イノベーションの観点から最近の特許権侵害訴訟の動向について考える

高倉 成男
上席研究員

はじめに

景気低迷の中でも企業の知財活動はいぜん活発である。また特許庁の審査官の増員効果によって、特許権の登録件数も年々増加傾向にあり、平成19年の特許登録件数は約16万件、残存権利総件数は約120万件と世界最高レベルに達している。

これに比べると、実は特許権の侵害訴訟事件(地裁新受件数)はあまり多くなく、最近はどちらかといえば減少傾向にある(表1)。平成19年度は前年度に比べてやや増えたものの、ピークの平成16年度(217件)に比べると、約3割減である。もちろん、3割減といってもたかだか数十件のことだし、そもそも訴訟が少ないからといって特許の活用がなされていないといえるものでもないので、それほど心配することはないのかもしれない。

しかしそれでも、過去10年にわたって、侵害訴訟手続の改善や知的財産高等裁判所の設立など、いわゆるプロパテント政策の実行が進められてきた中での特許権侵害訴訟の減少傾向は少々気になるところではある。この点について、「裁判所における特許有効性の判断が厳しく、権利者の敗訴率が8割にも達するからである。」という指摘もある。この指摘は正しいか。仮に正しいとして、訴訟の減ることの何が問題か。また問題を解決するために何をなすべきか。本稿では、イノベーションの観点から、問題の所在をさぐり、今後の対応策の方向性について考えてみたい。

表1:最近の特許権侵害訴訟(地裁新受件数)の動向
年度平成12年平成13年平成14年平成15年平成16年平成17年平成18年平成19年
訴訟提起件数176件153件165件189件217件196件139件156件
和解88件109件62件63件66件84件87件40件
資料:裁判所統計

侵害裁判と特許の有効性判断

特許権侵害訴訟では侵害の有無と損害額が主たる争点であるが、その前提として特許の有効性が争いになる場合がある。その場合、従来は、有効性の判断は特許庁における無効審判に委ねてその結論が出るのを待つ、または一応権利は有効であることを前提に裁判を続けることとされていた。

しかし、それでは裁判が長期化する、または妥当な結論が得られないという問題が生じる。そこで裁判では特許の有効性が疑わしい場合、権利範囲を狭く解釈することによって非侵害の結論を導くなど、事案に応じた妥当な解決を図ってきたのであるが、平成12年4月の「キルビー事件」最高裁判決は、ストレートに「裁判所は、特許に無効理由が存在することが明らかであるか否かについて判断することができる」とし、「特許に無効理由が存在することが明らかであるとき」は特許権の行使は「権利の濫用に当たり許されない」と判示した。さらに平成16年改正特許法(104条の3)は一歩進んで、「明らか」でない場合も含め、「当該特許が特許無効審判により無効にされるべきものと認められるとき」は権利行使をすることができないことを法定した。これによって、侵害事件を担当する裁判官も審判官と同じように特許の有効無効の判断をすることができるようになった。

こうした改革は、侵害裁判と特許の有効性判断の合理的解決を求める産業界のニーズに応えたものであって、特に平均審理期間については裁判所の努力もあって著しい改善がみられている。他方、キルビー判決以降、被告が無効の抗弁を主張し、裁判所がこれを認容するケースが増えたため、権利者が訴訟を提起することをためらうようになっているのではないかという懸念も指摘されている。

