新春特別コラム:2024年の日本経済を読む~日本復活の処方箋

経済と倫理―多様な人々に住み心地の良い日本にするための一考察

山口 一男
客員研究員

昨年(2023年)の文化の日に高校の同期で友人の岩井克人氏が文化勲章を受章した。主流の経済学から外れ、不均衡動学や関連する貨幣論に始まって、独自の経済学的理論と関連する思想を深く発展させた彼の仕事が高く評価されたことはとてもうれしい。彼の理論と思想の発展については自伝とも、独自の資本主義論ともいえる、『経済学の宇宙』(岩井・前田2015)で議論されており、それを参照されたい。ただ感慨深いのは、経済の主要な要素である「所有」の問題を突き詰めて考えた結果、「信任」の倫理の理論的重要性(岩井2016)の認識に至ったと述べている点である。経済と倫理はそこでもつながっていたかとの思いがある。「そこでも」と述べた理由は下記で説明する。

話は変わるが、英国の慈善支援基金(CAF)が毎年報告している『世界人助け指数』によると日本は2023年報告で143カ国中下から4番目の139位で、「見知らぬ人を助ける」の項目が特に低いという(朝日、岡崎明子記者2023年12月16日記事)。実は同基金の調査による結果は近年日本の「人助け指数」は一貫して低い(2022年は最下位)。この事実について、何が原因かを、私的仮説ではあるが述べたい。だがまず日本における戦後の私利の追求の優先が「日本人の思いやり文化」を後退させたからうんぬんの保守の議論は説明力がないことは指摘しておきたい。経済的利益追求優先の国ともいえる米国の『世界人助け指数』の順位は世界3位である。米国は日本よりはるかに人助け度の高い国なのだ。またここでキリスト教文化を持ち出すのも間違いである。キリスト教国家が一様に「人助け指数」が高いわけではない。ポルトガルなど、日本と並び最低のレベルで順位を争っている。

話は再度変わるが、経済学では合理的な利他的行為を考えた知の巨人が2人いる。1人はゲリー・ベッカーで、彼は家族の経済学の創始書ともいえるA Treatise on the Family(1981)の中で、子どもの効用が親の効用の一部になっているモデルを考えた。親が自分の効用を上げようとすれば、自然に子どもの効用が上がる仕組みである。これは理論モデルとしては便利だが深い社会的洞察は生まない。もう1人はケネス・ボールディングである。彼は著書『愛と恐怖の経済』(1974)とそれに先立つ1969年のAER論文“Economics in Moral Science”で「恩恵率(rate of benevolence)」という概念を導入した。相手にとって1ドル分の価値のあるものを与えるために行為者がRドル払う意思がある時、行為者はRの恩恵率を持つという。Rが0なら「純粋に」利己的な行為となる。Rがもし負なら、自分がコストRを払っても相手に1ドル分の損害を与える加害行為を意味し、この時Rを「悪意率(rate of malevolence)」と呼ぶ。さてR>0の時は相手に何らかの恩恵を与えるために、行為者がコストを払う行為で利他的な行為となるが、ボールディングは1>R>0の場合とR>1の場合の区別が重要という。前者の場合贈与後の相手と自分の効用の和は増加し、後者の場合は減少するからである。

