Special Report

なぜ農家の所得だけ保障しなければならないのか?
-繰り返し農家所得だけが政治に取り上げられる理由

山下 一仁
上席研究員

政府・与党内で農業政策を変更しようとするときに、必ず農家の所得が問題視される。非正規労働者やシャッター通り化した中小の商店主など経済的弱者の人たちに、国からお金を交付して、その人たちの所得を引き上げようとする政策がとられることはない。しかし、農家にだけは、平日はサラリーマンで週末だけ農業に従事する兼業農家に対しても、所得確保のための交付金が、税金から支払われる。今回、政府・与党間で減反政策の変更が議論される過程でも、農家の所得がどうなるか、具体的にどうしたら引き上げられるかが議論された。生活困窮者の人たちには、生活保護費の支給制度が用意されている。それでは足りないのだろうか? なぜ農家だけ特別なのか?

農林水産省は、今回の政策変更によって、主食用ではなくエサ用にコメを作付けた場合に大幅に補助金額を引き上げることとしたことや、新たに農地維持のための活動をしていれば補助金を出すという仕組みを導入したことから、平均的な農業集落では農業所得が13%増加するという試算を公表した。もちろん、米価は下がらないことが試算の前提である。

政治家にとって、政策変更によって選挙区の農家の所得がどう変わるかということは、大変重要なことである。農家の不興を買うような政策を導入すれば、次の選挙で落選するかもしれないからである。

最近の選挙で、農業団体である農協はTPP反対の一大運動を展開し、農村部の国会議員はTPP反対や農産物関税撤廃反対を農協に約束して、当選を果たした。農業が衰退し、農家人口も減少しているのに、なぜ農家や農協の政治力が増すのだろうか。重要なのは選挙制度の変更である。2人の候補者が競っている小選挙区制では、たとえ1%の票でも相手方に行くと、2%の票差になってしまう。これを挽回するのは容易ではない。ある衆議院議員は私に、「選挙になると、対立候補に本当に‘殺意'を持ちます」と語った。これは、嘘いつわりのない言葉だろう。農業票にはもはや候補者を当選させる力はない。しかし、小選挙区制の下では、落選させる力は十分持っている。1%でも、逃がしてはならない組織票なのだ。農村部では農業票は5%程度くらいある。候補者にとって、組織された圧力団体の票ほど怖いものはない。

今回の政策変更は、2010年度に民主党政権が導入した戸別所得補償を従来から自民党がバラマキだとして批判し、この廃止を選挙公約に掲げていたことから、行われたものである。この戸別所得補償が減反の目標数量を達成した農家に払われるという仕組みだったことから、戸別所得補償を廃止することが、減反の廃止だと報道されるようになった。本来、減反の見直しはイッシューではなかったのだ。

戸別所得補償とは、10アールの水田について1万5000円(その積算根拠は農家への保証価格と市場価格との差)を支払い、また米価が一定の水準より下がったら、下がった分を支払うというものだった。これは、本業がサラリーマンの農家にも農業の所得を補償するというとんでもない政策だったが、農家の受けは良かった。その名前が示す通り、農家の所得を補償しようとしたものだったので、この政策を廃止することにより、農家の所得が減り、選挙で危なくなるのではないかと、与党の人たちは心配したのである。

結果的には、戸別所得補償は直ちに廃止するのではなく、来年度は半額の7500円を残すこととした。5年後に廃止するとされているが、2002年に2007年にコメの生産目標数量(減反目標である)の配分を止めるとしながら、2007年に実施後直ちに撤回されたように、農政の世界で将来の約束は空証文に終わることが少なくない。今回も、自民党の選挙公約では戸別所得補償は廃止されるはずなのに、そうはならなかった。しかも、誰一人として公約違反だと責める農業関係者はいない。

なぜ、農家の所得だけ取り上げられるのか? いつも農家所得だけが政治に取り上げられる

中国では、農村部の所得よりも都市部の所得の方が3倍も高いという問題が、内政上の最大の課題となっているが、実は、戦前の日本も同じような問題を抱えていた。都会に比べ、農村は貧しかった。小作人は収穫したコメの半分近くを地主に小作料として納めなければならなかった。小作人は手元に残ったコメを売って、翌年の生産のための肥料代や生活費に充てた。このため、小作人の中には、自分が作ったコメを食べられない人たちもいた。死にそうな人の耳元で、コメを入れた竹筒を鳴らして、死出の旅立ちとしたという話もある。特に、1930年の昭和恐慌の際には、豊作も重なって米価が暴落し、その翌年は東北や北海道で凶作となり、食べる食料もなくなったことから、東北では娘を身売りするという悲惨な状況になった。

