グローバル化の時代における日本の金融市場戦略

松本 秀之
コンサルティングフェロー

金融機関の変貌

1980年代から加速度を増して進行してきた経済のグローバル化に対応する為に、欧米系金融機関は他地域の金融機関に先立ち、ビジネスモデル、組織構造、人的資源管理、情報システムといった金融ビジネスの基礎的アーキテクチャを、グローバルマネジメントスタイルに変化させてきました。更に国境を跨いだ組織作りがもたらす副作用である収益構造の不透明化を克服する為、グローバルレベルでプロフィットセンターとコストセンターとを明確に分離する試みも行ってきました。それに加えてグローバルな情報ネットワークの威力を活用することで、ニューヨーク、ロンドン、東京、香港、シンガポール、シドニーなどの各拠点間でリアルタイムベースの情報伝達を行っています。

プロフィットセンターであるフロントオフィスは、ニューヨークのウォールストリート、ロンドンのシティあるいはキャナリー・ウォーフ、東京の大手町、丸の内、日本橋、虎ノ門、六本木周辺、香港の香港島、シンガポールのラッフルズ・プレイスやサンテック・シティにオフィスを構えています。一方で1990年代からITを用いたコスト削減競争激化に伴い、コストセンターであるバックオフィスは、シンガポール、インドのムンバイやバンガロールなどにオフショアアウトソーシングを行うケースが増加してきました。このプロフィットセンターの一部のアトラクティブな国際金融市場への集中化とコストセンターのオフショアアウトソーシングとのコンビネーションモデルは、ブランド維持とコスト削減との両立を可能にしました。

金融市場の歴史

さてここで世界の金融市場の歴史と変遷を、100年単位の長い時間軸で考察してみます。アメリカでは1830年までフィラデルフィア、その後現在に至るまで約2世紀弱に亘りニューヨークが金融の中心地としての役割を果たしています。しかし、欧州の金融市場の歴史を紐解くと、一箇所に留まっているケースは実に少ない事に気付きます。13世紀のイタリアに初めて登場した金融市場は、15・16世紀にポルトガルとスペイン、そして17世紀にフランスのパリとオランダのアムステルダムへと移動しています。さらに18世紀になると産業革命に伴う自国経済の発展による国内金融の需要拡大と、外国人に対する土地所有認可に伴う外国資本の流入という2つの要素に牽引される形で、欧州の金融の中心地は英国ロンドンへと移動していきます。この様に欧州では約1-2世紀毎に金融市場の中心地が移動していることがわかります。

1940年頃までアジアでは上海が金融の中心地としての役割を果たしていました。しかし、中国の共産主義化そして他のアジア諸国に先駆けての日本の戦後復興に伴って、第二次世界大戦以降は東京がアジア地域の金融の中心地の地位を確立していきました。1980年代以降に香港・シンガポールが台頭したものの、現在でもNJA(ノン・ジャパン・アジア)という言葉が国際金融の現場でしばしば使用されていることや、アジアの中心拠点を東京に構える多国籍金融機関が依然として多く存在することが示すように、東京はまだまだその地位を維持しています。

その結果、東京・ロンドン・ニューヨークの3つの金融市場がそれぞれアジア・欧州・北米の金融市場の統括的役割を担い且つこの3極が太いパイプで繋がれているという言わば「ハブアンドスポーク型」の仕組みが、国際金融市場の主軸アーキテクチャとして機能しています。

しかしこの東京・ロンドン・ニューヨークの3極金融市場体制の長期的に持続し続ける可能性に対しては不確実な要素が多いのではないでしょうか。先に考察した欧州の歴史を参考にして100年単位の長期的観点から思索すると、東京がアジア地域における金融のハブとして機能し続けるのか、或いはその機能が別の都市にシフトし、結果として現在の3極金融市場体制の枠組みが大きく変化するのかは、今後の日本のトータルな金融経済産業政策に拠るところが大きいのではないでしょうか。

金融市場の分類

金融市場の歴史的背景と現時点で担っている役割という視点から考察すると、金融市場は以下の3つに分類できると考えられます。

まず第1に「自国経済興隆型金融市場」。このタイプは近代・現代の経済史の中で度々登場する金融市場の型です。製造業の発達に伴い、それに付随する貿易、運輸、通信、サービスなどの産業も発達、相乗効果的に金融産業への需要が高まることを通して金融市場が成長・拡大します。現在の東京やニューヨークがこのタイプの金融市場に属します。

第2に「外国資本誘導型金融市場」。このタイプは近年のシンガポールに見られるように、国土が狭く天然資源が乏しいという弱点を抱える国家が、国家戦略として意図的に法律・税制・建物・情報ネットワークといったソフトからハードに至る社会的インフラを整備することで、外国資本を誘導し建設された金融市場を指します。近年のドバイもこの型に属します。

そして第3に「グローバル知識集積型金融市場」。このタイプの典型的なケースが英国のロンドンです。ロンドンは産業革命時に自国経済の興隆によって拡大・発達した金融市場であることから、市場形成的には前述の「自国経済興隆型金融市場」としてスタートしました。しかしその後ロンドンは外国人投資家に対する寛容な姿勢を執ったことから、英国内の製造業衰退後も「グローバル知識集積型金融市場」へと変貌し欧州に於ける金融の中心地としての地位を現在も維持し続けています。