Rが1より大きい、いわば過度の利他的行為がかえって社会的に平均の効用を減らすという知見も面白いが、重要なのは1>R>0の場合でボールディングはこの場合を社会的に合理的な利他的行為とみなす。特に送り手にとっては小さなコストの贈与が受け手にとって大きなベネフィットとなる行為、つまりR>0だが0に近い行為、はRが利己的な人の値に近いにもかかわらず、そのような合理的利他的行為が社会の中で増大すれば、人々のウェルビーイングの和(効用の和)は大きく増大するという知見が重要だ。つまりの自分の支払うコストに比べ相対的にはるかに大きな恩恵を人に与えられるならコストを支払ってもよいと考える人、つまりRの値は小さいが0ではない人、の社会的存在の重要性である。それは例えば、道を聞かれたら立ち止まって教えたり、ベビーカー運びを手伝ったり、人権問題などに関する支援の署名活動があれば趣旨に目を通す労をいとわず賛成なら署名をするといった、比較的少ないコストの利他的行為が平素できる人である。また、普段は人助けに熱心ではないが、相手の生命や一生に関わると思われる重大事には、例外的にかなりの労を執っても人助けを自主的にする人である。そのような小さい恩恵率を有する人が多くいる社会とまったくいない社会では、社会における人々の平均のウェルビーイングは大きく異なる。小さなコストの利他的行為は、それがもたらす一つ一つの恩恵は大きくなくとも、日常に頻繁に起き得ることなので、多くの人に恩恵をもたらす。一方人の生命・一生に関わる人助けは、頻度は少なくとも受益者の一生のウェルビーイングに長期にわたり高める。前述の朝日の記事で岡崎記者は「私はそそっかしくてよく転ぶのだが、日本の地下鉄の階段で転んでも、何事もなかったかのように周囲の人は通りすぎていく。それが海外の街中で転ぶと、次々と『大丈夫?』と人が集まってきて、余計に恥ずかしくなる、という経験を何度もしてきた。この違いは何なのか」と記す。転んだ程度なら大事はないが、これがもし突然の心臓発作で倒れたのなら、道行く人がただ通りすぎるだけの社会と、通りすがりの人がみな様子を気にし、必要なら救急車を呼ぶなり助けの手を差し伸べようとする社会との違いは大きい。また、ベビーカー運びを手伝う通りがかりの人が多ければ、子育てのしやすい社会となる。

実は、ボールディングの考えには、源泉がある。「経済学の父」と呼ばれるアダム・スミスである。スミスは自由な市場取引の発達が豊かさを生むと考えた。市場の機能はもちろん「交換」にある。物々交換は取引者間で共に交換により自分の得るものが自分の失うものより価値があるという互恵性によって成り立つ。スミスはさらにそのような交換の互恵性が生まれるのは、各自が自分の得意な分野に生産を特化し、不得意な分野の生産物は、交換によって得ようとする合理的社会分業から生じると考えた。だがスミスの関連する思想の中で今一つ重要なのは、彼が『道徳感情論』で提示した考えである。彼は社会に豊かさをもたらすためには「相手の立場に立った時自分がどう感じるか」を考えることの重要性を「共感」という言葉を用いて説いた。ここでいう「相手の立場」は日本人が意味する相手の社会的役割や人間関係ではなく、相手の感情、欲求、関心、悩みといった心理的状況である。またスミスのいう「共感」は日本人の言う「思いやり」とは異なる。スミスは例としてギフト交換や支援の交換のような、社会交換を念頭においており、その意味でお互いが相手にとって何が価値あるものかを贈与の受け手の立場で考えることにより、交換が最大の互恵性を生み出すと考えていたのである。これはボールディングの言う合理的利他主義の考えと通じる。また社会的分業も、自分にとって一定のコストで市場に供給できる財で、買い手である他者にとってより価値が大きい財の供給に人々が特化することで、効率的分業が生まれ社会に豊かさをもたらすと考えた。つまり経済的な利益追求行為も社会交換も、自分のコストを一定とした時の相手の立場のベネフィットを高める行動をすることが全体の豊かさを高めることになると考えたのである。

企業行動の例を挙げたい。日本の製造業メーカーのエンジニアたちは技術に対し専門的審美眼を持ち、その感性に基づいてより優れた技術の新製品を作れば、価格が高くなっても、消費者も評価してくれると考えやすい。一方シリコンバレーのIT産業の製品開発ディレクターたちは、まず自社の技術と予算で作り得る製品のうち、消費者が潜在的に最も欲する新製品は何かを考える。私は後者の消費者中心の考えに、スミスの考えに近い経済的利益追求と「共感」との融合を見る。では前者はどうか。私には前者はR>1の恩恵率を持つ行為者の行為と似通った面があると思える。つまり自分にとって高い価値あるものは、相手にとっても高い価値があると思い込み、自分にとってできる限り価値の高い製品を、それよりははるかに安いと自分が思う市場価格で「贈与」しようとする行為のように思えるからである。だがエンジニアの技術的価値観を共有しない消費者にとってその商品の価値が実際には低いなら、この経済交換は双方に満足のいく結果は生みにくい。

