経済理論によれば、たとえば道路や港湾、公園などの公共財は、誰もが「他人が供給してくれれば自分は供給しないで、他者の供給にただ乗りした方がよい」と考えるいわゆる「ただ乗り」問題のために、市場を通じて民間によって供給されることはないとされる。ところが、こうした状況を実験室内で再現して実験を行ってみると、数多くの実験結果で、公共財に自発的に貢献する人々が多数いることが報告されている。また、交渉問題(以下の例を見よ。決められたパイの分配の仕方を1人のプレイヤーが提案し、他方のプレイヤーがその提案を見て、それを受け入れるか拒否するかを決定する)で、ゲーム理論の予測によればいわゆる「一人勝ち」になるような状況にも関わらず、人々が平等に分け合うことを選ぶことも実験室で頻繁に観察される。ここには、好意には好意で答え、悪意には悪意で答える応報論理が現れているとみることができる。一方、私達は必ずしも自己利益にならなくても他人のために行動することがある。チャリティに募金したり、二度と訪れることのない町のホテルでチップをおいたり、命を落とすと分かっていても勇敢にも危険に飛び込み人命救助に向かう人々がいる。これは応報論理では説明できない。本論では、最近進展している公平性のゲーム理論の基本的な考えを紹介しながら、応報論理にまつわる問題を考えてみたい。
不平等回避と互恵性
次のようなゲームを考えてみよう。
ゲーム1
(1)プレイヤー1に1000円が与えられる。
(2)プレイヤー1はそれを自分に800円残し200円をプレイヤー2に与えるか(提案1)、自分に500円残し500円をプレイヤー2に与えるか(提案2)を決める。
(3)提案を見たプレイヤー2はそれを受け入れるか拒否するかを決める。拒否すれば2人とも何も得られないが、受け入れれば提案通りに1000円が配分される。
ゲーム理論に従えば、プレイヤー1は自分の利益を最大化する提案1を選び、プレイヤー2は拒否して得られる0円より受け入れて200円をもらうことを好むので、結局提案1が受け入れられて1が800円、2が200円の配分を受け取ることがサブゲーム完全均衡(注1)になる。しかし、実験を行えば、多くの場合、提案2が選ばれそれが受け入れられることになる。また、提案1が拒否されることがある。理論的予測と実験結果とのこの違いは何故生じるのだろうか。
その1つの解答は、実験の被験者たちがFehr and Schmidt (1999)が提案したような不平等回避(inequality aversion)の選好をもっていると考えることである。不平等回避の選好とは、プレイヤーに物質的な利得以外に、他人との相対的な取分に関する効用がともなっており、自分の物質的利得が他人より少ないときは羨望(envy)を感じ、他人より多いときは後悔(regret)を感じるというものである。ここでは、さらに羨望の方が後悔より重みが大きいものとされる。プレイヤーたちが不平等回避の選好を持つと仮定すれば、プレイヤー2の羨望が強いか、プレイヤー1の後悔が強いとき、提案2が選ばれそれが受け入れられるという実験結果と一致する理論的予測が得られる。実際、Fehr and Schmidt (1999)はこれ以外にも数々の実験を不平等回避の選好によって検討し、サブゲーム完全均衡から逸脱が見られる交渉ゲームや公共財ゲームの実験結果を説明すると共に、均衡予測と一致する市場実験の結果をも説明できることを示している。
次にゲーム2を考えてみよう。
ゲーム2
(1)プレイヤー1に1000円が与えられる。
(2)プレイヤー1はそれを自分に800円残し、200円をプレイヤー2に与えるか(提案1)、自分に1000円残し、プレイヤー2に何も与えないか(提案2)を決める。
(3)提案を見たプレイヤー2はそれを受け入れるか拒否するかを決める。拒否すれば2人とも何も得られないが、受け入れれば提案通りに1000円が配分される。