表2:特許権侵害訴訟(地裁)の判決の動向
平成12年平成13年平成14年平成15年平成16年平成17年平成18年平成19年
判決数(A)74件102件90件65件70件63件40件50件
権利者敗訴件数(B)
(敗訴率 B/A)
61件
(82%)
80件
(78%)
71件
(79%)
55件
(85%)
58件
(83%)
52件
(83%)
35件
(87%)
35件
(70%)
無効抗弁ありの判決(C)
(対判決割合 C/A)
15件
(22%)
61件
(60%)
53件
(59%)
44件
(68%)
56件
(80%)
45件
(71%)
33件
(83%)
40件
(80%)
無効判断の判決(D)
(無効抗弁認容割合 D/C)
(対敗訴判決割合 D/B)
7件
(47%)
(11%)
21件
(34%)
(26%)
20件
(38%)
(28%)
27件
(61%)
(49%)
23件
(41%)
(40%)
19件
(42%)
(37%)
23件
(70%)
(66%)
22件
(55%)
(63%)
資料:特許庁調べ。
注:平成12年は4月~12月のデータ

侵害訴訟の減少の要因と今後の対策の重点

特許権侵害訴訟の件数が減少傾向にあるのはたしかであるが、その要因を権利者の敗訴率の高さに求めるのは疑問である。第1に、権利者敗訴率は8割前後ときわめて高い(表2)が、その高さは以前からである(注1)。第2に、和解は権利者にとって有利なものもあるところ、和解の件数は判決数に比べて相対的に増えている。したがって、「権利者が裁判で8割も負けるので訴訟が減った」という推論には根拠が乏しい。

では、なぜ権利者は訴訟を控えるようになったのか。訴訟コストが大きいこと、裁判で認められる損害賠償額が請求額に比べて小さいこと、一審裁判所が東京と大阪の地裁に限られていることなど、さまざまな要因が考えられるが、権利者敗訴理由の変化も大きな要因の1つではないかと思われる。

特許庁の調べによると、表2に示すように、判決数に占める「無効の抗弁あり」の判決の割合C/Aは、平成12年の22%から平成19年の80%に増加し、その割に裁判所が無効の抗弁を認める割合D/Cは下がらなかったため、結局、権利者敗訴件数に占める無効判断の判決の割合D/Bは、平成12年の11%から平成19年の63%に大きく上昇した。

権利者の敗訴率は変わっていないにしても、特許無効を理由に敗訴するケースが増えたということだ。一般に侵害か否か判断する材料は権利者の手の内にある。しかし、無効か否かの判断材料は相手側にある。同じ負けるにしても、特許無効を理由に負けるケースが敗訴判決の4~6割(平成18年度は過去最高の66%)も占めるようでは、先が見えなくて訴訟を起こせないというのが権利者の気持ちであろう。

もちろん一般論として、訴訟の数は少ないほど好ましい。しかし、特許権者が特許無効をおそれて訴訟を控えるという状況は問題である。なぜなら、そういう状況では特許発明をいち早く商業化することにもためらいを感じるようになるからである。それは明らかにイノベーションにとって好ましくない。

そういう観点から侵害訴訟の問題を見直してみると、訴訟の数が減っていること自体が問題というより、特許が無効になるかもしれないという不安感が産業界に増していることにこそ真の問題があるとみるべきである。その意味で、今後の対策は、特許の安定性または特許に対する信頼性をさらに高めることに重点が置かれるべきである。

最近の裁判所の特許有効性判断等の傾向

特許の安定性を高めるために何をなすべきか。そのことについて考えるために、特許庁の判断が裁判所においてどの程度覆されているか過去4年間(平成16~19年度)の平均でみてみよう。表3のように、拒絶査定維持審決が裁判で取り消される割合は非常に低く、約1割である。また、無効審決(無効審判請求を認容して無効とした審決)の取消率も低く、同じく約1割である。

ところが、有効審決(無効審判請求を棄却して特許を維持した審決)の取消率は比較的高く、約5割である。訴訟の性格は異なるが、特許権侵害訴訟(地裁)における無効の抗弁の認容率も同じく、約5割である。

表3:最近の裁判所の特許有効性判断等の傾向
訴訟の種類裁判所の判決(平成16~19年度の平均値)
審決取消訴訟(知財高裁)査定系拒絶査定維持審決取消訴訟審決取消(拒絶→特許)=79/677=約1割
当事者系無効審決取消訴訟審決取消(無効→有効)=22/257=約1割
有効審決取消訴訟審決取消(有効→無効)=69/142=約5割
特許権侵害訴訟(地裁)無効の抗弁抗弁認容(無効の判断)=86/174=約5割
資料:特許庁調べ