上記の例は経済交換だが、一般に社会交換で共感が機能するには、さらに他者の観察による機会への臨機応変な対応が重要となる。社会交換の価値は経済交換の場合と違い安定的ではなく、贈与の受け手にとって価値の高い贈り物は、状況に強く依存するからだ。日本における冠婚葬祭でのギフトの慣習は、贈与の受け手にとって価値が高い状況を特定化したものだ。ただ、共感に基づくまったくの他者との社会交換は、状況の観察と、そこにおける他者のニーズの把握に基づく自発的行動が欠かせない。岡崎氏が転んだ時に、集まって「大丈夫か」と聞いた人たちのように。

一般にボールディングのいう「贈与」は一方的な財やサービスの移転に見えるが、持って回って間接的に自分に戻ってくる「一般化された社会交換」となることが期待されている。「情けは人のためならず」である。ただ「一般化された社会交換」にはいわゆる「ただ乗り(フリーライダー)」問題があり、ただ乗り者が多いと維持できない。このため小さな利他的行為すらも拒否する人を抑制する社会的規範を伴うことが重要となる。「情けは人のためならず」から一歩進んで、アダム・スミスのいう共感力を持ち行動すべしというような規範である。私は英米で、「人助け文化」が発達したのは、このような規範を伴う他者への「共感」に基づく行動が広く社会で存在し、またそのような人々の行動により、多くの人々にとって、より幸せでより安心なコミュニティーが作れるという価値観を多くの人が共有するに至ったからだと考える。実際社会において見知らぬ他者への人助けを機に応じて自主的にする人を見慣れて育ち、それを当然と思う人々が、世代を超えて再生産されている。

一方日本での「思いやり」の強調は通常、家族や会社など自分の属する組織内での相手に対するもので、それは長期的な関係を有する人間間での「和」を保つためのもので、個人にとって組織内の人間関係のストレスを緩和するだけでなく、為政者による社会秩序の維持にも都合の良い道徳である。だが「思いやり」は直接的な関係のない他人には働かない。社会学者のドナルド・ドーアは彼の『イギリスの工場・日本の工場』で、日本では隣り合った他社の工場の工員間では、まったく朝の挨拶などをせず、挨拶は自社の工員にのみされることを、近くで働く工員同士なら会社を超えて挨拶する習慣を持つ英国と対比している。日本での労働組合は企業内組合であり、企業が異なれば労働者の仲間意識も希薄だからであろう。江戸時代の武士の「イエ」を模したとされる(村上・公文・佐藤1979)日本の会社は、常に「ウチ」と「ソト」を分け、「ソト」を含めた助け合いはしない慣習があり、それが個人の社会生活一般にまで浸透していると思える。「ウチ」の人との助け合いは「和」の社会規範でもあるが、「ソト」の他人との関わりは自己責任となるから関与しないし、したくない、という態度である。だが、そのような「ソト」の人間に対する合理的利他的行為の忌避が生む負の外部性は大きい。

大沢真知子氏は近著『「助けて」といえる社会へ』で日本は性被害者たちが、「助けて」ということすら言いにくい社会であると指摘する。性暴力の約半数は、家族内や知人間で起きるが、家族や知人といった「ウチ」ではなく、「ソト」に、助けを求めれば助ける人がいるし、助ける救済組織がある、と被害者が信じられる社会である必要がある。しかし現状は性被害の大多数は、相談機関や警察に申告されず、表に出ない暗数となっている。性被害者の大多数は10代、20代の若者である。そしてそのトラウマは一生に及ぶこともある。彼らが救済されないことによる日本国民の平均的ウェルビーイングの低下は膨大である。

