実質賃金を持続的に上昇させる方策

森川 正之
所長・CRO

今年の春季労使交渉(春闘)では、多くの企業が賃上げを行った。しかし、物価変動分を除いた実質賃金、つまり購買力が高まったわけではない。物価が上昇したときに名目賃金が動かなければ実質賃金は目減りする。物価上昇が賃金に反映されるのは自然なことである。

実質賃金は生産性と表裏一体で、時系列、企業間比較、国際比較いずれで見ても、強い相関関係がある。生産性上昇により企業の付加価値が増え、労働者に賃上げという形で還元されるというメカニズムは当然に予想される。

一方、賃金から生産性という逆の経路もある。賃金が上がることで労働者のモチベーションが高まる、企業が経営効率化を迫られる、低賃金・低生産性の企業が市場から退出する、といったことだ。両者は双方向の関係にあるが、中長期的には、生産性が高まることで賃金が上がるという関係が支配的だろう。

したがって、実質賃金を持続的に引き上げるには、低迷が続く日本経済の生産性をいかに向上させるかが基本となる。研究開発投資、人的資本投資への積極的な取り組みが大事だ。加えて、新規参入を抑制する要因の除去や、非効率な企業への保護の縮減、生産性・賃金が高い企業の雇用シェアが増える形の新陳代謝を促す必要がある。

ただし、生産性と実質賃金を乖離(かいり)させる要素もある。世界的に労働分配率(付加価値のうち労働者の取り分)の低下が盛んに議論され、経済学のホットな研究テーマとなっている。グローバル化、コンピューターやロボットなど自動化技術の拡大、巨大IT(情報技術)企業の市場支配力増大、労働組合の組織率低下などが、その要因として指摘されている。

また、不況期に企業収益は大幅に減少するが、賃金は比較的安定しており、労働分配率は景気と逆の動きをする。実際、世界経済危機や新型コロナウイルス危機の際、労働分配率は大幅に上昇した。しかし、大局的に見れば実質賃金と生産性の伸びは並行しており、労働分配率変化の量的な影響は限られている。

もう一つの乖離要因は交易条件(輸出価格と輸入価格の比率)の変化だ。マクロ経済学的には、物価上昇のうち輸入原材料価格の高騰など、交易条件の悪化に起因する部分は賃金に反映されず、購買力の低下という形で国民が負担する可能性が高い。逆に、日本の輸出財の相対価格が上昇すれば交易条件は改善し、実質賃金の上昇につながる。

日本は優れた工業製品を輸出してきたが、近年はサービス貿易も重要になっている。新型コロナの影響が一段落したことで需要が回復しつつあるインバウンドが代表的だが、ソフトウエアやコンテンツもその例だ。海外の需要者が高い価格でも買いたいと思う魅力的な財・サービスを輸出できれば、生産性上昇以上に実質賃金が高まりうる。

結局のところ、持続的な実質賃金引き上げを実現するには、生産性向上、付加価値の高い製品・サービスの開発など、成果が表れるまでに時間を要する地道な取り組みを続けるしかない。

2023年4月6日 日本経済新聞「エコノミスト360°視点」に掲載

2023年4月19日掲載

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