著名な国際経済学者は「スパゲティボール」と呼んで批判している。メガFTAでは、参加する多くの国の間でルールや規則が統一されるというメリットが生じる。日本はこれらの筋論を展開すればよい。

日本政府はようやく、米国抜きのTPP11を推進することを決断した。昨年夏以降、私がたびたび主張したことが、政府部内でもコンセンサスになったようだ。

米国抜きのTPPという私の提案に対して、昨年末まで日本政府は米国が参加しないTPPは意味がないとか、米国市場へのアクセスを条件に他の分野での譲歩に応じた国は再交渉を求めることになるとして、やりたくない理由を並べ立てていた。

しかし、TPP交渉で日本が農産物の関税撤廃に応じなかったため、日本は米国市場へのアクセスをほとんど拡大できなかった。米国の自動車関税は、現行2.5%の乗用車の場合、15年目から削減を開始し2.25%となる。そして20年目で1.25%に半減、25年目に撤廃される。25%のトラックは、29年間関税を維持した上で、30年目に撤廃する。米韓FTAで、韓国車に対する米国の関税は2017年に撤廃される。日本車は、気の遠くなるような長期間ハンディを負いながら米国市場で競争することになってしまった。

ただし、米国がTPPに参加しなくても、日本企業はこれまで通り米に輸出できる。マスコミや政治家だけでなく経済界の中にも、TPPがないと米国に輸出できなくなると考えている人が意外に多い。

TPPでアクセスが拡大するのはアジアの市場である。これは、高い関税で保護されてきた途上国の工業品市場だけに限らない。公共事業などの政府調達も多くの国で開放される。日本のゼネコンには朗報だろう。貿易円滑化の一環として、急ぎの貨物の場合、通関開始後6時間以内に受け取り可能となる規定がTPPで設けられた。これは、アジア太平洋地域の物流ネットワークの構築に大きく貢献する。

TPP11について潮目が変わったのは、日米FTA交渉を求めるというトランプ政権のスタンスが明らかになったときからだろう。政府は日米FTAになれば、農産物でTPP交渉以上の約束を求められると心配し始めた。TPP11を先行させれば、米国が38.5%の関税を払わなければ日本に牛肉を輸出できないのに、カナダ、オーストラリアは9%の関税を払うだけでよい。同じことが、小麦、豚肉、ワイン、バター、チーズ等で起きる。

米国の農産物は、日本市場から駆逐され雇用は失われる。日本がワイン、豚肉、チーズ、パスタなどの輸出国であるEUともFTAを結べば、米国の対日通商交渉の立場は決定的に悪くなる。似たようなことが他のTPP加盟国の市場でも起きる。

米国はTPP11協定に加入申請をせざるを得なくなる。このときTPP11加盟国は、米国の要請を一切考慮する必要はない。他方で、日本車への関税即時撤廃など、TPP11既加盟国の要求は受け入れなければならない。米国はTPPから脱退したため、日本が米国に認めたコメ7万トンの特別輸入枠は削除される。将来米国が加入を要請してきても、この枠を認める義務はない。

国内的には、民進党など野党がTPPに反対する理由はなくなる。TPP反対論はほとんどが“米国怖い病”だった。ISDS条項を使って米企業に日本政府が訴えられ、医療や食品の安全等の規制が修正されるという主張も米国が再加入するまでは根拠を失う。

TPPに署名したベトナムは、米市場への繊維製品アクセス拡大の見返りに国有企業改革で譲歩したのでTPP11には消極的だといわれてきた。しかし、米国抜きのTPPは米をTPPに復帰させるための手段なので、実際に復帰すれば、ベトナムの懸念はなくなる。このような私の主張を基に、ベトナムを説得したのだろう。ベトナムもこの6月、積極姿勢に転換しTPP11への障害が取り除かれた。

米国抜きでも、TPP協定が実現した高いレベルのルールは、将来的に多くのメガFTAやWTO交渉での参考となるし、カナダ、豪州、メキシコなどの比較的大きな国が参加するので、スパゲティボール現象を緩和することができる。しかも、TPPには韓国、台湾、フィリピン、インドネシアなど、多くの国や地域が参加したいと表明している。中国も参加したいと言いだせば、米国は地政学的にも困難な状況に直面することになる。米国が入りたいと言うのであれば、認めてやればよい。

北朝鮮問題への中国の協力を期待して、トランプ政権は通商問題について大きなアクションを取ることを見合わせている。日米FTA交渉を求めるとしても、しばらく時間がかかるだろう。米国が通商交渉についての戦略を持つようになる前に、TPP11や日EU自由貿易協定を妥結するのである。

変わる米国と日本

トランプ氏は、地球温暖化に関するパリ協定から脱退を表明した際、雇用を確保するための米国第一を表明し、ラストベルトのピッツバーグ市(ペンシルべニア州)の支持に応えるのだと言った。これに、ピッツバーグ市長は猛然と抗議した。大統領選挙でピッツバーグ市民はトランプを選んでいないと言い、パリ協定の支持を主張したのである。

トランプ氏は、ピッツバーグをさびれた鉄鋼業の町だと思い込んでいるようだ。しかし、ピッツバーグは医療、教育、金融を中心とした町に変身した。ピッツバーグ大の医療センターは従業員5万5000人、売り上げ1兆円超の巨大な医療集積機関となっている。鉄鋼業と共に低迷したスティーラーズというフットボールチームも再生し、06、09年のスーパーボウルを制した。

今や、米国の製造業の国内総生産(GDP)シェアは1割程度に低下し、医療や金融などのサービス産業が8割を占めるようになっている。自動車産業から抜け切れなかったデトロイト市の財政は破綻した。トランプ氏も、ラストベルトの支持にいつまでも頼ってはいられないだろう。そのときは、TPPに新たな動きが出てくるに違いない。

逆に、常識的かつ穏健派だったオバマ前大統領と異なり、トランプ氏が日本の減反補助金をWTOに提訴したり、FTA交渉でコメなどの農産物関税撤廃を要求したりすれば、国際価格よりも高い価格は維持できなくなる。消費者は農政の負担から解放されるし、農業にも新たな飛躍のチャンスが到来する。トランプ氏の下でも、わずかだが一筋の光明(シルバーライニング)が見える。

時事通信社『金融財政ビジネス』2017年7月3日号に掲載

2017年7月18日掲載

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