単純化していうと、拒絶査定または無効審決は裁判でほとんど支持されるのに、特許査定または有効審決は半分が裁判所において覆されるということである。この点だけに注目すると、裁判所は特許庁より特許性の判断が厳しいということになりそうであるが、判決を子細に分析してみると、必ずしもそうとばかりはいえない。

検討の論点を拡散させないために、特許権侵害訴訟(地裁)において特許無効と判断されたケースに限定して分析してみると、これらのケースは大別して、(i)事後的に新しい引用文献が提出されたケース、(ii)特許庁の判断が手続的に間違っていたケース、(iii)特許庁と裁判所の進歩性判断等の齟齬(見解の相違)によるケースに分けることができる。すべてのケースがこの3つに明瞭に分けられるわけではないが、この中で比較的多いのは(iii)、次に(i)のケースである。以下では、主に(i)と(iii)に関し、今後の対策(権利の安定性を高めるための改善策)について考えてみよう。

今後の課題

(1)新しい引用文献の提出について
ケース(i)を減らすには、事前のサーチを充実することに尽きる。サーチを充実すると、特許されたものが後で新文献の発見によって無効になる確率は小さくなる。その意味において、サーチの充実はイノベーションに寄与する。

サーチの充実は特許庁にまかせるだけでなく、権利者も努力が必要である。訴訟を起こす前に念には念を入れてサーチを試みるべきである。最近のサーチ環境は飛躍的に改善されているから、たとえば10年前に特許されたものも、あらためてサーチをしてみると、当時は見つからなかった新しい引用文献が見つかることもある。その場合、訴訟を控えるか、訂正をした上で訴訟を起こすか、あるいは無効の抗弁に対する準備を整えた上で裁判に臨めば、それだけ不意打ちの無効理由で敗訴するリスクは小さくなる。

被疑侵害者の対応についても政策上の課題はある。被疑侵害者の立場としては無効理由を早く出す(たとえば、侵害訴訟が提起される前に無効審判を請求する)と権利者に訂正の機会を与えるので提出のタイミングは戦略的に考えたい(たとえば、侵害訴訟においていきなり無効の抗弁として出したい)ということであろうが、だれもが「後出し戦略」をとるようになると、全体としてイノベーションは遅滞する。したがって、無効理由がわかっているときそれを早く出すことを促すしくみを取り入れることは政策論として意味がある。

そのしくみの1つとして、「除斥期間制度」(注2)を回復することについては、慎重な検討を要しよう。しかし、無効理由の意図的後出しを「時機に遅れた攻撃防御方法」として却下することは現行法下でも適宜対応可能な場合もあろう。私見は、これを活用し(要すれば、特許法に特則を設けることも視野に入れて)、善意の権利者が特許発明を実施している場合は、無効理由の後出しには特に厳しく対処してもいいのではないかとするものである。特許発明の商業化にチャレンジした善意の権利者の特許無効化リスクを時とともに下げることが政策的に合理的と考えるからである(注3)

(2)手続ミス等について
ケース(ii)は、要旨認定の誤り、手続違背等によるものであって、基本的に特許庁における審査審判の品質管理の問題である。これを少なくするために、ミスの原因の分析と審判官等へのフィードバックを徹底するとともに、知財に詳しい判事OBの協力等により、実務能力のいっそうの向上を図ることが望まれる。

(3)進歩性判断の相違について
ケース(iii)については、権利者の法廷戦略(プレゼン力、パフォーマンス)に改善の余地がある。裁判所はたとえば生活用品など理解しやすい技術分野の改良発明については進歩性なしと判断する傾向があるとの指摘もある。権利者はそのことに注意して、技術の複雑性と創作の難易度は異なることを裁判所によく理解してもらえるよう心がけるべきである。

