薄氷に立つ日本経済:内需主導の成長はなぜ実現しなかったのか

八代 尚光
コンサルティングフェロー

薄氷に立つ日本経済

経済産業省の代表として筆者もその策定に関わった平成20年度政府経済見通しでは、07年度の実質成長率は1.3%と5年ぶりに1%台前半の低水準となる見込みである。若干技術的だが、07年度成長率の発射台(いわゆる「成長率のゲタ」)が1.3%であったことを考えると、これは実質的なゼロ成長を意味する。こうした低成長はもちろん改正建築基準法の施行による影響が大きいが、日本経済は単なる官製ショック以上の変調に直面している。08年度の成長率は2%となる見通しだが、建築着工の正常化により住宅投資が数字の上だけ大きく伸びるという特殊要因を除くと、1%台後半の伸びに留まる。こうした力強さを欠くシナリオは民間エコノミストのコンセンサスとも近い。

そもそも、今回の景気回復の源泉は好調な世界経済を背景とした輸出増加である。これによる企業収益の増加が設備投資と雇用の拡大をもたらし、雇用環境の改善は家計の所得と消費の伸びに結びついた。他方、企業収益が過去最高水準となる中でも1人当たり賃金が伸び悩んだため、家計消費が輸出と並ぶ第二のエンジンとして経済成長を牽引する内需主導型の成長は実現しなかった。米国経済の減速による輸出への影響が懸念され、原油価格の高騰が企業収益を圧迫する中で、戦後最長の景気回復を支えた波及メカニズムは薄氷の上に立たされている。

内需主導の成長はなぜ実現しなかったのか

内需主導型の成長の実現を阻んだ最大の要因は、やはり賃金の低迷だろう。賃金の代表的指標である毎月勤労統計にはさまざまな留意点があり、団塊世代の退職による押し下げ効果という技術的要因も指摘されているが、それを勘案しても過去の景気回復と比較して低迷が著しい。こうした賃金動向には、もちろん90年代以来の大きな流れである雇用の非正規化やグローバル競争の激化が寄与しているが、非製造業部門や中小企業の労働生産性の低さという産業構造上の問題も無視できない。我が国の雇用の8割を抱える非製造業において、不動産や電気・ガス等を除くサービス関連産業の労働生産性は、製造業と比較して低く、かつ伸び悩んでいる。背景としては、こうした産業が製造業と比較して労働集約的であることや、製造業が好調な輸出に裨益する一方で家計消費の伸び悩みに直面していることが考えられるが、概して大企業と比較して生産性の低い中小企業のウェイトが高いことも事実である。賃金はこうした産業においてもっとも低迷している。

一方、07年の賃金の動きを企業規模別に見ると、従業員数500人以上の大企業で前年比▲0.1%、100人以上500人未満の中堅企業で▲0.7%と伸び悩んでいるが、雇用の4割を占める従業員30人以下の中小・零細企業で▲1.2%ともっとも大きく減少している。中小企業の実に9割が非製造業であることに鑑みると、非製造業の低生産性と賃金低迷は、ある程度中小企業の問題と考えられる。アプリオリに中小企業の生産性が低いと考えることは誤りであるが、サービス関連産業においては、米国等において見られた企業の退出や参入による生産性の改善が進んでいない。内需主導の景気回復が実現しなかったより本質的な理由は、効率的な資源配分を促進する構造改革が不十分だった結果、幅広い業種の労働者がより高い賃金を享受できる状態まで日本経済全体の生産性が引き上げられていないことではないか。

政府は内需主導の経済成長に貢献したか

政府はこれまで内需主導型成長の実現に貢献してきたといえるだろうか。家計を巡る最近の政策は、定率減税の縮減・廃止、長期にわたる低金利の維持、年金制度の担保が不透明な中での消費税率引き上げの議論といった、可処分所得や消費マインドを支援するとは考えられないものが目に付く。財政再建と経済成長は車の両輪だとしばしば言われるが、財政再建のために成長が必要であることが強調される一方で、内需主導の成長を実現する上で財政がどうあるべきかについては、あまり明確な整理がなされていない。

政府は労働生産性の引き上げを重要な政策課題として認識し、成長戦略の目玉としてサービス関連産業や中小企業の生産性の引き上げを位置付けている。しかし、その具体的施策については、既存の産業構造や中小企業を前提に企業の自助努力を支援するものであり、効率性の低い企業の退出や市場競争、規模・範囲の経済の促進といった産業構造調整の視点は含まれていない。

米国がニュー・エコノミーと呼ばれた長期景気拡大に先立ち、80年代に調整局面を経験したように、日本経済のパフォーマンスを本格的に改善するためには痛みを伴う構造改革は避けて通れない。構造改革が十分な迅速性と実効性を有するためには、強力な政治的リーダーシップが不可欠であるが、政局の混迷により、5年間に及ぶ世界経済の好調という、構造改革断行の好タイミングを逸してしまったことは痛手である。

景気が薄氷に立つ今こそ、家計消費の喚起に真につながる内需振興政策と、中長期的な日本経済の活力のためにヒトやカネをより生産性の高い企業や産業に移す政策を真剣に検討することが必要だ。

2008年2月26日

2008年2月26日掲載

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