小倉武一や伊東正義など、戦前農林省に入った人たちは、農村の悲惨さを目の当たりにして、農村の貧困を克服しようという意気に感じた人たちだった。戦前の農政官僚たちは、小作人の地位向上のために、地主階級とその利益を代弁する帝国議会の政治家たちに挑戦し続けた。その執念というべき情熱が実ったのが、戦後の農地改革だった。歴史の教科書では、農地改革はGHQ、占領軍が行ったと記述されているが、間違っている。財閥解体などの戦後の経済改革の中で、唯一農地改革だけは日本政府、農林省の発案によるものだった。もちろん農地改革に反対する当時の保守党を説得するために、GHQの力は借りた。しかし、農地改革を発案し、実行したのは、農林省だった。

農地改革によって、小作人は小地主になった。その土地を宅地や公共事業の用地に転用することで膨大な利益が、農家の懐に入った。1965年ごろからは、新産業都市の建設などによって、農村近くに雇用の場ができたことから、兼業化が進んだ。

コメについては、機械化が進み、農作業に必要な時間が大幅に縮小したため、平均的な規模の水田では週末の作業だけで十分となった。米と書いて八十八手間がかかると言われた時代は過去のものとなった。“おしん”はもういない。1日8時間労働として、1ヘクタール規模の標準的なコメ農家が、1951年には年間251日働いていたのに、2010年ではたった30日しか働いていない。このため、コメ作農家の兼業化が顕著に進んだ。農村で農業を行っている人も、ほとんどが本業はサラリーマンで週末だけ田んぼに立つ兼業農家となった。

図:10a当たり労働時間/年

この人たちは、規模が小さい小農だが、サラリーマンなので、決して貧しい人たちではない。1961年の農業基本法は農工間の所得格差の是正を目的に掲げたが、1965年以降、農家所得は、米価の引き上げと兼業化の進展によって、勤労者世帯の所得を上回って推移するようになった。農村から貧困は消えた。農家所得の中で、農業からの所得は110万円、兼業などの農業以外からの所得は農業所得の4倍の432万円、年金等は229万円となっている。今の農村に小農はいるが、貧農はいない。小農は豊かな兼業農家である。

図:農家総所得と農業所得の推移
図:農家所得の内訳推移

小さな兼業農家は、週末しか農業ができないので、農業に多くの時間をかけられない。雑草が生えると農薬をまいて処理してしまうような、農薬・化学肥料多投の手間ひまかけない農業を実施している。規模が大きい農家ほど農業に多くの時間をかけられるので、環境に優しい農業を行っている。コメでは、1ヘクタール未満の農家では環境保全型農業の取組みは2割もいないのに、10ヘクタール以上だと5割を超える(2000年)。

図:コメの作付規模と環境保全型農業の取組割合(2000年)
図:コメの作付規模と環境保全型農業の取組割合(2000年)

しかしながら、都市的地域に住み、農から離れて久しい多くの国民が農業や農村に対して持っている知識やイメージは、農業や農村との付き合いや実体験を通じたものではなく、学校教育、書籍や「おしん」のようなドラマから得られる、観念的で標準化されたものである。つまり、農村では、ほとんどの人が農家で、貧しく、コメ作に精を出しているというイメージ、既成観念である。貧農で、肥料・農薬も使えない農業をやっているという、戦前の健気な小農のイメージは、多くの国民のノスタルジーをかきたて、零細な(兼業)農家への共感を生む。ここに豊かな“農家の所得を保障する”という発想が生まれる。

では、農業政策はいらないのか?

農家所得を問題にすべきではないとしても、食料を安定的に国民に供給するための食料安全保障の機能や水資源の涵養など農業が農産物の生産以外に果たす多面的機能を維持・増進するためには、農業を維持・発展させる必要がある。しかし、それはあくまでも国民・消費者のためだ。戦前の農政官僚は、この点を片時も忘れたことはなかった。農商務省最初の法学士である柳田國男は、米価を上げて農家の所得を保障すべきではなく、消費者のことを考えるのであれば、外米を輸入して米価を下げた方がよいと主張する。

2度農林大臣を務めた戦前の農政官僚を代表する石黒忠篤は、「国の本なるが故に農業を貴しとするのだ。国の本たらざる農業は一顧の価値もない」と言い切る。石黒にとって、国の本たる農業とは、国民に食料を安定的に供給するという責務を果たす農業だった。

しかし、減反政策のように、高米価を維持するために、食料安全保障に不可欠な農地資源を減少させ、多面的機能を果たす水田を水田として使わせない政策が採り続けられている。なぜだろうか? 食料安全保障とか多面的機能とかは良い概念なのだが、これらから政策が導かれたことなど1度もなかったからである。ある政策を説明するために、後付けの理由として、これらのキーワードが活用されただけだった。

今の減反政策のようにコメの生産を減少させ、国民消費者に高い米価を強いることは、柳田國男以来農政の本流にいた人たちがもっとも嫌ったことだった。経世済民という経済政策の原点を農政は忘れてはならない。

2013年12月26日

2013年12月26日掲載

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