その資本主義、新しい?

鶴 光太郎
プログラムディレクター・ファカルティフェロー

岸田文雄政権の経済政策のキーワードは「新しい資本主義」だ。これまでの資本主義が生んできた様々な弊害を是正する経済社会改革に挑戦することで、成長と分配の好循環を実現し、資本主義がもたらす便益の最大化を目指すことを目標としているようだ。

政権が「新しい」という言葉に当初、特に込めていたのは分配戦略の重視であった。しかし、賃上げ、人への投資、中間層の維持といったその具体策は、これまでの政権も取り組んできたテーマであり、目新しさがあるわけではない。新しさを強調するのであれば、新しい資本主義の位置付けやロジックなどは再考する必要がありそうだ。

◆◆◆

筆者が新しい資本主義の中で示されている具体策として特に重要と考えるのは、賃上げ、人への投資、気候変動問題への対応である。新しい資本主義はヒトが大事であり、社会的課題への対応も必要ということであれば、株主のみならず多様な利害関係者に配慮する「ステークホルダー資本主義」なのではないかという意見も聞かれる。

しかし、ステークホルダー資本主義は1980年代まで隆盛を極めた従来型の日本経済システムを象徴する概念でもあり、これにも新味はない。筆者が危惧するのは、最近の風潮として、ステークホルダー資本主義が株主資本主義や市場主義の対立概念として語られ、理解されがちな点だ。

株主資本主義の否定は企業が利潤最大化、ひいては企業価値の最大化を怠ることを意味し、そのような企業は必ず市場で淘汰されることになる。これが資本主義の鉄則である。

しかし、従業員を含めた他のステークホルダーに配慮したり、さらにそれを進めて社会貢献を考えたりすることは、企業の利潤最大化行動と必ずしも矛盾するものではない。これを明確に説いたのは、ノーベル経済学賞受賞者でフランス経済学界の大御所、ジャン・ティロール氏だ。議論のポイントは、企業の時間視野の長さである。

例えば、従業員への投資はその時点では企業のコストになるが、ある程度の期間が経過し、従業員のスキルやパフォーマンスに反映され、企業の利潤に結び付くことになる。社会貢献も企業が恩恵を受けるのはもっと先になるかもしれないが、十分な期間をとれば、企業への信頼・評判を高める効果があることで企業の利潤最大化と両立しうる。つまり、ステークホルダーへの配慮は長期的な利益も重視するという、異時点間の利益最大化の問題として捉えることができる。

企業にとってより多くの利害関係者を考慮することは、経済学の用語でいえば外部性として扱っていた彼らの利害を企業が内部化することを意味し、時間視野も長くなる。利害関係者をどこまでも広げていけば、時間視野も永遠に近づいていく。それは国民全体の厚生を最大化するという点で、企業ではなく政府に限りなく近づくことを意味することには留意が必要だ。

従って、ステークホルダー資本主義は長期的な視野からの利潤最大化、株主資本主義は短期的な視野からの利潤最大化に対応すると整理できる。高度成長期から80年代までの経済システムは、安定的な経済成長のもと、ゲーム理論でいうところの(無限回)繰り返しゲームに擬される長期・相対的取引をベースにしていたが、それが長期的視野を前提に、また、可能にしたといえる。こうした見方は逆に80年代の米国の株主至上主義が短視眼的と批判されたことと符合する。

このように考えると、政権の課題解決と整合的で企業価値最大化とも矛盾しないステークホルダー資本主義は、たとえ新味がなくても推進すべきと考える向きもあろう。しかし、ここで問題になるのは、日本企業が経済の低成長や増大する不確実性でかつてに比べて長期的視野が持ちにくくなっていることだ。

日本企業で長期的に人への投資が減少していることはよく指摘されるが、時間視野短期化と関係がありそうだ。今の日本では、長期的視野を前提とした従来型のステークホルダー資本主義を目標に掲げることは、難しいかもしれない。

一方、大きな時代・環境変化の中で、時間視野の長さに依存しない「ステークホルダー資本主義2.0」ともいうべき「新しい資本主義」の胎動を感じることも増えた。例えば、今、日本の超優良企業では、働き方改革をさらに進化させ、従業員のウェルビーイング(肉体的、精神的、社会的に良好な状態)を高めることで企業業績を高めようとする取り組みが広まっている。これはやりがいやワークエンゲージメント(熱意、活力、没頭)といった要素も含む広い概念だ。

筆者は滝澤美帆学習院大学教授、山本勲慶応義塾大学教授とともに、トップ上場企業を主な対象とした「スマートワーク経営」調査などを使って、従業員のウェルビーイングの決定要因や企業業績への影響を分析し、その重要性を示す結果を蓄積してきている。

例えば、従業員のワークエンゲージメントが高い企業は利益率も高いという傾向がある(図参照、特に売上高利益率)。また、健康経営の取り組みは企業業績を高めるという分析結果もその好例だ。従来型の能力開発などの人への投資に比べ、ウェルビーイング向上のメリットの回収期間はより短くなっているという印象を受ける。

図:従業員のワークエンゲージメントが高いほど企業の利益率も高い

◆◆◆

資本主義の根幹には、長らく「資本家と労働者の対立」があった。しかし、労働者にとってのメリットは企業にとってコストでしかないという対立関係・常識が、急速に陳腐化してきている。企業の生産性向上の源泉が物的資産から無形資産を含む広い意味での人が生み出す資産に移り変わっていることも、その背景の一つであろう。

社会的課題への取り組みについても以前より早く効果が出てきている可能性がある。例えばESG(環境・社会・企業統治)投資に代表される、投資家によるこうした取り組みへの明示的な評価が企業価値へ直接的な影響を与えるようになっている。また、環境問題などの社会的な課題への取り組みに対する消費者の感応度は大きくなっており、売り上げを直接高める効果も無視できない。

さらに最近、企業の存在意義・ミッションを明確化する「パーパス経営」が注目されている。利潤最大化を超えてどのような社会貢献を行いたいかを明示することで、従業員の共感を得る。それが優秀かつ多様な人材に企業の中で一体感を感じながら仕事をしてもらうために、ますます重要になっている。

「情けは人のためならず」という言葉が示すように、従業員のウェルビーイング向上、社会的課題への貢献、企業価値向上という3つが両立し、補完関係を生む「ステークホルダー資本主義2.0」が広がっていくことを期待したい。

2022年5月10日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2022年5月13日掲載

この著者の記事