グローバル知識集積型金融市場:ロンドン

1999年、欧州の新通貨「ユーロ」導入時点では、ドイツ・フランクフルト、フランス・パリ、あるいはスイス・チューリッヒなどが、英国ロンドンから欧州金融の中心的地位を奪い取るのではないかと警鐘を鳴らす声がありました。しかし、ロンドンはその衰退論を跳ね返し欧州地域における国際金融の中心拠点として引き続き発展し続けました。

英国のユーロ不参加にもかかわらず、1999年にバンク・オブ・イングランドが発刊した旧通貨から新通貨への変換手続書(コンバージョン・プロシージャー)が一般的に広く参照された事は、ロンドンが引き続き欧州金融の中心地であり続ける象徴的な出来事であったと捉えることもできます。

ロンドン市場における法制度はいわば概念ベースを軸とし、英語という国際的に広く使用されている言語、グリニッジ標準時を根幹とする現代のタイムゾーン、金融を取り巻く産業、即ち教育・芸術・放送・情報・ソフトウェア等との相互作用から知識集積型市場を形成しています。

その上、国境を越えた人の流れをスムーズにする為に、東西南北プラス中心部分に合計5つの空港(ヒースロー、ガトウィック、ルートン、スタンステッド、シティ)を配置し、ユーロスターによってフランス・ベルギーと繋ぐ都市戦略が功を奏しています。結果として近年、欧州企業の金融調達・運用の拠点としての、中東からのオイルマネーの流入先としての、そしてロシアの経済興隆に伴う余剰資金の受け皿としてのグローバル知識集積型金融市場ロンドンは活気を呈し、その規模はニューヨーク市場の規模を上回ったといわれています。

高度情報化社会と取替可能性

昨今、情報社会学で語られている「取替可能性」の概念を用いて、ここでもう一歩深く考察してみます。「取替可能性」とは、簡単に言えば「あるものに対して、それに取って代わるものに遭遇する可能性」のことを言います。現代社会は高度情報化・過剰流動化社会へと変貌を遂げたことから、この取替可能性が急激に高まっていると言われています。この影響を受けて家庭、学校あるいは会社などの人間関係のベースは、「数は少ないけれど昔ながらの強く太い人間の絆」から「数は多いけれど現代的な弱く細い人間の絆」へと変化してきました。この変化はグローバルレベルで起こっています。

「取替可能性が高いもの」つまり「他のものと取替え易いもの」はその価値が下がり、一方で「それにしか無い特徴」があるもの、「その人にしか出来ない技」がある人、「その場所でしか享受出来ない魅力」がある土地は取替可能性が低いために、特別な価値があるアトラクティブなものとして高度情報化社会での生存競争の勝利者となったわけです。

高度情報化の初期段階の議論では、バーチャルな金融市場が発達することで金融取引は場所に捉われる必要が無くなり、金融の拠点は限りなくコストの安い場所に移動・拡散し、結果として今の国際金融市場は寂れていくという予想がありました。しかし実際には金融機関の組織の中で「プロフィットセンターのフロントオフィス」と「コストセンターのバックオフィス」が別々の方向に向かって動き出すという予想と少々異なった現象が起こりました。

同じレベル・同じタイプの作業を行うバック・オフィス業務は土地の取替可能性が高かったことから、オフショアアウトソーシングという形でコストの安い地域へと移動をしていきました。これは予想通りの展開でした。しかしトレーディングやマーケッティングを担うフロントオフィスでは、業務自体の特性として自分にしか出来ない「取替可能性の低さ」を売りにしていますので、アトラクティブな金融市場へどんどん集中していくという現象が起こったのです。

日本の金融市場戦略

この現象を見据えながら、ここから日本の金融市場の今後の戦略を東京と地方都市と分けて考察してみます。

グローバル知識集積型金融市場+α:東京
東京がアジア地域において最もアトラクティブな国際金融市場としての地位を維持する為には、ロンドンが辿ってきた道程つまり「自国経済興隆型金融市場」から「グローバル知識集積型金融市場」へと変貌を遂げることが必要条件であると考えられます。しかし、ここで「東京が変貌を遂げる必要はあるもののロンドンの模写になる必要は無い」という点に留意する必要があります。

ロンドンは独自の魅力に支えられた型で発展してきたことは先に説明しました。東京がアジア地域の金融のハブとしての地位を維持する為には、フロントオフィスにとってアトラクティブな「取替可能性の低いグローバル知識集積型金融市場」へと変貌すること、つまりグローバル知識集積型金融市場+α(東京独自の特徴を活かす)金融マーケットを確立することが必要であると考えられます。

バックオフィス業務誘致:地方都市
ある米系投資銀行は2004年度に英国のグラスゴーにバックオフィス業務の拠点を構築しました。シンガポールやインドのバンガロールなどの幾つかの候補地の中から最終的にグラスゴーを選択したそうです。現在、その拠点は約800名のスタッフを擁し米国と欧州の事務処理を引き受けています。しかし日本では地方都市にバックオフィス業務の拠点を構築していこうというアイデアは未だ議論されていないのが現状です。

日本の地方都市の中には先端的な教育研究機関を擁し、優れた人的資源を擁する都市があります。優秀なマネージャーさえ獲得できれば、日本の地方都市において金融機関のバックオフィス業務を運営することのできる拠点を構築することは可能ではないでしょうか。金融市場戦略というとどうしてもフロントオフィス業務に目が向きがちですが、バックオフィス業務を地方都市に構築するという観点が日本の金融市場戦略立案の上で今後重要なポイントとなってくると考えています。

2007年9月25日

2007年9月25日掲載

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