ゲーム1の提案1とゲーム2の提案1とが同じであることに注意しよう。しかし、ゲーム1と2を比較した実験によると、ゲーム1における提案1の方がゲーム2における提案1よりも高い割合で拒否されている。通常のゲーム理論的な推論を考えてみよう。提案1を示されたプレイヤー2は、ゲーム1でもゲーム2でも、拒否して0を得るか、受け入れて200を得るかという選択肢に直面しているわけであり、これら2つのゲームで拒否する率が変化することは考えられない。これは、不平等回避の選好を仮定した場合でも同様である。なぜなら、不平等回避の選好は実現した結果の公平性だけを問題にしているからである。提案1を受け入れる場合と拒否する場合のそれぞれのプレイヤーの配分はどちらのゲームでも同じであるから、不平等回避の選好では2つの実験結果の違いを説明できないのである。しかし、たとえば、殺人という結果ひとつをとってみても、それが故意によるものなのか、過失や正当防衛によるものなのかによって、評価(刑罰)は当然違ってくるべきだと人は考えるように、実現した結果だけでなく、その結果を導いた意図や動機にまでさかのぼって公平性を考える必要があるはずである。
Rabin (1993)の戦略的互恵性(strategic reciprocity)の理論は次のように説明する。ゲーム1では、プレイヤー1は提案2を選んで平等な配分ができたにも関わらず、プレイヤー2に不利な提案1を選んだ。そこで、そうした悪意のある提案には悪意(拒否)でもって答える。一方、ゲーム2では、プレイヤー1は提案2を選んでプレイヤー2に何も与えないこともできたにも関わらず、プレイヤー2に正の配分をしてくれた。そうした好意には好意(受け入れ)でもって答える。このように、好意には好意で答え(正の互恵性)、悪意には悪意で答える(負の互恵性)、いわゆるTit For Tat(しっぺ返し)的選好をプレイヤーは互いに持っていると考えると、2つの実験結果の違いを説明できる。
不平等回避の選好は、プレイヤーの配分に対する絶対的な公平感が結果に重要な影響を与える状況(分配的公平性)の分析には適しているが、実際には選ばれなかった選択肢までも考慮して、プレイヤーの意図(intention)が問題になってくるような状況(互恵的公平性)の分析には適していない。互恵的公平性の背後にある応報論理は、古代のハムラビ法典をはじめ、人類の歴史上かなり古い格律であり、ゲーム理論的思考にもマッチしやすいものである。
応報論理の説明力
Fehr and Gachter (2000)は、次のような2種類の公共財ゲームを実施した。1つ目のゲームは次のようなものである。はじめ各自は1000円を渡され、5人1グループとなる。次に、各自はもらった1000円のうちからグループのために投資する金額Xを決定し、その額を実験者に返還する。実験者は、5人の投資額の合計Yの0.4倍の額を各人に払い戻す。したがって、個人の最終的な利得は1000-X+0.4Yとなる。このゲームでは、他人の行動を一定とすると、1円をグループに投資しても、それによって払い戻されるのは0.4円であり、投資1円あたり0.6円の損になる。したがって、グループに投資しない方がよい。しかし、他人がグループに投資してくれるのは歓迎である。他人が1円投資するたびに、コストなしに自分の利得は0.4円づつ増えていくのだから。これがいわゆる「ただ乗り」問題である。この実験をしばらく繰り返すと、次第に誰もグループに投資しなくなる傾向がある。
2つ目のゲームでは、まず先ほど説明した公共財ゲームをプレイする。その後、各人のグループへの投資額の一覧が開示される。今度は、その一覧を見ながら、他人に罰金を科すことができるようにする。ただし、他人に1円の罰金を課すコストは、罰金額が大きくなるほど逓増していくものとする。この場合、コストをかけて他人に罰金を科しても自分のもらえる額は増えないのだから、コストをかけるだけ無駄である。したがって、均衡では誰も他人に罰金を課さないと考えられるので、結局このゲームは最初のゲームと同じゲームと考えてよいことになる。そうすると先に見た通り、やはりグループに投資しない方がよいことになる。しかし、この実験ではすぐにみんなが多くの額をグループに投資するようになる。他人から罰金を科されるのが怖いからである。このように、復讐・制裁の恐れが、経済理論の予測に反してグループ内の協力を生み出していく。ここでもまた、好意(グループへの投資)には好意(グループへの投資)で答え、悪意(ただ乗り)には悪意(罰金)で答えるという応報論理が作用していると考えられよう。