また、審査官・審判官は日常的に多数の出願を取り扱っているため、技術の流れを「線」として把握し、後から見ると容易に思える発明でも出願時においては進歩性ありとしてそれなりの評価をするのに対し、裁判所は当該特許を「点」として見る傾向にある。権利者はこのことにも留意し、自己の発明の位置を技術の流れの中で裁判所に説明するよう努めるべきである。

以上を要するに、裁判所は弁論主義に基づいて紛争を解決する場であることを踏まえ、権利者は裁判所の判断が厳しいことを嘆く前に、自己の特許の進歩性を示すための事実と証拠をみずから収集・提出して、裁判所を説得することに力を入れるべきである。

その一方で、裁判所の対応についても政策上検討の余地はある。すなわち、技術的側面から進歩性判断等が微妙な場合(いわゆるグレイケースの場合)、できるかぎり技術専門官庁である特許庁の判断を尊重する方向で裁判所の運用を改めるとすることの是非について検討の余地がある。現に相当数の審決が裁判所において取り消されている状況のもとで、ただちに裁判所の裁量の幅を狭めることについては異論も多いと思われるが、マクロな視点から、投資のインセンティブを重視する立場に立って、特許の有効性を推定し、これをあとで覆すにはそれなりに重い立証負担(注4)を要するとすることの是非について検討しておく価値はあるように思われる。

おわりに

この10年間、いわゆるプロパテント政策によって、「強い権利」「審査迅速化」のための基盤整備については相当改善が進んだといってよい。これをイノベーションに結びつけるには、権利の安定性または権利への信頼性を高めることに今後の政策の重点を置くことが必要である。他者の知識や権利を利用する「オープン・イノベーション」の時代にあっては、特にそうである。

権利の安定性を高めるには、しっかりしたサーチに基づいて的確な審査審判を行うことに尽きる、くわえて、侵害裁判との関連において、無効理由の意図的後出しを抑制すること、特許性の技術的判断についてはできるかぎり専門行政官庁の判断を尊重することなどについて産業政策上の観点から再検討してみるのはどうかというのが私見である。

権利者が自己の特許を有効と信じて一定の資本を投下し、発明の実施を通じて社会に貢献していると認められる場合にあっては、権利者を長期にわたって特許無効の危機にさらすことによって失われるかもしれない社会全体の利益も考慮し、特許を無効にする権利を一部制限することもイノベーションの観点からは1つの選択肢ではないかというのが本稿の趣旨である。

2008年9月3日
脚注
  • (注1)一般に、被疑侵害者が非侵害であることに自信をもって和解に応じない場合に判決に至ることが多いので、権利者の敗訴率はどうしても高くなる。
  • (注2)旧法(大正10年法)は、特許権者をいつまでも不安定な状態に置くことにより特許発明の実施が妨げられることがないように、「特許権の設定の登録の日から5年を経過したときは、審判を請求することができない」とする規定(124条)を備えていたが、この規定にはむしろ弊害の面(たとえば特許無効であることを知っている権利者は、5年経過後に訴訟を起こすなど)が多いことが指摘されて廃止されたという経緯がある。したがって、仮にこの規定を回復する場合には、その弊害を抑制する措置をあわせて講じることが必要であろう。
  • (注3)まったく同様の理由から、権利者が長い間特許発明を実施せず、かつ被疑侵害者に対する権利行使を不当に遅くしたと認められる場合、裁判所は権利者による権利行使を一部制限することができるとするのが政策的に合理的であると考える。
  • (注4)米国特許法282条は、特許の有効性を推定し、判例上、これを覆すには、明確かつ確実な証拠(clear and convincing evidence)による立証が必要とされている。日米は法体系が異なるので、米国式の単純な導入は難しいが、その政策上のインプリケーションは検討に値しよう。

2008年9月3日掲載