経済交換、社会交換は互恵性によって成り立ち、共に交換者のウェルビーイングを高める。日本は消費的には豊かな国になりながら、この自発的交換の背後には、他人も対象に含めた合理的な利他主義を持つ人々が育つ社会環境が重要で、それなくしては社会的に豊かな国になれないという思想を、戦前戦後を通じて経済発展の中で培わないまま現在に至ったことが、最初に述べた「人助けを最もしない国」に日本がなってしまった理由に思える。その結果経済交換は「ソト」とも行うが、社会交換は「共同体内部」のみに限り、また「和」が建前の共同体内での加害行為は外には伏せられやすい村社会のような慣習が根強く残っている。だが「他人」との社会的交換による潜在的互恵性のベネフィットは、経済交換に勝るとも劣らず、そしてそれに必要なのはほんの少しの、つまり小さなR値の、利他的行為なのである。スミスやボールディングに見られる自由主義的倫理は経済発展を目指すこととも親和的であり、特にスミスのいう「共感」の倫理と論理が広く社会に共有される社会は真の豊かさをもたらすと私は考える。そのような社会を実現できるような社会制度とそこに至るための道筋を政府も行政も考えるべきである。そのマイル・ストーンとして『世界人助け指標』の日本の不名誉な地位の改善や、「助けて」といえる性被害者の割合の増加は重要な数値目標といえよう。

追記:コラムを読んだ知人からR>1の場合、つまり送り手のコストが受け手のベネフィットを上回る不合理な利他的行為の例について質問があった。例えば公立小学校で行う「ベルマーク運動」はPTAを通じて親の奉仕活動を要求し、有業女性がそのために被る機会コストが、ベルマークポイントによる収入をはるかに上回ると考えられ、これはR>1の贈与の強制といえる。熊本地震災害時などに話題となった生活必需品を欠いている被災者に千羽鶴を送る行為も同様である。また阿部彩氏(2008)は、日本の子どもの貧困率が、所得再分配後 は再分配前に比べて増加しており、このように政府による介入によって子ども の貧困率が悪化する国はOECD諸国の中でも 日本だけであると指摘している。日本の税制と福祉政策に平均的には富の少ない子育て世代から、富の大きい高齢世代への、R>1の不合理な贈与の強制があることを示唆する。こうしてみると、日本には他国と比べ合理的利他的行為が少ないが、他国では見られない不合理な利他的行為はかえって多いように感じる。これでは社会奉仕制度や、税制や福祉制度のありかたに、否定的な意見が多くなるのも当然と言える。

参考文献
  • アダム・スミス 2013[原典1759] 『道徳感情論』(高哲男訳)講談社学術文庫。
  • (Adam Smith. 1759. The Theory of Moral Sentiments.)
  • 岩井克人。2016. 「信任関係の統一理論にむけて」『経済研究』67(2)。
  • 岩井克人・前田裕之。2015. 『経済学の宇宙』日経BP出版社。
  • 大沢真知子。2023.『「助けて」と言える社会へ』西日本出版社。
  • ケネス・ボールディング。1974[原典1973] 『愛と恐怖の経済―贈与の経済学序説』(公文俊平訳)(Kenneth E.Boulding. 1973. Economy of Love and Fear. Wadsworth Publishing.)
  • 村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎。1979。『文明としてのイエ社会』
  • ロナルド・ドーア 1993[原典1973] 『イギリスの工場・日本の工場』ちくま学芸文庫。
  • (Ronald P. Dore. 1973. British factory, Japanese Factory. University of California Press.)
  • Becker, Gary S. 1981. A Treatise on the Family. Harvard University Press.
  • Kenneth E. Boulding。1969.“Economics as a Moral Science.” American Economic Review 59(1):1-12.
  • 阿部彩. 2008.『子どもの貧困-日本の不公平を考える』岩波新書.

2023年12月26日掲載

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