応報論理からの離脱は可能か
他の例として、復讐・制裁の恐れが協力の発生の有力な源泉であることは、囚人のジレンマの無限回繰り返しゲームにおけるフォーク定理が示している(注2)。一度でも相手が協力から逸脱すれば、以降は無限に制裁的行動に出る戦略が協調を維持することを可能にする。「協力から逸脱すれば、他のプレイヤーたちから制裁を受けることになるから、協力した方がよい」という論理で、人々の協力行動を説明する応報論理はわかりやすいし、ゲーム理論でもこの論理を用いた説明が多数なされてきた。しかし考えてみれば、応報論理が貫徹した世界はかなり殺伐とした世界である。
芥川龍之介の『羅生門』では、死者たちは生前に罪を犯した者だからという理由でその頭髪を闇に売りさばく老婆の犯罪的行為に対し、同じ論理で老婆の衣服を奪い去る行為を正当化する、まさに応報論理を信条として行為する下人が出てくる。これを読むたびに、ひとたび協力からの逸脱が発生すると、復讐に次ぐ復讐に支配された世界に私達は落ち込まざるを得ないのだろうかと考えてしまう。
ギリシア悲劇詩人アイスキュロスの「エウメニデス(恵み深い女神たち)」には、父アガメムノンを殺害した母クリュタイメストラとその愛人アイギストスに復讐を果たした息子オレステスが、エリニュエス(復讐女神)による執拗な血の贖いを求められるものの、最後にはこの復讐に告ぐ復讐の連鎖を断ち切る決議がアテナイにおいて投票によって決定される様子が描かれている。このように紀元前5世紀頃の文書に、すでに応報論理からの離脱の道が示されている。
また、穂積陳重が『復讐と法律』で描いているように、人間社会の法や規範は、すでに古代より、復讐に次ぐ復讐という血なまぐさい応報論理から逃れることを課題としていた。事実、人間社会は私刑(リンチ)から刑法にもとづく法の支配へと着実に進歩を続けてきている。
応報論理からの離脱ー群淘汰ー
では、応報論理からの離脱はいかにして可能になるのかを考えてみよう。
信頼ゲームというこれまで述べてきた交渉ゲームと類似のゲームにおいて、ヨーロッパ系ユダヤ人とアジア・アフリカ系ユダヤ人との民族的差異の比較研究に関する実験については、すでに川越 (2003)で一度ふれた。一般にヨーロッパ系ユダヤ人の方が所得水準や教育水準が高く、信頼に値するグループであると信じられている。実験では、被験者は、相手の被験者が実際にどのような行動を選んだかではなく、相手がヨーロッパ系ユダヤ人であるか否かで行動を変えたのである。
このように、応報論理ではなく、プレイヤーがどのようなグループに属しているか、そしてそのグループが他のグループと比べてどれだけ優れた成果を挙げているかということが、進化的に生き残る戦略を決めていく。これを群淘汰(group selection)の理論という。この考えによって、たとえば囚人のジレンマ・ゲームにおける協力行動の発生が説明できることをSober and Wilson (1998)は示している。たとえ、自分の属するグループでは裏切られひどい目にあっても、他人に協力的な行為はグループ全体の適応度を上げ、結局そうした協力的行為に満ちたグループが進化的に生き残るグループとなり、協力行動が進化的に維持されるようになるのである。
旧約聖書の「ヨブ記」は、善人が報われないのはなぜかという問いによって、応報論理と現実との乖離を正面から取り扱った珠玉の文書である。信仰の人ヨブは、サタンの神に対する挑戦に巻き込まれて、財産や家族を失い、自分自身も重い病に倒れる。ここには、好意(神への信仰)が好意(神からの恵み)によって報われるという応報論理は働いていない。ヨブは自分の生まれた日を呪う。しかし、神への信仰にとどまり続ける。それは、たとえ応報論理によって報われなくても、サタンの側につくことより神の側にとどまることの方が恵み多き人生を送れるからである。
公平性に関するゲーム理論は、群淘汰の理論をはじめとして、今後は応報論理を超える社会規範・倫理を説明するような理論を探求していく必要があるだろう。