早わかり「インフレターゲット論」

小林 慶一郎
研究員

日銀総裁人事が近づくにつれて、日銀の金融緩和政策でインフレを喚起すべきだ、という議論(インフレターゲット論)が活発になってきた。インフレターゲット論とは何か、その背景と効果を考える。

賛同者増えたわけは?

バブル崩壊後の12年間、相次ぐ景気対策と経済低迷による税収不足で、日本の政府債務残高は約700兆円(国内総生産の約1.4倍)に達している。

何かしなければ景気は良くならない。財政政策(公共事業や減税)による景気刺激は、膨らんだ財政赤字を考えても、もう無理だから、その肩代わりを日銀の金融緩和でしてもらいたい、というのがインフレターゲット論が出てきた背景だ。

また、欧米の経済学界では、景気変動を緩和するためには、財政政策ではなく、中央銀行の金融政策で対応すべきだ、という議論が主流だ。これも、日銀にインフレターゲットを迫る根拠とされる。

インフレ起こすと景気よくなるの?

「デフレが不況の主因だ」というのがインフレターゲット論の前提だ。そのメカニズムをみていこう。 代表的なものは、「債務デフレ」と呼ばれる現象だ。バブル崩壊後、過大な債務を抱えた企業は、少しでも借金を減らそうとして、手持ちの商品や資産(土地や株など)を売ろうとする。買い手より売り手が多くなるため、当然、物価が下がる=グラフ1参照。

物価が下がると、企業は同じ量のモノを売っても、得られる売上金額は少なくなる。その結果、借金を返しても、残った債務の負担は実質的に増加してしまうことがある。

例えば、商品価格が100円の時に、借金が1億円の企業があるとする。企業は、商品を100万個売れば借金を返すことができる。

借金のうち3000万円を返すために商品を投げ売りしたとする。同じように、他の企業も投げ売りに走り、商品価格が50円になったとする。すると、企業の借金の残高は7000万円だが、この7000万円を返すために、企業はさらに商品を(7000万円÷50円=)140万個も売らなければならなくなる。

つまり、当初の借金は商品100万個と同等だったのに、一部返済して残った借金は商品140万個分に相当することになる。借金の「重さ」が増加してしまっている。

借金の負担が増えると、企業はさらに投げ売りを激化させる。こうして価格低下・デフレが止まらない悪循環に陥る。

このような債務デフレに陥ると、企業は日々の資金繰りで首が回らなくなる。長期的な経営ができなくなり、すべての判断が短期的になってしまう。その結果、実体経済の活動が非効率になり、経済の成長力が鈍り、不況が続く。典型的な「合成の誤謬」だ。

この悪循環は、「企業の過剰債務(=銀行の不良債権)」と、デフレとが複合して発生しているものだ。これを止めるためには「不良債権」と「デフレ」の両方を解決することが必要である。

インフレターゲット論は、その中で、まずデフレを止めよう、という考え方だと言える。

グラフ1

政策の中身はなに?

では、どうやって、デフレをインフレに転換させるのか。

インフレターゲット政策の本質は、「日銀がここまでやるのだから、きっとインフレになるはずだ」という「インフレ期待」を国民に持たせようとする点にある。

インフレ期待を醸成するために、日銀は2つのことをすべきだ、とされる。

第一は、年率2~3%程度のインフレ目標値を2、3年以内に達成する、と日銀が公約を掲げること。

第二は、その公約を果たすため、日銀が非伝統的な手法(株式や土地などの買い上げ)で現金を経済全体にばらまくこと、である。

この政策は、プリンストン大学のクルーグマン教授が98年2月に自身のホームページ上のエッセーではじめて提唱し、その後、日米の多くの経済学者が賛同した。

しかし、この政策提案の難点は、日銀の現金供給が、インフレ期待の上昇に結びつく経路がはっきりしないことだ。

クルーグマン教授のモデルでは、日銀が日本経済全体のマネーの量を自由自在に操作できると仮定している。だから、日銀が「インフレを起こす」と言えばインフレを起こせることになる。

しかし、現実には、日銀の供給する現金は、民間の銀行部門で信用創造=イラスト参照=され、複数の銀行を経て、その10倍程度のマネー(預金通貨)になって循環する。日銀だけでなく民間の銀行部門がマネーを創造するのだ。

現状では、日銀が現金供給を増やしても、信用構造が行われない。民間銀行が過小資本のため貸し出しができず、国民も金融不安から現金保有を増やしているからだ。信用創造がなされないと、経済全体のマネーが増えず、インフレ率も上昇しない。

もちろん、日銀が民間の銀行が所有する株や土地を全部買い上げればインフレになるかもしれないが、そうなれば、日銀の資産内容が現行の民間銀行と同じになる。つまり、民間銀行の代わりに銀行業をするのと同じ状態といえる。

信用創造のメカニズム

インフレで難問消える?

インフレが起きれば、債務者は助かるから、不良債権問題もかなり軽減されるはずだという期待もある。しかし、それには少し無理がある。

これはインフレで株価がどれくらい上昇するかを計算してみると分かる。いま8000円台の日経平均株価が、2万円台を回復するためには、12%のインフレが10年続く必要があると、計算(10年間の配当の割引現在価値で株価を計算、利子率ゼロを仮定)で示すことができる。

逆に、2%や3%のインフレでは、株価は1万3千円程度にしかならない。これは98年秋の金融危機当時の株価水準だ。地価についても同じ様な計算ができる。これでは、銀行の健全性を回復するにはほど遠い。

つまり2~3%のインフレでは、銀行の不良債権を解消するには、焼け石に水、ということになる。また、もし、株価や地価を高値まで日銀が買い支えながら、同時にインフレ率を2~3%に抑えるならば、日銀が株や土地の含み損を抱えることになる。

この場合、日銀の含み損は国民全体の損なので、最終的に税金を日銀に投入して損失を穴埋めしなければならなくなる。これは、結局、政府が税金で株や土地を買い上げる政策と同じことになり、政府の債務を膨張させる。

インフレターゲット論が人気を集めるのは、政府の財政赤字を増やさないで景気を良くする政策だと誤解されているからだが、実は、結局、財政赤字を増やしてしまう公算が大きいと言える。

経済が健全性を取り戻し、持続的な成長をするようになれば、「結果として」2~3%の緩やかなインフレになる、と予想はできる。

しかし、様々な難問を放置したまま、インフレターゲット政策だけを実施しても、インフレになるとも、経済が健全になるとも言い切れない。

もちろん、政府が不良債権処理など必要な政策を進める際に、日銀の金融緩和による側面支援が必要なことは言うまでもない。しかし、それを「インフレターゲット」と仰々しく銘打つ必要もない。

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<合成の誤謬>

経済学では、個々人が合理的に行動しているのに、全員の行動の結果が合成されると、目的に反する結果になることを、合成の誤謬と言う。債務デフレでは、個々の企業は自社の債務負担を軽くしようとして、商品を投げ売りする。しかし、全員が投げ売りをすると、物価が下がり、結果的に、個々の企業の債務負担は上昇してしまう。典型的な合成の誤謬だ。

<インフレターゲット論>

インフレを求める意見は、論者によってかなり幅がある。単に物価上昇の見通しを示せばよい、という消極的な意見から、高率のインフレで不良債権も財政赤字も消してしまえ、という乱暴な意見や、インフレに伴う高金利で構造改革を進めようというものまである。本文で紹介している論は、経済学者が議論する標準的なもの。

2003年2月2日 朝日新聞に掲載

2003年4月14日掲載

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